故郷とは、オリジンとは何なのか。それは実在の土地なのか、人々なのか、記憶の中にだけ存在するものなのか、あるいは常に新たに生み出される何かなのか。『故郷-エル・ポアル-』→『故郷-エル・ポアル-』注→『新故郷』と〝エル・ポアル〟を巡るテキストの旅は続く。
by 大野露井
第二部 ポアル
ロサ叔母さんとラウラは身支度を調えにそれぞれの寝室に引き上げた。街を案内してくれるというのだ。僕は浴室を拝借した。白と黒の石が効果的に使われており、やはりなんとも清潔だった。おまけにきちんと紙がある。僕は思うさま用を足した。カタルーニャの地に十三年ぶりに、僕は豊かな土を撒いた。肛門がすこし裂けても、気にはならなかった。紙に赤い染み以外のものがつかなくなると、僕は腰をあげて水を流した。もう鎖を引いてギロチンごっこをする必要はなかった。タンクの横で手首をひねるだけでよいのだ。僕の血と肉体はレイダ市街に張り巡らされた下水管をめぐり、どこかで大きな水の流れに合流する。僕は自分をスペイン中に撒き散らすことのできるこの場所を、新たに自分の家と呼びたいほどに爽快だった。だがこの家にはイエス像は見当たらない。カタルーニャの信仰は薄れているのだろうか。それとも信仰の身振りが薄れているのだろうか。救世主になれないなら、僕は自分を泥棒に譬えても構わない。昔気質の泥棒は盗みに入った家で署名代わりに用を足し、家族の一員のような気分で逃げ去る。
磨き上げられた鏡に向かうと、薄い鬚がすこし伸びている。父がかつて生やしていたツァーリのような鬚は、死ぬまで剃らずにいても生えっこないだろう。それにしても、やはり僕は父に似ているし、以前よりもさらに似てきている、ということを認めざるを得ないのは、パパ、パパ、という破裂音を久しぶりに何度も聞いたからだろうか。初めてエル・ポアルを訪れたときの五歳の頃の面影も、あるにはあった。だが成長するにつれてはっきりと刻まれてきた陰翳は、まるで父の顔が、僕の顔のなかから這い出して来つつあるかのようだった。僕には這い出して来る父を押し戻すことはできないだろう。だが気づいたときには父になっている、というような手抜かりはごめんだ。着実に這い出して来る父の姿を観測することができれば、むしろ父を僕にしてやることも難しくはないはずだ。僕は禿げるのも癌になるのもごめんだったし、百万円などという端金を残すくらいなら、きれいさっぱり使い切って死ぬほうがいい。
僕たちは人通りと直射日光を避けるためにいくつかの路地を抜けたあと、最近になって拓けたらしい商業地区へと続く大通りを歩いた。ダリの展覧会が近く開催されるというので、何枚かのポスターが目に入った。マドリッドやカタルーニャという名前のついた通りがあった。そしてセグレ川にかかる橋の先に、頑丈な梁や硝子を駆使した近代的なモールが見えた。最近まで空地の多かった街の特権は、いきなり斬新な建築を遠慮なく導入できることだ。
「あなたに何か服でも買ってあげたいんだけど」
ロサ叔母さんが申し出た。
「いや、お構いなく」
「いいえ、買うわ。昔、あなたのママがラウラにすごく上等の服をくれたことがあったでしょう。モスキーノだったわ。あの頃はお店もなかったし、生活も苦しかったし、だからお返しも何もできなくて、申し訳なかったのよ」
断る理由もないので、僕は何か買ってもらうことを念頭に置いて二人と店をぶらぶらした。といっても、いちばんはしゃいでいたのはもちろんラウラで、彼女はいろいろなものを手に取っては母親にそれをどう思うか尋ね、つまり買ってくれるかどうかを打診した。ロサ叔母さんは洋服店のマダムとして意匠や色についてあれやこれやと意見を述べ、ときには店員に在庫を確認したり、色違いのものがないか問い合わせたりした。新しい商業施設には新しい雇用がついてまわるので、店員にはやはり移民が多く、僕には及びもつかない流暢なカタルーニャ語を話す中国人などが、愛想をふりまきながら対応した。中心の建物を出て裏へまわると、そこは黒を基調にした店舗が並ぶ石畳の商店街になっていて、ヨーロッパを拠点とするブランドが軒を連ねていた。もし僕が父の商人の血をもっと濃く引いていたなら、さっそく買い付けについて考えたかもしれない。物価はまだまだ安いのだ。
僕は結局、シャツを一枚と、靴を一足選んだ。ロサ叔母さんとラウラは口々に、
「かわいいじゃない」
「おしゃれね」
などと褒め、そんなことを滅多に言われない僕はうろたえた。
こうしたわけで、カフェに落ち着いた頃には、僕たちはすっかり打ち解けていた。その証拠にロサ叔母さんは、「ねえ、二人のどっちが好み?」と悪戯っぽく訊いたほどだ。僕は二人とも好みなので、何とも答えようがなかった。
