故郷とは、オリジンとは何なのか。それは実在の土地なのか、人々なのか、記憶の中にだけ存在するものなのか、あるいは常に新たに生み出される何かなのか。『故郷-エル・ポアル-』→『故郷-エル・ポアル-』注→『新故郷』と〝エル・ポアル〟を巡るテキストの旅は続く。
by 大野露井
第二部 ポアル
そう決めつけられても仕方のないほどカルメンは何につけ無関心で、その当然の帰結として無知だったが、ここに僕を案内したのには一応の理由があったらしい。僕は差し出された封筒を受取った。
「パパの写真よ」
正確には、それは父の幼少期からロンドンでの学生時代までを写した十二枚の写真だった。さらに厳密を期せば、三枚は白い縁のある白黒写真で、これらが最も古く、次の三枚は縁のない白黒写真、そして最も新しい、六枚の色付き写真が続いていた。はじめの六枚はいずれもエル・ポアルで撮られたもので、その半数は僕がいま立っている場所のすぐ下の通りが舞台になっていた。窓を開けて見下ろせば、そこに五歳くらいの父を筆頭に肩を組んで並ぶパブロ叔父さんとカルメンのまぼろしが見えたかもしれない。僕は父の目の下のくまの濃さに驚いた。商売を破綻させ、寝室にひきこもっていたときよりも濃いくまを、この田舎の少年は涙袋に鈍く沈ませていた。そのかわり、彼は屈託のない、もはやわざとらしいくらいの笑顔を見せていた。自分が四十年後にいやと言うほど睡眠をとり、おかげでくまは薄くなる一方で、笑う材料に事欠いて眉間の皺を塹壕のように黒々と誇示するようになることを、彼は想像だにしていない。まして半世紀も経たないうちに、自分が写真を撮った場所から四半キロの場所で永遠の眠りに就くことになるなどとは、夢遊病で村を歩き回ったときですら、夢にも思わなかっただろう。次の写真で十五歳くらいになって、寄宿学校から帰省しても田舎者に囲まれるだけでやることもなく、仕方なしにシクロモトールで無意味に通りを往復している彼にも、それに気づいている様子はない。彼はすぐに都会へ戻り、大きな仕事をなすべく勉強を続けるのだ。だから、片手に酒杯を持ち、もう片手に煙草を挟んで写真に収まることに抵抗のない年頃になった三枚目の彼は、なおさらそんなことを考えるとは思えない。彼は田舎者が着ないような、そのためにかえって田舎者であることが露見してしまうような奇抜な模様のシャツを着て、伸ばした髪を油で撫でつけている。いわば大物の遍歴時代、ちょっとした寄り道なのだ。
結局、父は大物にはならなかった。父が体得したのは大物の風格を真似る技術だけだった。父の半世紀の人生には肉体労働という選択肢はなかった。父はよく、睡眠とうたた寝と食事と排泄とを二日かけて行うことを周期的に繰り返していたが、その作業ですっかり疲弊してしまった。それはうたた寝と食事と排泄のあいだ、そしてことによっては睡眠の最中にも、考えることをやめなかったからだ。ところがこの知的労働は、商売に関してはほとんど成果を生むことがなかった。文芸誌を読んでいた父、眠っていなければ夜九時に映画を観はじめた父、機嫌のよいときには手の込んだ冗談を言った父のほうが、僕にはずっと自然に見えた。おそらく本人だけがそれを不自然だと思っていたのだ。不自然さに怯える者は暴力を振るう。暴力は本能であるがゆえに人間にとっては歪だ。それは不自然さを塗り潰すのに最適な、ほんのすこし異なる色合いの不自然さなのである。
屋根裏の壁には空箱で作った即席の書架があり、そのなかには父が使っていた辞典の類が詰まっていた。それは試験でよい点を取り、この小さな村から脱出するための道具でしかなかったのだろうか。僕は『カタルーニャ語活用辞典』というのを抜き出して手に取った。古いが、あまり垢染みてはいない。静けさに誘われて、窓を開けてみた。僕の身長は成人した父と同じだった。視線の高さも、だから同じということになる。だが僕には父の見た世界は見えなかった。カルメンはそっぽを向いていた。僕は手の中の辞典を、上衣のポケットに滑り込ませた。
「もう行きましょうか」
「ええ」
帰るまえに小さな村を一周することになり、まず隣家のアントニオを訪ねた。青年から中年になった彼はますます恰幅もよく、いよいよ典型的な力持ちに見えたが、あれほど似合っていた農夫の職業を捨て、いまはモデルサの製紙工場に勤めている。はじめは警備員として、果樹園で培った膂力を万一のときのために温存していたのだが、景気がよくなるにつれて会社は人手不足に陥り、正規の工員に起用されたのだ。しかもアントニオの口利きで、エル・ポアルの多くの農夫がこの会社に職を得た。新しい仕事は農業より楽で、将来の保証はなかったが、とりあえず金になった。
