『ポルトガルギターを弾く女性の色絵陶器』
口径二九・九×高さ五・五×高台直径九センチ ポルトガル製 十九世紀 著者蔵
前回はちょっと学術論文的なエッセイになってしまったので、今回は気楽な骨董を取り上げます。ポルトガルの色絵陶器なのだが、エッセイの参考にポルトガル関係の資料を探してみたところ、これがまー少ない。手軽に入手できる本はるるぶ系の観光案内のほか、ポルトガル史に関する数冊くらいだった。窯業が盛んでないからだろうが、ポルトガル陶器についての本は見当たらなかった。美術館でポルトガル文化展が開催された気配もない。これは意外だった。遠く離れている国なので気軽に行けるわけではないが、日本人にとってポルトガルは少なくとも心理的に近しい国である。
日本語になったポルトガル語が数多くあるのはよく知られている。モノの名前だとコップ、カルタ、フラスコ、ボタン、オルガン、ビードロ、ブランコなどがすくに思い浮かぶ。食べ物ではキャラメル、コンペイトウ、バッテラ、テンプラ、カステラなどがポルトガル語語源だ。民俗学者の池田与三郎さんが、ポルトガルにテーラとメーラという腕のいい菓子職人の兄弟がいて、二人で力を合わせればもっと美味しいお菓子ができると共作したのがカステーラだという与太話を書いておられましたな。ネタ元は江戸の随筆かもしれないけど。
これもよく知られているが、日本に初めて来航したヨーロッパ船はポルトガル船籍だった。歴史の教科書に必ず出て来る種子島への鉄砲伝来で、室町末の天文十二年(一五四三年)のことだった。ポルトガル人二人のほかは中国系船員で筆談で話せたので、種子島島主は鉄砲を買うことができたようだ。当時ポルトガルを始めとするヨーロッパ諸国は大航海時代で、アフリカ喜望峰経由でインド、東南アジア、中国航路を開拓していた。大西洋を渡って南北アメリカに植民地の拠点を作りつつもあった。
ポルトガルによって日本航路が開拓されると、イギリス、オランダなどの船が次々に来航した。中国沿岸部経由で日本に着くので、最初に接触したのは九州の諸大名たちだった。時代は戦国時代で諸侯は近隣大名と激しく争っていたから、鉄砲を始めとするヨーロッパ先進製品に飛びついた。ただヴァスコ・ダ・ガマがインドのマハラジャと会見した際に来航の目的を聞かれ、「胡椒の獲得とキリスト教の布教」と答えたように、ヨーロッパ諸国の交易は布教と一体だった。大友宗麟を始めとする多くのキリシタン大名が生まれた。フランシスコ・ザビエルがインドのゴアから来航して、京都で天皇に謁見して日本での布教の勅許を得ようとしたこともよく知られている。
この室町末から江戸初期までが、幕末以前の日本とヨーロッパ諸国との本格的交流期間である。わずか五十年ほどだった。その痕跡は南蛮屏風と呼ばれる巨大で華麗な屏風や、日本から輸出された漆器(南蛮漆器)などとして残っている。ただキリストを唯一の主(主君)だと説くキリスト教に危機感を覚えた豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、徳川の世になるとそれが徐々に厳しくなって遂にキリスト教は絶対的禁教になった。
キリスト教の禁教令と同時に徳川幕府は鎖国政策を採った。当時清朝中国が海禁令を出して鎖国していたのでそれに倣ったのだが、交易相手を朝鮮とオランダに限定した。オランダはカトリック国スペインと戦って独立を勝ち取ったので、海外布教の意志のないプロテスタントだと売り込んだのだった。貿易を独占するためのタテマエである。オランダにはカトリック教徒もたくさん住んでいた。まあ宗教を含めたイデオロギーなどいつの時代でもそんなものだ。当時のヨーロッパ諸国は異教徒民族に対して高圧的だったが、オランダは貿易権を得るために将軍に家臣として謁見するという体裁も厭わなかった。
当時日本で作られた南蛮屏風を見ると、イエズス会のほかドミニコ会、フランシスコ会などの宣教師が来日していたことがわかる。彼らはポルトガルのアジア貿易の拠点である中国のマカオや、スペインが中国貿易の拠点としたフィリピンのマニラからやってきた。大航海時代初期のポルトガルとスペインは世界航路の利権を巡って激しく争ったが、日本でいざこざを起こしたという記録はない。一定の協力関係を結んでいたようだ。また最終的にオランダが対日貿易を独占することになるが、日本語に残ったポルトガル語が多いことからわかるように、最も日本社会に入り込んでいたのはポルトガル人だった。
