世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
十九、スリーアウト
結局撮ったのは一枚、ユリシーズだけ。やはり疲れていたのか、あれも撮ってこれも撮ってココもアソコも撮って……という下心は不発に終わった。肝心の方はバイアグラのジェネリックのお陰でまあまあ好調。何度もナオの口を塞がなければいけなかったし、余計なことが頭をよぎったりはしなかった。
でも身体はそう単純ではないらしい。空っぽになったから朝までぐっすり、という俺の読みは大外れだった。まだ充電が何パーセントか残っていたらしく、なかなかスイッチがオフにならない。仕方なく俺はひとり、テレビを眺める羽目になった。薄いタオルケットを巻きつけたナオは、隣で口を開けたまま熟睡している。
帰って来てすぐ寝たのがまずかったのかもしれない。映画、ゴルフ、通販、と適当にチャンネルを変えながら、早く電池が切れないかなと思っていた。ナオの寝相が変化する度、青白いテレビの明かりに照らされたユリシーズも動く。
どうにか眠れたのは一時間半後。あんなにチャンネルを変えていたのに、映画のストーリーは何となく分かってしまった。外人の綺麗な女が数人の男にモテまくる「かぐや姫」みたいな話だ。
何も知らないナオに起こされたのは朝の八時。実家に顔を出すからもう帰るという。
「どうしたの、眠そうな顔して」
「眠そう、じゃなくて眠い……。そっちは熟睡してたなあ」
「うん。男の人って違うのかな?」
「何が?」
「だから、何て言うのかな、気持ちよかったまま寝るとぐっすり眠れない?」
んー、と間抜けな返事になったのは、「じゃあ俺はあまり気持ちよくなかったのかな」と余計なことが浮かんだからだ。バイアグラのジェネリックのことをナオは知らない。いや、知っているけれど言わないだけのような気もする。勘が良くて優しい人は無駄口を叩かない。
ナオが貼ったらしく、壁にはユリシーズの写真が一枚。全部を埋め尽くすにはまだまだ時間がかかりそうだ。目の前のナオの腕にも当然ユリシーズ。手を伸ばすようにして起き上がる。
「朝ごはん、作る時間ないのよ。ごめんね」
「いや、昨日の残りで大丈夫」
食べきれなかったデパ地下の惣菜が冷蔵庫の中に入っているし、腹は全然減っていない。水を一杯飲みながら、支度を整えるナオの話を聞く。
「あ、そういえばケン坊、和歌山に引っ越すんだって」
一瞬、何の話かまったく分からなかった。真面目にやるんだって、という一言でようやく右田氏の顔が浮かぶ。
「向こうに親戚がいて、そこのお世話になるらしいよ」
「お世話って?」
「分かんないけど働くんじゃない? 真面目に、地道に」
足洗うのかあ、と顔を洗いながら呟くと「まあヤクザみたいなもんだもんねえ」とナオがタオルを渡してくれた。
「私、もう行くよ」
玄関で慌ただしく二日後に会うことを決め、ナオは実家に、俺は寝床に戻った。仕事に出るまで二時間ある。さあ寝るぞ、と意気込んでみたけれど望みはなかなか叶わない。カタギになろうとしている右田氏が邪魔をする。
きつく目を閉じて追い出そうとするが、彼のマッチョな背中は動かない。これじゃ、まるで見送りだ。ふと思う。行くな、というのが実は俺の本音かもしれない。置いてくなよ、と口には出さないが自分の耳には聞こえる気がする。
右田さん、あんたはチブルやペロリンガでヘロヘロになってるのがお似合いなんだ、そっちへ行くな、行ってどうする、やめとけやめとけ……。でも駄目だった。あんなに動かなかった後ろ姿は滑るようにして出て行ってしまった。
畜生、また置いてきぼりか――。そんな風に肩の力を抜いて数秒、ようやく俺は眠りに落ちた。
デパ地下で買った餃子を一個口に放り込んで家を出る。レンジで温めればまだいけるだろうけど、冷蔵庫から出したままではアウト。ゴムみたいだ。それをクチャクチャ噛みながら駅への道すがら、安太に電話をかけた。出ないだろうとは思っていたが、俺は鈍い振りをし続けたいし、一言「おめでとう」とも伝えたい。結果はやっぱりアウト。また明日かけてみよう。
役立たずのスマホを持ったまま世田谷線に乗り、もう一つの問題に手をつけてみる。数時間前、ナオから聞いたばかりの右田氏問題。もう二度と会わないと思っていたのに、どうして気になるのかはよく分からない。羨ましいわけではないはずだ。俺は知らない土地でやり直したくはないし、そもそも「やり直す」なんて考えたこともない。人は結局やり直せない、とまでは思っていないが少なくとも今の俺には必要ない。
