伝統ある俳句結社誌「寒雷」が終刊になるので、今号では特集「ああ!「寒雷」終焉」が組まれている。「寒雷」は言うまでもなく加藤楸邨主宰である。昭和十五年(一九四〇年)に創刊され、紆余曲折はあったが楸邨死後の平成三十年(二〇一八年)までに九〇〇号を刊行した。楸邨は明治三十八年(一九〇五年)生まれで水原秋櫻子主宰の「馬酔木」で本格的に俳句活動を始めた。代用教員の仕事をしながら東京文理科大学(現筑波大学)を出た苦労人である。平成五年(一九九三年)に八十八歳で没した。
まず、「寒雷」に関係する結社の流れをみたい。近代俳句史の大きい流れは正岡子規と高濱虚子の「ホトトギス」に始まり、水原秋櫻子の「馬酔木」が大きい分流となり、楸邨の「寒雷」がそこから分かれ、さらに森澄雄の「杉」、金子兜太の「海程」の流れとなった。「馬酔木」からは、石田波郷の「鶴」の分流が生じた。「ホトトギス」からは中村草田男の「万緑」が分かれた。
優秀な俳人は結社を創刊し、優秀な門人を集め、その門人は独立してさらに結社を作り優秀な門人を集める、といった繰り返しによって俳壇史は作られていく。深く尊敬する師を持つ俳人はまた後進に尊敬されていくのではないか。結社なくして俳壇は存在せず、俳壇史もまた結社の歴史なくして存在しえない。時代はいつも結社の時代である。結社が滅べば俳壇と俳句が滅ぶ可能性が高い。
(坂口昌弘「総論~「寒雷」の役割 誰かもの言へ声限り」)
特集総論で坂口昌弘さんが書いておられるように、近現代俳句の基礎となったのは子規・虚子の「ホトトギス」であり、花鳥風月墨守の虚子に反旗を翻した秋櫻子の「馬酔木」だった。「馬酔木」創刊が現代にまで至る百花繚乱の結社時代の嚆矢となったわけだが、「馬酔木」に拠っていた楸邨と波郷が新たに「寒雷」と「鶴」を創刊し、「ホトトギス」から出た草田男が「万緑」を創刊したことがセットで語られるのは、彼らが「人間探求派」と呼ばれるようになったからである。
秋櫻子は懐の広い俳人で、「馬酔木」は昭和初期の新興俳句の母胎にもなった。新興俳句は基本的には俳句で初めて作家の強い自我意識を打ち出した文学潮流である。初期は当時の自由詩のモダニズム運動の影響を受けた高屋窓秋や篠原鳳作らが代表的作家だが、次第に社会批判的意識を高め、昭和十五年(一九四〇年)から十八年(四三年)にかけて治安維持法違反容疑での俳人たちの大量検挙事件――新興俳句弾圧事件が起こったのはよく知られている。後期新興俳句を代表する作家に平林静塔、日野草城、西東三鬼、富澤赤黄男、渡辺白泉、秋元不死男らがいる。
ただ秋櫻子は虚子門生え抜きで宮内省侍医でもあったので穏当な作風を貫いた。楸邨、波郷、草田男も同様である。彼らは戦中に大政翼賛的な俳句を詠んだが明確な皇国思想(右翼思想)の持ち主だったとは言えない。むしろノンポリだったので当時の社会情勢に素直に従って翼賛句を詠んだと言える。もっと突っ込んで言えば、楸邨らの俳句は後期新興俳句作家たちのように強い自我意識で社会批判を行うことにはなく、「ホトトギス」-「馬酔木」的伝統俳句に即して俳句文学の可能性を探求することにあった。
これもよく知られていることだが、秋櫻子が門弟だった楸邨と波郷の俳句、それに「ホトトギス」の草田男俳句が難解だと発言したことから、当時「俳句研究」編集者だった山本健吉が楸邨、波郷、草田男それに篠原梵を集めて座談会を開いた。健吉が「貴方がたの試みは結局人間の探求といふことになりますね」と発言したのに対して楸邨が「新しいか否かは人の見るところによつてちがひませうが、四人共通の傾向をいへば「俳句における人間の探求」といふことになりませうか」と答えたのが人間探求派の始まりである。
ただその後一人歩きすることになった「人間探求派」の内実をスッキリとまとめるのは難しい。杓子定規に言えば、後期新興俳句派の富澤赤黄男が、戦後最大の前衛俳句運動である高柳重信の前衛俳句を生み出した。重信の前衛俳句は独自の多行形式をともなうものであり、新興俳句派が始めた強固な作家の自我意識を受け継いで俳句で新たな形式を生み出そうとする斬新なものだった。しかし〝人間〟の〝探求〟という名称ではあるが楸邨、波郷、草田男らは必ずしも作家の強い自我意識を必要としていなかった。特に楸邨には不可解な点がある。