このおおむね桃山の南蛮文化時代が、日本でポルトガルにフォーカスが当たるほぼ唯一の機会である。美術館でも南蛮文化展なら何度も開かれている。ただ江戸幕府が絶対的禁教にしたこともあり、当時の記録や遺物は少ない。特に江戸初期の幕府の強大な権力を怖れた庶民の間では、オランダ以外の国の記憶(記録)は抹消された気配である。イエズス会のIHSの紋章が入った漆器の宗教用具などは残っているが、どの国が発注してどこで使われたのかまでははっきりしない。宣教師の報告書などを除けば、はるばる日本に来てくれたポルトガル人の具体的な言動記録はほとんど残っていないのである。が、まったく消え去ってしまったとは言えないのが文化の面白いところである。
明治維新以降の近現代に、初めて桃山南蛮文化の記憶を掘り起こしたのは北原白秋だった。明治四十二年(一九〇九年)刊行の処女詩集『邪宗門』である。邪宗とはキリスト教のことで、明治時代には江戸幕府の禁教の影響でまだキリスト教に抵抗のある人々が多かった。白秋はその強い抵抗感を世界の神秘を解き明かす秘法に変えたのだった。禁じられた怪しげな黒魔術から、理知的で世の中に寄与する白魔術への転化である。
われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂鋭きあんじやべいいる、
南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍酡の酒を。
(北原白秋『邪宗門秘曲』)
『邪宗門秘曲』は詩集冒頭に置かれた作品だが、白秋は「切支丹でうすの魔法」を求めている。ただし考証的には様々な要素が混交している。キリシタンやカピタンはポルトガル語だが、紅毛はオランダ人のことである。南蛮人はオランダ人(紅毛人)以外の外国人を指すことが多かった。
明治維新で日本人は、合理的な思考方法で産業革命を起こし、世界の圧倒的先進国になった欧米諸国から大きく立ち後れていることに気づいた。どんなに屈辱的で滑稽であろうとも、明治初期の人々は欧米文化に学びそれを吸収せざるを得なかったのである。そんな精神的状況を端的に表現したのが、維新後に欧米詩の翻訳とその模倣から始まった自由詩(新体詩)だった。
白秋『邪宗門』は欧化主義で、衣食住から政治経済に至るまで欧米文化を模倣せざるを得なかった当時の社会を、遠く桃山南蛮文化時代にまで精神を遡らせることで表現している。鹿鳴館に代表されるように、欧米に随従するかのような姿勢は当時の国粋主義者たちから激しく批判されていた。現実に即せば殺伐としてしまう欧化主義を、白秋は隠れキリシタンの見慣れない言葉を使い、声に出して読めば耳に心地良い文語体の詩として表現したのだった。日本人が欧化主義で得ようとしているものは遠く桃山時代にまで遡り得るのであり、その本質は世界の神秘の把握にあると抽象化したわけである。
白秋は歌人でもあり、その読解を通して歌人の馬場あき子は「白秋の詩には意味で読み解ける思想はない。音やリズムなどの韻律が白秋の思想である」と喝破した。まったく馬場さんのおっしゃる通りで、白秋は『邪宗門』序文で「詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。(中略)縹渺たる音楽の愉楽に憧れて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや」と書いている。白秋の詩は当時象徴主義詩と呼ばれたが、本家フランスの象徴主義とはほとんど関係ない。
ただ感覚を研ぎ澄ます詩人の例に洩れず、白秋の直観は案外正しいものだった。幕末の蘭学はオランダ経由であり、維新後に医学はドイツ、法律や議会制度はイギリス、産業はアメリカといったふうに日本は欧米文化を受容した。幕府は万延元年(一八六〇年)にポルトガルとも日葡和親条約・日葡修好通商条約を結んだが目立った交流はない。実際に来日して身近に接する外国人よりも、未知の国の人と文化の方が想像力を掻き立てるのは言うまでもない。
世界の神秘を求めた白秋『邪宗門』は様々な南蛮文化の混交だが、加比丹に代表されるポルトガル語の言葉が中心になっている。ポルトガルは日本人にとっては維新後も、心理的に馴染みはあるが遠い国のままだった。
昼顔の見えるひるすぎぽるとがる 加藤郁乎
もう一つ南蛮文化の記憶を蘇らせた作品を挙げると、加藤郁乎の「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」になるだろう。昭和三十四年(一九五九年)刊の句集『球體感覺』巻頭句である。『邪宗門』と違いポルトガルを直截に詠み込んでいる。この句は名句として名高いが、なぜ名句なのかを説明しようとすると、芭蕉『古池』と同様、言葉に詰まってしまうことになる。