僕とロサ叔母さんはまた煙を吐き出した。昼食後の一服で満足したらしいラウラは、もう充分という顔をした。
「あなたやっぱりパパに似てるわね」
ロサ叔母さんはいまさらのように言った。
「顔もそうだけど、仕種が似てるのよ。手の形も。パパもきれいな指をしてたわ。ピアニストみたいな。それであなたと同じように煙草を持って、ひらひら動かして。不思議ねえ。でもパパよりだいぶ痩せてるわ。日本の男性はみんな細いの?」
再会のすぐ後で、祖母も僕が痩せていることを指摘したのだった。僕が痩せているというのはそのときが初耳だった。僕は肥っているわけではなかったが、日本の基準ではまだ肉厚の部類だった。そもそも父の遺伝子のせいで胸郭が迫り出しているので、人によっては僕が地道な鍛錬を積んでいるように錯覚するのだった。
「日本の男性はもっと細いですよ。胸なんかに肉がついていないから」
「そう? ―あなたも細いわね」
ロサ叔母さんはラウラに向き直っていた。
「私もいろんな人に、細い細い、もっと食べろって言われるの」
ラウラはむしろ誇らしげだった。
「ポアルへ行ったら、また細い細いって言われるでしょうね」叔母さんは続けた。「でもみんな、パパに似てるって言うと思うわ。ポアルへはいつ行くの?」
「明日」
「あなたの知ってる人も減ったでしょうね。亡くなったり、モデルサへ移ったり」
隣に住んでいた自転車乗りのアダンさんも、猫の餌付けにかけては右に出る者のなかったザラザラおばさんもすでにこの世の人ではないことを、僕はカルメンや父を経由して知っていた。
「そういえば、ソニアという女のひとがいましたね」
僕はとつぜんあのジプシー娘のことを思い出した。実際には現在のラウラより年下であるはずなのに、放浪によって玄人の気風を養っていたあの娘は、いまこうして目の前で重ねてみても、両親に愛されて暮すラウラより大人びていた。かといってロサ叔母さんのような臈長けたところがあるわけでもない。
「ああ、ソニアね。あの娘はまだあなたがポアルに遊びに来ていたうちからいなくなっていたわよね。あの工場の持主に可愛がられたりしていたけど、別の男とも遊んで、妊娠して、そのまま消えちゃったわ」
ロサ叔母さんは呆れたように、そういう意味のことを説明した。ソニアという名前の歴史をたどれば、彼女のことをソフィアとかゾフィーとか、いっそソニア以上の親しみを込めてソーネチカと呼んでも構わないかもしれない。そうすれば彼女の名前はどことなくチュパチュプスに似てくる気さえする。しかしソフィアという語にふさわしい「知」が彼女に宿っていたとは言いきれないようだ。むしろエル・ポアルのご意見番たちの声を総合すれば、ソニアという女神が司るのは「痴」のほうだった。
そろそろ僕たちはブティックに戻らなければならなかった。今夜はカルメン、ハイメ、それにホアンも入れて大人数で夕食をとることになっていた。ラウラは明らかに気が進まないふうだった。新しく仲間に加わる三人のうち、ラウラは誰も愛していない。それは僕も同じことだ。
店に戻ると、階上の事務所にいたパブロ叔父さんが狭い階段に悲鳴を上げさせながら現れ、僕を手招きした。小さな洋服店のことだから、事務所と言っても屋根裏の壁に板を水平に打ちつけて作った机と、壁とのあいだに挟むようにして置かれた椅子があるだけだ。叔父さんは机のうえに用意してあった書類入れを持ち上げた。
「君のお父さんが最後に持っていた書類だ。いま開けてみるかい?」
僕はそれをすこしだけ開いて、中身を上から覗いてみた。そこには印刷された書類や手書きのメモ、それにきっと壊れているに違いない古臭い小型の計算機、そして「すぐに覚えられる」と謳ったロシア語の教材テープが入っていた。
「いま見るかい? それともあとにするかい?」
せっかちな叔父さんは大声でまた訊いた。怒っているのではない。早く答えを知りたいだけだ。この大柄で人一倍物静かな男でさえ、たった十秒の沈黙に業を煮やすのだから、その叔父さんを震え上がらせた父が、母とまともに生活できるわけがなかった。
「あとにします」と答えると、叔父さんは紙袋をくれた。
階下では、ちょうどカルメンと二人の従者が、どやどや入ってきたところだった。
「ほら、見て。ホアンはあなたのパパの服を着てるのよ。あの女、勝手にやっちゃうんだから」
こう耳元で報告したラウラは、早くもあからさまに気分を害していた。