言いにくいが作品だけ読めば、楸邨よりも明らかに波郷、草田男の方が上である。もちろん異論はあるだろうが〝パッと読めば波郷、草田男の方が楸邨より上〟と言った方がわかりやすいかもしれない。しかしにもかかわらず楸邨は俳壇に多大な影響を及ぼした。
総論で坂口さんが書いておられるように、楸邨「寒雷」からは森澄雄の「杉」や金子兜太の「海程」が生じた。特に兜太の社会性俳句は重信前衛俳句全盛期にそれに対抗できるほぼ唯一の勢力であり、かつ重信死後に前衛俳句が見る影もなく衰退していったのに対して、現在でも俳壇で強く支持されている文学動向である(「海程」そのものは兜太の死去により平成三十年[二〇一八年]に終刊)。それゆえ楸邨は俳壇で、兜太「海程」まで続く〝楸邨山脈〟を作ったと言われたりするわけだが、その機微を理解するのはなかなか難しい。小説や自由詩を読むようにはいかない俳句の難しさである。
棉の実を摘みゐてうたふこともなし
麦を踏む子の悲しみを父は知らず
せんすべもなくてわらへり青田売
鰯雲人に告ぐべきことならず
灯を消すやこころ崖なす月の前
水温むとも動くものなかるべし
死ねば野分生きてゐしかば争へり
死や霜の六尺の土あれば足る
初期作には作家の資質が表れやすいが、楸邨俳句には諦念漂う表現が多い。「うたふこともなし」「知らず」「せんすべもなく」「告ぐべきことならず」と否定型が多いのだ。「死や霜の六尺の土あれば足る」にあるように、人生で多くを望んだ人だとは思えない。なるほど楸邨は晩年に紫綬褒章を始めとする現世的栄誉を数多く受けたが、強烈な出世欲は持っていなかっただろう。
「人間探求派」とは呼ばれたが、楸邨は俳句で人間の強固な自我意識を探求しようとはしていない。つまり楸邨にとっての人間は、明治維新以降に日本人の誰もが天与の権利として意識することになる、唯一無二で個々人固有の自我意識存在ではないのだ。これは波郷や草田男にも共通している。楸邨と比べれば波郷や草田男の句は斬新で前衛的だが、新興俳句から重信前衛俳句につながる固有の自我意識を前提とした前衛とは質が異なる。あくまで俳句伝統に沿った、言い換えれば俳句を主語にした人間性探求でる。
秋蟬のこゑ澄み透り幾山河
薔薇剪れば夕日と花と別れけり
雲の峯奥から動き出しにけり
最も楸邨らしい俳句はこういった作品になるだろう。いずれの作品も新興俳句や前衛俳句などの、強烈な作家の自我意識に裏付けられた作品と比べれば淡い。ただこれらの句には自然と一体化した楸邨の自我意識が表現されている。
「秋蟬のこゑ澄み透り幾山河」は単純な写生俳句のようだが、蟬の声を澄み透らせるのは楸邨の心(自我意識)である。「雲の峯奥から動き出しにけり」も同様で、奥から湧き出でる雲は楸邨の心の動きそのものだ。「薔薇剪れば夕日と花と別れけり」では自然に溶解した自我意識の句とは逆に、薔薇を剪るという楸邨の能動的な行為が「夕日」でも「花」でもない境地に心を誘う。
少し乱暴に大別すれば、俳句には「俳句を詩として捉える方法」と「俳句を俳句として捉える方法」の二種類がある。前者は小説や自由詩と同様に強い作家の自我意識を前提としている。後者は自然と一体化し、そこに作家の自我意識が溶解する俳句――つまりは有季定型写生の方法を主軸とする。明治維新以降の日本文学はすべからく自我意識文学になったわけだから、俳句の現代性は前者が担うことになる。しかし小説や自由詩などとは異なる俳句の独自性を探究すれば、その特徴は後者にこそ表現されていることになる。
このあたりが自由詩の詩人たちが新興俳句や重信前衛俳句に強く惹き付けられるのに対して、多くの俳人たちが楸邨をこそ重要と考える理由である。ただし自我意識文学としての俳句、非自我意識文学としての俳句のどちらが俳句文学の王道なのかを争うのは意味がない。現代俳句とは両者の混合であり、かつその仕組みを正確に理解するのが重要である。
自我意識を絶対とすれば、俳句は作家のエゴにまみれなグロテスクで醜い表現になりやすい。非自我意識文学としての俳句を是とすれば、俳句は特徴のない花鳥風月に流れ、ほんのささいな表現に作家の個性を見出す深読み文学になりがちだ。俳句は自我意識文学とは言えず、かといって自我意識表現をなくせば現代文学の要件を失う。俳句は奥が深く難しい文学である。
岡野隆
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