ただこの句は白秋と同様に、「見える」「ひる」「ぽるとがる」と感覚的な音韻によって成立している。また「昼顔」と「ぽるとがる」を対比させ、カタカタではなく平仮名で「ぽるとがる」と表記したのも利いている。意味ではその魅力を捉えきれず、どこか痴呆的な茫漠とした広がりを感じさせる。この句について、俳人の安井浩司さんが面白い回想を書いておられる。
私事ながら、郁乎に接近しながらも、まもなく高柳重信の門をくぐるようになったわけだが、日頃、重信に会うごとに、氏は大いに酩酊しては、《自分は生涯に二人の弟子を作った。その作品を代表するのが加藤郁乎であり、評論を担うのが折笠美秋である》と口癖のように百万遍くり返すのである。そして、挙句には決まって、《昼顔の見えるひるすぎぽるとがる》なる一句を、まさしく自作のごとく、陶酔するごとく、はた呪うごとくに吟ずるのであった。
(安井浩司「屹立する一回性―わが『球体感覚』」)
高柳重信は多行俳句に代表される前衛俳人だが、俳人にしておくのは惜しいほど論理的な思考のできる頭のいい人だった。重信ほど怜悧な俳人は近現代俳壇で皆無である。その重信が郁乎の「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」を愛した。自分の句であるかのように吟じた。その際の重信の声は残っていないが、しんみりと吟じたわけではあるまい。勢いよく、叫ぶように、吐き捨てるように「昼顔の見えるひるすぎぽるとがるーっ!」と言ったはずである。その発声にこの句の秘密がある。
「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」は痴呆的なのではなく、正しく痴呆の句なのである。重信という人は、理知によって五七五に季語と固着化した俳句形式を解体しようとした。それを感覚的直観によって軽々と成し遂げてしまったのが郁乎だということである。重信が「自作のごとく、陶酔するごとく、はた呪うごとくに吟」じたのは、郁乎の句が彼が理想とする表現地平に達していたからである。理性を武器とする創作者の最終目的は、理性を超えた表現を得ることにある。
また「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」は、オランダでもイギリスでもアメリカでもなく、絶対に「ぽるとがる」でなければならなかった。これは感覚的選択であると同時に、直観に基づく文化的選択である。優れた文学者の直観が、純感覚的に働くことはない。ポルトガルは遠く桃山時代に日本文化に強い影響を与え、その後、忘れられ失われた文化である。その喪失感は奇妙なことに、近現代のポルトガル文化自体とも通底しているところがある。
話は前後するが、今回紹介した『ポルトガルの色絵陶器』は立派な杉の箱に入っていた。箱の蓋の表に「葡萄牙(ポルトガル)平鉢」の墨書があり、裏に「1961年 里須凡(リスボン)にて求之」とある。その横に旧蔵者の名前が書かれていたが、骨董ではよくあることだが売却する際に削り取られてしまった。一九六一年はまだ一ドル三六〇円の時代で、リスボンに行った日本人はとても少なかったはずである。商用か観光かはわからないが、リスボンから直径三〇センチ近い皿(鉢)を持ち帰り箱まで作ったのだから、かなりの骨董好きの旧蔵品だ。
ポルトガル陶器の参考図版がないので手がかりは少ないが、当たり前だが一九六一年以前に作られた物なのは確実である。十九世紀の作と推定したのは作り方の特徴による。少しわかりにくいが皿の見込みに三つの目跡があり、皿の裏にも目跡が三つある。目跡は陶器がくっつかないように粘土や砂などで作った支柱のこと。目跡で浮かせた皿を重ねて窯の中に入れて焼成する。狭い窯の中に詰め込んで、少しでも多くの陶器を焼くために考案された古くからある方法だ。現代に近づくと電気窯やガス窯が普及し、消費者もより洗練された製品を求めるようになるので目跡が残るような焼き方はしなくなる。陶器ではなく、軽く汚れにくい磁器が喜ばれるようにもなった。