「スペイン語はできないのかい?」
とアントニオも僕をいじめた。彼には奥さんがいて、いたいけざかりの息子がいて、斑の犬もいた。
「ちょっと上がっていきなさい」
と言ったのはアントニオの両親だった。実を言うと、僕はその老夫婦を覚えていなかった。しかし向うは覚えているのだから上がらざるを得ない。お爺さんはハンプティ・ダンプティその人のような卵型の体を引きずり、狭い階段を昇った。お婆さんはゴーフルを出して、「食べな食べな」を連発した。それに飽きると、今度は僕の背中を叩き、「細いねえ、細いねえ」を連発する。ロサ叔母さんの予言は的中したのだ。
お婆さんは、十三年前のエル・ポアルでは唯一の選択肢だった、家事と夫の手伝いだけに費やされる人生から解脱していた。改装してきれいになった一階で、村の郵便局長を務めているのだ。エル・ポアルは壮健な労働力を失ったが、そのかわり村に残った人々には、余った職が割り振られたのである。僕はふと、あの「バルベンスの奇蹟」を思い出していた。あれ以来、バルベンスについての話題が国外にまで広まったことは一度もないだろう。不意に一攫千金を成し遂げた村人たちはどうなったのだろうか。例に洩れず、無茶な浪費をしてすかんぴんになったり、調子にのって愛人を作ったばかりに家族を失ったりしたのだろうか。いずれにせよ、村はおそらく今日のエル・ポアルとよく似た、劇的ではないが着実な変貌を遂げているだろう。
アントニオ一家と別れると、今度は村の中心にある小学校のまえの広場まで歩いた。村にはまだまだ子供たちが生れているようだ。お迎えのついでに、母親たちは噂話に白熱していた。若い母親たちは僕のことを知らないので、カルメンが連れている、このエル・ポアルの住人のように見えなくもない東洋人は誰だろう、という顔をする。しかし彼女たちのなかにも、最近になって村に仲間入りした移民が混ざっていた。ホアンが涎を垂らすスラブ系の若奥さんも見つけた。
新参者たちを見つけたことで、僕は自分にもこの村のなかに居場所が残されているような気がした。カルメンの英語力で仕事があるなら、僕も必ずどこかの企業から歓迎されるだろう。日本との取引にだって対応できるのだ。たいしたことのない給料でも、ここで暮せば使うあてもないから溜まる一方に違いない。それをちらつかせて僕もスラブ系の娘をつかまえてみるのはどうだろう? 僕はいやでもカタルーニャ語を覚えるだろうし、家を継ぐことだってできる。読み物や書き物をする時間もたっぷりとれるはずだ。そうして子供が生れれば、その子は根っからの村人や移民やその双方の間に生れた子どもたちと、エル・ポアルの新世代を築いてゆくことになる。より開かれて、より雑然としたカタルーニャの小さな村で。
カルメンと僕は、もう車を駐めた道につながる路地を歩いていた。ただでさえ静かな村なのに、その路地に至っては寂滅の感があった。砂色の建物が続き、バルコニーの格子が黒く垂れ込めていた。一軒の家から、ひときわ姦しい小鳥のさえずりが響いた。
「この家には、昔から小鳥が集まるのよ。だから屋号は『小鳥の家』なの」
「じゃあうちの屋号は?」
「そんなものないわよ」
僕はへこたれなかった。
「じゃあうちの名字の意味は?」
「そんなものないわよ。ただの名字よ」
実は名字の意味は知っていたし、かつてこの村にうちと同じ名字の有力な一族がいて、あのポアル侯爵の城館に引けを取らない屋敷を構えていたこともわかっていた。その一族と僕の家がどういう関係にあるのかを示す資料までは見つからなかったが、どちらにしろカルメンが知っているわけがない。僕はカルメンよりも自分の家に詳しくなっていたし、下手をするとエル・ポアルの歴史についても、村人の多くより知っていた。だが僕にはそれを村人に伝えることも、現地で聞き取り調査をすることもできない。そうすることにはおそらく何の意味もないのだ。
最後の曲がり角まで来ると、唐突に大きな四角い建物が現れた。
「あれは養老院よ。最近は混んでるの」
高齢化だとか、老人の孤独だとかいう問題も、すでにこんなに小さな村にさえ波及しているのだ。