確かにホアンのまとっている衣服、とくにジーンズと革のジャケットは、いかにも父が着そうなものだった。息子の僕から見ても少々意外なのだが、父はお洒落に無関心というわけではなかった。そして父が興し、やがて潰した事業の半数ほどは革製品と衣類に関連していたので、父は仕入れから卸し、あるいは販売までの商品の流れに手を突っ込み、眼鏡にかなった品を引き上げて横領することができた。父が家を出て行ったときも、あとに残ったがらくたで使い物になったのはハンドバッグが三個と、何枚かの上等なシャツくらいのものだった。ホアンもまた、中古とはいえ何通りにも着回せるだけのズボンやシャツを手に入れた。ホアンは父が息を引き取った場所、つまり最後に所有していたものすべてを置き去りにした場所の近くで生活し、父の妹と交際していたからだ。それは役得だった。
ホアンは僕にアメリカ人のような陽気な挨拶をしてからパブロ叔父さんに何か捲し立てていたが、聞き耳を立てる気にはならなかった。そして誰の思いつきなのか、集合写真を撮ることになった。僕が見事な作り笑いを浮べ、ロサ叔母さんも甥のハイメの肩に手を置いて和やかな家族写真を演出しているというのに、ラウラ一人はレンズの奥にいる余所者のホアンに射るような眼光を向けていた。
晩餐はもちろん退屈だった。僕はただ烏賊や貝をしゃぶり、雑音を聞いていた。斜向かいのロサ叔母さんやラウラとはときおり目が合ったが、僕はカルメンとホアンに挟まれていたし、向かいに座っているパブロ叔父さんはニヒリストの気があった。
結局この場を救ったのもラウラだった。宴も酣の頃、ラウラは僕を食後の一服に誘ったのだ。僕は紙袋をパブロ叔父さんに預けて立ち上がった。ラウラも立ち上がったが、そのとき椅子の脚が巻き込まれて倒れそうになったので、僕は「ウイ!」と言って止めた。覚えたての間投詞だった。
「明日エル・ポアルへ行くのよね」
外に出るとラウラは寂しそうに言った。
「そうだよ」
「それで明後日はロンドンに帰るのよね」
「うん」
そう、明後日には帰るのだ。いったい何をしに来たのだろう。ラウラとロサ叔母さんのどちらが好みか答えられないという体験をするため、と断言できるなら文句はなかった。
「悪魔やホアンといると本当に疲れるわ」
「退屈するしね―」
そのときラウラの背後に突然ハイメが近づいて来た。年齢の近い僕たちのところへ来たほうが楽しいはずだという子供じみた判断をしたのだろう。僕は話題を変える必要を感じた。ハイメは僕が煙草を喫っているところを初めて見たので、わずかに驚いたふうだった。しかし僕はもっと驚く羽目になった。
「あんたね、おばあちゃんをもっと大事にしなさいよ」
ラウラは話題を変えるどころか、最も核心的な言葉を、直接ハイメに突き刺したのだ。これもまた、スペイン人にとっては当然の会話術である。驚く僕のほうが、打算的で臆病ということになるだろう。広場には僕たち三人しかいなかった。まだ三月なので日は短く、辺りを鼠色の闇が覆っていた。通りを挟んで、いくつかの人影が帰宅を急ぐようだった。
やがて皆がぞろぞろ出てきた。それぞれがそれぞれと忙しく言葉を交わした。
「明日はエル・ポアルに行って、帰りにアントニオにも会いましょう」
カルメンは唐突に予定を告げた。もう出発するという合図なのだろう。カルメンはあたかも僕とラウラの距離が縮まりすぎることを警戒しているようだった。僕はアントニオという隣家の息子の顔を、すぐには思い出せなかった。
僕はロサ叔母さんにまずキスをして、それからラウラに向き直った。ラウラの大きな、ともすると暗くなりがちな目は、すっかり涙に濡れていた。
「この子、もうこれでお別れだと思ってるのよ。でもあなたがロンドンに帰る日に、もう一度食事を一緒にすることにしたからね」
ロサ叔母さんは、一人娘が可愛くて仕方がないらしかった。僕もだった。
「じゃあ、またあさって」
「昔ね、夏のあいだは、登山客のために山で雑貨屋をやっていたの」叔母さんは思い出したように言った。「パブロと、手伝いにきてくれたあなたのパパと三人で。まだラウラは生れてなかった。あの頃がいちばん楽しかったわ」
若い頃の父のめまぐるしい経歴の一体どのあたりでそんな牧歌的な青春が送られたのか、僕にはちょっと計算がつかなかった。それを問い質そうにも、もう悪魔は僕を連れ去っていた。車のなかで何度も鎌首をもたげたのは、果してそのとき父とパブロ叔父さんのあいだに、恋の鞘当てはあったのだろうかという疑問だった。それなら僕は這い出して来る父を受け入れよう。臆病な弟を追い散らして、ラウラを生もう。
大野露井
(第12回 了)
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