故郷とは、オリジンとは何なのか。それは実在の土地なのか、人々なのか、記憶の中にだけ存在するものなのか、あるいは常に新たに生み出される何かなのか。『故郷-エル・ポアル-』→『故郷-エル・ポアル-』注→『新故郷』と〝エル・ポアル〟を巡るテキストの旅は続く。
by 大野露井
第二部 ポアル
次の朝、僕はやはり冷たいコーヒーとマドレーヌを食べ、これから甦るであろうエル・ポアルの記憶を弾丸のように頭のなかに装填した。そして祖母と不自由ながら言葉を交わしている最中、僕は昨日のロサ叔母さんとのやりとりを祖母にも伝えたいと思いながら、もちろんそうしなかった。祖母は静かに首を振っていた。
「運転手みたいで嫌だから」というカルメンの要望で、僕は助手席に坐った。もはや会話の種は尽きていたが、それでよかった。下手に会話があればそれをどのように記憶するべきか、また改竄するべきかについて知恵を割かなければならない。会話がないという事実はそれだけでカルメンと僕の関係にもはや発展性がないことを如実に示してくれる。
思ったよりも早く、車はあの懐かしい墓地に横づけされた。エル・ポアルの教会は十八世紀の半ばに、かつてアストゥリアス公カルロス二世に仕え、後の継承戦争でも勲を立てて家名を上げたポアル侯爵の指揮で建てられた。それが、ちょうど父の生れた頃、村の人口が増えて教会を増築する必要があったので、もうミサに来る必要のない死者たちの領域が本体から切り離され、村の外に移されたのである。
墓地は十三年前よりも新しくなっているように見えた。エル・ポアルではじめて目にする春の陽射しのせいかもしれなかった。屋内と違って、ここは掃除が行き届いているわけでもなさそうだったが、相変わらず石の壁が並んでいるだけなので、そもそも掃除をするほどの物質の堆積もなければ、人影もなかった。カルメンは何歩か先をゆき、参るべき墓のまえで立ち止まった。それは昔、祖父が「予約した場所だ」と言った、チョークで家の名字が描かれていた場所とは違っている気がした。確かなのはその四角い墓標に飾られているのが祖父の晩年の写真であるということだ。小さな銅の花瓶に、白と緑の草花がもたれていた。摘まれた花にも許されるはずの瑞々しさもすでに失われ、これ以上なく渇き切っていた。祖父の写真はカメオ状に切り抜かれ、背後の石に刻まれた三重の十字架を背負っていた。あれほど祖父に懐き、もはや一蓮托生の仲間のようにさえ思えたチューブの蛇が写っていないのは不自然な気がした。おかげで祖父は微笑みを浮かべてはいたがどうにも窶れて見えた。写真の下には家の二つの名字が刻まれ、この墓が祖父と祖母のものであること、そしてもし他所に墓がないのなら、二人のあいだに産まれた子供たちであれば、祖父を頂点とするこの一家の墓に入る権利があることを示していた。墓標は扉になっており、左端の把手を引けばまるで寝室に入るように内部へ入ることができるようになっていた。生きることに疲れたら、自分で扉を開いて墓へ入るのもよい方法かもしれない。
この墓のどこに父がいるのか、僕にはしばらくわからなかった。それもそのはずで、正面から見ても父の所在は明らかにならないのだ。父の名前を刻んだ銀板は、石の壁とそれをくり抜いて作った扉のあいだに、直角に貼られていた。正しいカタルーニャ語の綴りで黒く塗られた名前の下に、父が死んだ日付と、「行年五十一」の文字が記されている。あまり強い陽がさしこめば、父の名は反射によって隠蔽されてしまうかもしれないし、もし墓守が気まぐれに扉を開けば、銀板は扉の陰になってしまう。父はあれほど騒がしかったにもかかわらず、いざ危うくなると黙って姿を消したのだから、まったくもってこの銀板の配置は完璧だった。家族にとっても父は陰だったし、人生においても父は口から太陽を吐くような演技をしながら、絶えず日陰に取り残されていた。
「もういい?」
カルメンにしてみれば、好きでもない兄の墓を好きでもない甥っ子がいつまでも眺めているのは心地よい図とは言い難いだろう。眺めながら僕の思っていることを察するだけの想像力がカルメンにあるはずもなく、僕にもその隙間を埋めようとするほどの親切心はない。カルメンは曾祖母までの代の墓を素通りして、さっさと車に乗った。この場所に何がしかの恐怖を感じているのかもしれない。ホアンと入籍するのでもない限り、家庭を築いたパブロ叔父さんと違って、カルメンもこの墓地に葬られることになるからだ。二人が入籍することは、この先もまずあり得ないだろう。夫婦という言葉が財産を山分けする関係を指すなら、叔母はホアンと結婚しても決して得をしない。母子家庭のまま手当を受けとっているほうが、はるかに経済だろう。だから地上での時間が過ぎれば、叔母の肉体は自分の命令に従わない両親や兄と共に、ここで永遠の時を刻まなければならない。