また見込みに描かれているのは、十二弦のポルトガル独自のギター(ギターラ)を弾く女性の姿である。ポルトガルにはファド(ポルトガル語で運命や宿命の意味)と呼ばれる民族歌謡がある。ギターラを抱えた女性はファドを歌っているのである。こういった絵皿はヨーロッパでは飾り皿と呼ばれ、実際に使用することはない。絵と同様に壁に掛けて飾る。実際『ポルトガルギターを弾く女性の色絵陶器』の見込みを光りで透かして見ても、スプーンやナイフでついた傷がない。実用品としては使われていなかったわけだがそれなりに古びている。今から百五十年ほど前の、一八五〇年代前後に作られたと推測できる。
『ポルトガルギターを弾く女性の色絵陶器』見込み目跡
同 高台目跡
同 見込みの絵
ポルトガルは隣国で大国のスペインと協力し、時に併合され、反発して独立運動を繰り返しながら国家の基盤を固めていった。イベリア半島は長くムスリムに支配されていたが、スペインと共闘してムスリムを追い出したレコンキスタが完成した頃からポルトガルの全盛期が始まった。一四一五年のジョアン一世による、北アフリカモロッコの交易都市セウタの攻略が大航海時代の始まりだと言われる。
ポルトガルはスペインやオランダ、イギリスに先駆けてインド航路を開拓し、ゴアやマカオを拠点に東洋貿易を行った。南アメリカのブラジルに植民地国家も築いた。ただポルトガルの全盛期は長く見積もっても十八世紀頃までで、じょじょに力を失いヨーロッパ周辺国の地位に没落していった。一八二二年にはブラジルが独立し、ポルトガルは大きな収入源でもあった植民地を失った。一九一〇年には共和革命が起こり、マヌエル二世が英領ジブラルタルに亡命して、一一四三年から続いたポルトガルの王制国家は終わった。その後は軍事政権が次々に樹立され、一九七六年にようやく民政に移行したが、政治的には不安定で経済も伸び悩んでいる状態が続いている。
不安定な軍政時代にポルトガルを取材したジャーナリストは、「ポルトガルの為政者は政治から国民の関心を反らすために三つのFを与えた」と書いた。三つのFとはフットボール、ファド、ファティマのことである。サッカーがポルトガルの国民的スポーツなのは言うまでもない。フィーゴやクリスティアーノ・ロナウドなどの名選手を生んでいる。ファティマは聖母マリアが顕現したポルトガルの聖地のことで、ポルトガル人のキリスト教信仰は篤い。ファドが生まれたのは一八二〇年代だと言われる。ブラジルの黒人奴隷の歌がそれまでのポルトガル歌謡と融合してファドになった。初期のファドは場末の居酒屋や娼館で歌われた。娼婦が歌うことも多かった。
今回紹介した『色絵陶器』にはギターラを抱えてファドを歌う女性が描かれている。今では骨董になった陶磁器は、当たり前だが作られた当時は新物で、手早く売って利益を得るための商品だった。そのため皿に描かれる絵の流行の移りかわりは早い。まだファドが目新しかった十九世紀半ば頃に作られたという傍証になる。またファドはポルトガルの没落と退廃を象徴するような民族歌謡だった。
ポルトガル以外の平均的な全世界の人々にとって、ポルトガルとは、ヨーロッパのどこかにある、なんだかよくわからない小さな国である。
フェルナンド・ペソア
ある国家や文化・宗教共同体を理解しようとすれば、それを代表する文学者の作品を読むのが一番の近道である。日本でフェルナンド・ペソアが紹介されたのは最近のことだが、彼の作品を読んで初めてポルトガル文化に焦点が合った。ペソアはポルトガルが生んだ最良の作家である。
ペソアは一八八八年(明治二十一年)にリスボンで生まれた。五歳の時に父親が亡くなり、母親が南アフリカ領事と再婚したのでダーバンとケープタウンで英語教育を受けた。十七歳でリスボンに戻ってからポルトガル語で書き始めた。一九三五年(昭和十年)に四十七歳で亡くなった。リスボンで暮らし始めてから、外国旅行はもちろん、リスボンからも滅多に出ることはなかった。貿易会社でビジネスレターを書く仕事に就き、結婚はせず食事は街の食堂でとった。家に帰るとひたすら書き続けた。生前の文学者としての知名度は低く、詩集一冊しか出版していない。しかし死後に膨大な量の原稿が発見された。カフカによく似た生涯を送った作家である。ただペソアの一種の絶望は、カフカより遙かに深い。
ペソアは自分は平均的な愛国者だと書いているが、「ポルトガルとは、ヨーロッパのどこかにある、なんだかよくわからない小さな国である」と自国を相対化して突き放している。ペソアが書いた通り、それは「ポルトガル以外の平均的な全世界の人々」共通の認識である。ペソアはポルトガルをすでに盛りを過ぎ、没落した文化国家だと捉えている。ただペソア文学の絶望の深みは、かつて異様なまでの高みに達した文化からしか生まれない質のものである。