「以前は屠殺場だったの。お祖母ちゃんは、あそこに入れるなら殺してくれって言ってるわ」
僕は思わず声をあげて笑った。そういう気の利いたことができるのが、エル・ポアルのような僻村の持ち味なのだ。
間もなく僕たちは家のまえに戻ってきた。そこは自転車で何度も塗りつぶした道であり、ソフィアと腕を組んだり、祖父と手とつないだりして歩いた道だった。臑くらいまでの高さの草が、その道の向うに限りなく続いていた。納屋が、雲一つない空を縦に半分だけ隠していた。あとはただ草と空がどこまでも広がり、この世の果てを指し示していた。
簡単な夕食の後、さっさと寝室に引き上げると、僕は明日のために荷造りをすませた。ロンドンへ帰ったら、ぼちぼち東京へ帰るための荷造りもしなければならない。その日暮らしで僕のわずかな蓄えはとっくに底をついていた。実家に戻れば、百万円で一年は大学院へ通える。その意味で、遺産は適切な金額だった。母は遺産など期待していない。すこしでも借金を埋め合わせるということなら、僕は明日までに村の土地と家を手に入れる目処を立てなければならない。ドイツ人を追い出し、祖母を追い出し、家を売却するという理不尽な手続きを委託できるような人間も確保しなければならない。屠殺場跡の養老院で村の生き残りが死に絶えようとしている村の土地と家を欲しがる物好きがいるとして、あとは権利書を見つけ出し、名義変更をするだけだ。あの屋根裏部屋あたりで、権利書は埃をかぶっているのかもしれない。だがスペインにそもそも土地の権利書というものが存在するのかどうかさえ僕は知らなかった。
すぐには寝つけなかったので、僕は昨日パブロ叔父さんに託された父の書類入れをすこしだけ覗いてみた。目についたのはもちろん権利書などではなく、父の履歴書だった。直訳すると「生涯歴程」になる、あの堅苦しい形式ばった履歴書だ。
書類の形式上、内容は箇条書きだったので、僕は辞書を引かないでもだいたいの内容を理解することができた。父は新たな職場でも「貿易」に従事したいと思っている。斯道では「二十年以上」の経験がある。「高度な意思疎通・販売促進・交渉」の能力があり、「部下の指導」も上手く、「最新技術」にも造詣が深い。職業人としては「忍耐強く、粘り強い」。「英語、日本語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、カタルーニャ語が堪能」であり、「その他の言語もある程度まで理解する」。それというのも「三十年以上海外で過ごし(内二十三年間は日本の東京)、多様な文化」に触れてきたからである。「アジア、欧州、北米、ラテン・アメリカを舞台に事業を展開してきた」ので、世界中で知人を介して取引先を開拓できる。教育も充分だ。一九六七年までに「会計と商学」を学んだ後、一九七〇年に渡英して電算機論を修めた。一九七三年から翌年にかけてはソルボンヌで「美術館ガイドの資格課程」に在籍。次いで日本へ渡り、一九七四年から二年間、拓殖大学商学部に学び、その後も「断続的に外国語や最新技術」の学習を続ける。離婚歴あり。息子一人、米国ワシントン・アンド・リー大学に在籍中。歩くこと、泳ぐこと、二輪車に乗ること、美食と芸術を愛す。
この勤勉で経験豊かな商人の履歴書を見ても、僕には父のやりたいことが何であったのかわからないままだ。カタルーニャ語とスペイン語で育ち、英語で学び、フランス語で暮し、ドイツ語で働いたこともあり、日本語で結婚した父は、たしかに多くの語学に堪能だった。けれども僕や母とは心が通わなかった。「意思疎通」の能力は父にはないし、歩くことと泳ぐことは、身体を動かさないと命取りになると医者に脅されたので渋々実行していただけだ。父が芸術の話をしているのは聞いたことがない。だからそれを愛していたのはおそらく本当だろう。パリの大学は卒業したものと僕は思っていたが、実際には本科学生でもなかったのだ。父は多くの欧州の若者と同じように漂い、そのときどきで情熱を注ぐ対象を器用に切り替え、挫折に関してはそれを栄光への曲がり角と信じて反省することを拒み、そんじょそこらの欧州の若者よりも派手に漂い、流れ着いた東京で淀んだ。そして再起をかけてロシア語を学んだとき、父はその難しさに辟易しながら死んだのだ。
大野露井
(第14回 了)
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