死者のための土地からわずか一分で、僕たちは生者の領域に入った。村に入るとすぐにあの小さな広場、あの石柱が目に入った。そして十二番地、僕の家の扉は、やはり天辺を丸くしたまま立っていた。ところがそれはもう朽ち木のような、乾いた牛の血のような色をした扉ではなく、滑らかに磨かれて耳垢のように光っている、機械で精確に切り出された扉だった。かつてはただの一枚の石壁に過ぎなかった家のファサードは、上半分で卵色を見せびらかし、下半分を化粧煉瓦でおめかししていた。僕の家だけではなく、隣のアントニオの家も、もうこの世の人ではないザラザラおばさんやアダンさんの家も同様だった。どの家も妻たちの艱難辛苦の清掃でたどりついた無垢な屋内にふさわしい、清潔な外観を手に入れていた。わざとらしい佇まいだった。新しいエル・ポアルの家並みから照らす色の取り合わせや石の組み合わせは、いかにもグエル公園を擁する地方にふさわしく、どの家も外国にあるスペイン料理屋の風情を放っていた。
こんな小さな村でさえ、経済原理によって塗り替えられてしまったのだ。小川、馬糞、魚、アルファルファ、兎などの匂いで構成されていたスペインの隅っこは、いまやよそゆきの香水をまとっていた。だが村がきれいになるというのに、一体誰が文句をつけるだろうか? 村人たちには屋根と仕事があれば充分なのだ。それどころか、村人は村に関心がない。村人は、村で生まれただけだ。村か、近くの村か、町か、街か、ときおり何かの間違いで外国で死ぬだけだ。村は大切な場所でもなければ、逃げ出したくなるような場所でもない。エル・ポアルはそんなカタルーニャに数多ある村の一つだ。真珠で飾った王冠の下に井戸を配した村の紋章でさえ、知らない住民のほうが多いだろう。そんな紋章など、ほかの多くのものと同じく、腹の足しにはならない。
僕がわずかにでも村について知ろうとする気持ちがあるのは、わずかにでも村について知れば大多数の村人よりもこの村に詳しくなれることが明らかだったからであり、それはまた、この村が僕にとってよその村でしかないからだ。ポアルとは何のことはない、井戸の意味である。この村の辺りには、遥かイベリア人の時代から人間が住んでいた。ローマ人も、西ゴート人も、サラセン人も住んでいた。そこへあの愉快なテンプル騎士団がやってきたのが十一世紀のことだ。セグレ川の支流であるコルブ川のおかげで土地は豊かな水を秘蔵し、ちょっと井戸を掘ってやればすぐに飲料水が手に入った。お互いの尻と腹をくっつけ合い、一頭の馬にまたがって敵情を偵察にきた二人の騎士が、一つの椀から汁をすすることも簡単だった。そんなわけでこの村の一帯は大昔から「井戸の土地」と呼ばれていたのだ。こうした村の知識を仕入れてみると、案の定、村はなおさらよそよそしく感じられた。僕はとても自分の家に帰ってきたのだとは思えなかった。もちろんここは僕の家ではないが、そう思ってみる気分にさえなれなかったのだ。去年から必要もないのにロンドンで暮し、秋になれば必要もないのに東京へ帰るとの同じように、僕はいま必要もないのにエル・ポアルに来ている。
それでも扉の向う側は、十三年前とすこしも変わっていないように見えた。僕と祖父はまさにこの場所で日本語とカタルーニャ語の辞書を作りあげた。僕はそこであの猥雑な巨人の顔を、言葉で組み立てられたアルチンボルドや歌川国芳の絵を目の当たりにしたのだ。もうこの家のどこを探しても祖父がいないのはわかりきっているのに、もし祖父がいま酸素チューブをしたがえて現れても、僕はあまり驚かなかったに違いない。だが目を凝らしてみると、十三年の時はやはり確かに流れており、床や壁を黒ずませていた。それにこの家には、いまやドイツの学者たちが暮しているのだ。かつて肥料やじゃがいもの袋が積まれていた床には、標本として捕獲された小動物を保存しておくための冷凍庫が幅をきかせていた。十三年のあいだに、エル・ポアルは死骸だらけになった。冷蔵庫のなかにどんな動物の死骸が入っているのか、僕には見当もつかない。おそらく山のほうで、狐狸の類を捕獲してくるのだろう。しかしエル・ポアルで動物といえば兎、鳩、それに猫で、それ以外はお呼びではない。