僕は逃亡者だ
僕は生まれるとすぐ
僕の中に閉じ込められた
だが僕は逃げた
人がもしおなじ場所に
飽きるのであれば
常にかわることのない己れに
なぜ飽きないことがあろう
魂は僕を探し索める
しかし僕はあてもなく彷徨う
ああ 僕は願う
魂が探しあてることのないことを
ある者であることは牢獄だ
僕であることはなにものかでないことだ
僕は逃亡者として だが
生きいきと生きることだろう
(フェルナンド・ペソア「僕は逃亡者だ」池上岑夫訳)
わたしは見た 自然などないことを
自然など存在しないことを
在るのは山 谷 平原
在るのは木 花 草
在るのは川 石であることを
そしてこうしたもののすべてが属する全体などないことを
一つの総体がまぎれもなく実在しているとすることは
われらの思想が病んでいることであるのを
自然は全体を持たぬ部分だ
これこそ恐らく神秘なるものだ
(アルベルト・カエイロ「夜中に 突然」)
神がみに願うのは唯ひとつ
神がみになにも請わぬのを許してもらうこと
幸せは軛 幸福であることは自由を奪われることだ
それもまたひとつの在りかただから
不安も平安もなく 我が静穏なる存在を
わたしは高きにおきたい 人間の
歓びと苦しみの在るところよりなお高い場所に
(リカルド・レイス「神がみに願うのは」)
いまぼくはページャを背にして
リスボンのただ中へ向かう
なにものも持たぬぼくはなにものも見出すことはないだろう
見出すことのないであろうものにぼくはすでに疲れ
ぼくの憶いは過去になく 未来にもない
ぼくはぼくの意図したものの 遺骸をこの本に記す
ボクハ雑草ノヨウニ在リ ボクヲ抜キ取ル人ハダレモイナカッタ
(アルヴァロ・デ・カンポス「旅の途次/見捨てられた本に」)
ペソアは本名のほかに、アルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスの名前で詩を書いて発表した。三人の出身地や生没年、著作まで創造している。ただペソアは複数のペンネームを使って詩を書き分けたわけではない。ペソア名で書いた詩で「ある者であることは牢獄だ/僕であることはなにものかでないことだ/僕は逃亡者として だが/生きいきと生きることだろう」とあるように、ペソアは本源的に複数人格作家である。もちろん統合失調症のような形で人格が分裂しているわけではない。
比喩的に言えば、ペソアの複数人格はヨーロッパ文学最先端の思想と感受性から生まれている。ヨーロッパ文学は、唯一神になぞらえられる強固な人間の自我意識を中心にその表現と思想の幅を拡げてきた。それが極点にまで達したとき、ペソアの複数人格の同時発生が起こった。
「自然は全体を持たぬ部分だ/これこそ恐らく神秘なるものだ」(アルベルト・カエイロ)とあるように、ペソアは世界を神の意志で統御された全体としては考えない。ヨーロッパ精神の解体を経た平面的な世界観だ。それはペソアが到達したまったく新しい世界認識だった。「ぼくはぼくの意図したものの 遺骸をこの本に記す」(アルヴァロ・デ・カンポス)とあるような、未踏の精神領域だった。
中心のない世界は分裂し拡散する。複数の作家存在が生まれただけではない、テキストもまた一冊の書物に収斂しない。しかし中心はないが求心力はある。ペソアが大量のテキストを書きながら、必ずしもそれを発表し、本にまとめることにこだわらなかった理由である。求心力があれば書き散らされたように見えるテキストは、それ自体で一つの書物であり、小宇宙としてまとまる。
旅をするだって? 旅をするためには存在するだけで十分だ。私は日々を、駅から駅へ移動するように過ごす。私の体や私の運命という列車にのって、通りや広場や顔や身振りに身を乗りだすが、それらはつねに同じで、つねに違う。そう、ちょうど風景がそうであるように。(中略)
「いかなる道も、このエンテプフルの道でさえも、おまえを世界の果てへと導くだろう」とカーライルは書いた。しかし、世界一周が果たされ、世界が知りつくされて以来、世界の果てとは、出発点であったこのエンテプフルそのものになってしまったのだ。実際、世界の果ても、世界の始まりも、世界にたいするわれわれの観念に他ならない。私たちのなかでこそ、風景はひとつの風景なのだ。だからこそ、想像しさえすれば、私は風景を造り上げることができる。そして、造り上げれば、それらは存在する。そして存在すれば、他のものと同じように、それらを見ることができる。(中略)どこにいても、自分の感覚の特徴や特性はついてまわるのだ。