階段を昇り白い扉を開くと、家のなかもやはり昔のままで、すぐ隣の浴室も、まだ快適に作り替える作業が始まっている様子はなかった。それもそのはずで、用も足せず、顔も洗えないとなれば、地質学者たちはこの家を借りなかっただろう。まさかあの曽祖母専用だった陽当たりのよい便所を使えというわけにもいかない。だから、風呂を改装するついでに家を貸すというカルメンの説明は、あからさまに矛盾していることになる。学者たちが冷蔵庫に入り切れないほど小さな獣どもを捕え、いいかげんエル・ポアルの暮しに飽き、葡萄酒ではなくビールが飲みたいと故郷に帰った後も、祖母はさらに浴室の工事が終わるまで娘の家に厄介にならなければならないのだ。
「これは私の甥なの」
カルメンは物音に顔を出した学者の一人に僕を紹介した。浅黒い肌の、巻毛の若い男で、後ろには眼鏡をかけた同僚もいた。叔母は僕がロンドンからここへ来たこと、ここへ来たのはずいぶん久しぶりであることなどを、訊かれもしないのにしゃべっている様子だった。
「やあどうも。あなたは何をしている人なのですか」
僕がろくにスペイン語を話さないことまで聞き出したのか、痩せた巻毛の学者は英語で質問した。言うまでもなく、ドイツの学者の英語はスペインの田舎者の英語よりも上等だった。
「大学を出たところです。大学院に進もうかどうか、一呼吸おいているんです」
問われるままに答えたが、「何をしている人か」はこっちの台詞だった。二人の学者の背後には曾祖母の写真が残っていた。ここは曾祖母が使っていた部屋だ。便所はともかく、少なくとも曽祖母の寝室は彼らの領域になっている。その狭い寝室に大きな男が二人で、学者を名乗り何をしているのだろうか。
廊下に立ったまま居間のほうを見渡すと、食卓の上には調査結果をまとめる作業が常に進行中であることを示す様々な小道具が散らばっていた。飲みさしのコーヒーは乾き、彼らが捕獲した動物の蹠から払い落とす土のようになっていた。深いところまで噛みつくされた林檎の芯は、奇妙な筆記具のようにも見えた。書類は積み重なり、崩れ、その上にまた積み重なっていた。それらは何ら進捗を保証するものではない。サグラダ・ファミリアの構内にもいつでも猫車や鶴嘴が転がっているが、この教会はいつまで経っても完成しないのだ。
ドイツ人たちはたまたまこの家を借りたに過ぎない。その家にはたまたま、ひょっとすると家主になっていたかもしれない、東洋の血が交じった留守がちの若者が関係していた。そんなに僕が何をしている人か知りたいのなら、すべて話してやってもよかった。そしてさっさと仕事をすませて出て行かないと、哀れな年寄りが一人、それだけ不快な生活を続けることになるのだと釘を刺しておいてもよかった。
だがカルメンはこの家にもあまり長居したくないのだろう、僕をそそくさと屋根裏部屋へと促した。僕にはいままで一度も屋根裏を訪れた記憶がなかったが、そこは物置だった。この、僕の記憶という物置から欠落していた物置の存在は、そのまま僕の偽善を暴くための装置となった。エル・ポアルが、そこに暮す人々が、この家が、昔と変わったかどうかなど、僕に判断できるはずもない。僕がこの家で過ごした時間は人生のおよそ八十日、しかも五年ほどの期間に間歇的にちりばめられた八十日でしかない。世界一周にかかる象徴的な日数としてこの八十日を考えてみれば、僕の世界旅行は大きな海に出くわすたびに中断され、数年後に海を渡ったところから再開される、ひどく胡散臭い旅ということになるだろう。僕にとってのエル・ポアルは、有閑婦人が夏ごとに訪れる避暑地の常宿よりも、なおよそよそしい場所なのかもしれないのだ。
せめてもの救いは、物置には僕の覚えている物体もあったということだ。どこの力持ちが手を貸したのか、あのシクロモトールが鎮座していた。さすがに赤い光沢は鳴りをひそめ、慎重に降り積もって薄い紙のように見える埃に守られていた。その横には農具が並んでいた。鋤と鍬と桶が、ただ邪魔な道具を並べてあるにしてはあまりに見事に配置されており、物置はそこだけ中世の静けさを匂わせていた。このような農具を見たこともない人間がダリの描く松葉杖の柔らかさに歓声をあげるのは、ほとんど馬鹿げたことのように思われた。それが祖父の使っていた物なのか、それとも祖父の祖父が要らないからとしまいこんだものなのかは、もはや永遠の謎だった。カルメンに訊いても「知らない」という答えが返ってくることはわかりきっていた。
大野露井
(第13回 了)
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