人生とは、私たちが造り上げたなにかだ。どんな旅も、旅人たち自身なのだ。私たちが見るものは、見られたものではなく、私たち自身でできているのだ。
(フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』68 澤田直訳)
ペソアが書き残した散文は『不穏の書』、あるいは『不安の書』と訳されるタイトルの本にまとめられた。普通の書物のようにペソア自身が順番を決めて並べたわけではない。死後に編者が『不穏の書』(『不安の書』)として書かれたとおぼしきテキストを集めて整理して刊行したのである。ただ中心はなく求心力だけがあるペソアのテキストは、どんな順番で並べようと読もうと自ずと一冊の書物になる。
『不穏の書』断章68は、わたしたち二十一世紀初頭の精神風土を先取りしている。もはや世界に未知はない。世界は隅々まで情報で埋め尽くされ、未知はどんどん塗りつぶされ既知へと更新されてゆく。想像力で創りあげる文学の時代は終わったのだ。未知はもうわたしたちの内面にしかない。実際の旅行でインスピレーションを得るのではなく、内面深く潜行して新たな未知を見出さなければならない。それは「創造力は死んだ、創造せよ」の世界である。ペソアはカフカよりもさらに、現代のポスト・モダン的精神世界を先取りした作家である。
ペソアは「私があらゆることを想像できるのは、私が無だからだ」と書いた。何もないという意味の無ではない。ヨーロッパ的な自我の同一性(中心)が失われ、東洋的汎神論的世界に自我意識が拡がっているのである。だからペソアは「私は神話の創造者になりたい。それこそが人間の仕事として許される最高の神秘だ」とも書くことができる。ペソアの無とは、まだ形として現象しないエネルギー総体のことだ。西洋最先端の精神が辿り着いた先に東洋的世界認識が現れる。
ポルトガル民族は本質的にコスモポリタンである。真のポルトガル人がポルトガル人だったためしはない。なぜなら、彼はつねにすべてであったから。
(フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』70)
この断章は、奇妙なことに白秋が直観で捉えた『邪宗門』世界に、郁乎が「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」で詠んだ痴呆的世界観に似ている。極東の詩人たちは遠い桃山南蛮文化の記憶を呼び起こし、ポルトガル人がもたらした文化を実在したそれ以上の抽象概念にまで高めた。それは「すべて」を示唆する至高観念を指し示していた。
ポルトガルと日本は似ているところがある。ポルトガルはイベリア半島先端の小国だが海洋国家であり、島国的に海に向かって開かれている精神風土がある。また十六世紀に驚くべき繁栄に達したあと、ポルトガルの国力はじょじょに衰退していった。ペソア文学には繁栄の栄光を経た退廃が底の底まで窮まり、新たな世界認識として力強く反転して現れた気配がある。
日本もまた明治維新でヨーロッパ文化に打ちのめされた。圧倒的な世界の後進国だと自覚した。劣等生の子供のように次から次にヨーロッパ文化を、それも基本的に欧米文化は先進的で絶対的に正しいという認識で受容していった。しかし日本は気がつくと欧米と肩を並べていた。それはつい最近のことである。そして欧米と同じ文化水準に立ってみると、ペソアが到達したような汎神論的ポスト・モダン世界に、欧米とは違う道筋で到達していたのである。
よくわからないエッセイだな~とお思いになる方もいらっしゃるだろうが、これが僕の骨董の読み方である。『言葉と骨董』の書き方である。考えるヒントとして骨董を買うが、珍しいとか高価だとか味がいいとか、そんなことはどうでもいい。ポルトガル製の皿を一枚買って白秋や郁乎を思い出し、ペソアについて丸一日考えてエッセイを書いた。物は物にすぎず、そこから始まる文化の読解にしか興味はない。皿一枚を目の前にして、ペソアについて、ポルトガル文化について、今現在考え得る限りの思考を巡らせることができるならそれでいいのである。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
(2019/28 27枚)
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ フェルナンド・ペソアの本 ■
■ 金魚屋の本 ■