半半グレよりは確実に、もしかしたら半グレよりもブラックな刺青入り。乱交が忘れられず俺を誘ったくせに、勝手にハイになって自爆した右田氏は一生あんな調子だろうと思っていた。ついでに言えばその一生は短そうだと予想もしていた。つまり俺よりも質の悪い人種、人生だと思っていた。もしナオの言うとおり和歌山で真面目に地道にやり直すとしたら、一瞬で俺を抜かしていくに違いない。
今朝、俺の睡眠を邪魔した彼の後ろ姿が浮かぶ。近いうち、きっとあの背中は見えなくなる。決して追いつけないスピードで、先の先まで行ってしまう。そんな未来が面白くないだけ。こんな俺は誰が見てもアウトだ。
まだ午前中、仕事に行く前なのにスリーアウト。今日はたいして面白くない一日になるだろう。
悪い予感はよく当たるし、結構な確率で続いたりもする。結局昨日は面白くない一日だったし、それは今日だって同じだ。俺もやり直した方がいいんだろうか――。何度もそんなことを考える一日なんてろくなものではない。
こんな時、少し前までなら安太といればよかった。ぐちょぐちょをやろうがやるまいが、とにかく何かで紛らしたり誤魔化したりして時間を稼げた。でも今は違う。その手は使えない。それがはっきり分かったから、今日は働いている時から落ち着かなかった。仕事が終わったら電話をするつもりではいたけれど、いざ終わってみると何となく気が乗らない。だから「大金星」に立ち寄ることにした。
こういう時はナオではない、という判断は正しかったはずだが、店の選択が良くなかった。やはり悪い予感は当たりやすいし続きやすい。
途中コンビニで缶ビールを買ったけど、炭酸水みたいで呑んだ気がしない。やっぱり味より雰囲気なんだな、と「大金星」に入る。マドカちゃんに大瓶を注文して気付いたのは、客の入りの悪さだ。ん? と店主のキンさんに目で尋ねると、近くにチェーン店の居酒屋がオープンしたという。
「オープン記念でドリンク全品百五十円、何杯でもオーケーだって。俺が行きたいくらいだよ」
私もここ終わったら行くんです、と笑うマドカちゃん。俺も知ってればなあ、と言ってはみたがそんな気はさらさらない。瓶とコップを受け取って奥に行くと、トミちゃんが一人で呑んでいた。
「あれ、百五十円の店、行ってきたの?」
今聞いたばかり、と言うと「残念でしたあ」とビールを注いでくれた。トミちゃんはもう行ってきたらしい。
「劇団の若い子連れてったのよ。こういう時に奢っておかないとさ、カッコつかないじゃない」
さすがベテラン、と乾杯をして一気にグラスを空ける。やはり味より雰囲気だ。
「じゃあ今日は結構使ったんでしょ?」
「いやあ、四人連れてって一万ちょっとだもん。助かったわよ。あ、もちろん最初に牛丼食べさせて、ある程度お腹満たしてもらったけどね」
百五十円を結構呑んだのか、普段よりもトミちゃんは酔っている様子だ。元々酒が強いのでふらついたりはしないが、どこかフワフワと弾んでいる。こんな感じなら安太の絵を見に行ったことも話しやすい。打ち明けると、彼女もあの高さ二百メートルの美術館へ行ったという。聞けば同じ日だったので、もう一度乾杯。俺がスーツ姿だったことは黙っておく。
「あの景色、良かったよね。都内一望って感じで」
「ちょっと何を見にいったのよ、絵でしょ、絵」
「いやあ、あの、うん、正直凄いなと思った。驚いた」
「だよねえ。アングルっていうの? 構図みたいなのもセンスあるっていうか、才能あんじゃんって感動したわよ」
ここまでは良かった。酔ったトミちゃんと、安太の絵を讃えるのは気持ちがいい。実はこれこそやりたかったことかもしれない。目の前の柿ピーを美味しそうに食べた後、彼女は「でね、でね」と声を潜めた。
「私、投資してみたのよ」
「は?」
「いや、投資っつうかギャンブルなんだけどさ」
「ギャンブル?」まったく話が見えない。「どうしたよ、酔っ払ったか?」
「違うよ、大丈夫。だからさ、未来の画伯の作品を購入させて頂いたってわけよ」
ん、と真面目な顔になった俺に「だから投資よ投資。ほら、将来お宝になるかもしれないじゃん?」と、トミちゃんは楽しそうに弁解する。あのバーバラの裸の絵、売ってたのか。
「結構大きかったよね? あれ、そんなに部屋広いの?」
そんな味気ない問いかけを「違う違う」とトミちゃんは払いのける。
「賞取ったヤツじゃないよ。他にも三枚飾ってあったでしょ。あの中のひとつ」
え、と出そうになった声を押し殺す。てっきり一枚しか展示していないと思っていた。あれ以外にもあったのか。さすがに気付かなかったとは言えないので、「えっと、どれ?」と訊いてみる。
「女の子が花に埋もれた感じのやつ」
「女の子?」
「うん、上半身裸なんだけど、花が隠してるようなの、あったでしょ?」
はいはい、と応えたが当然何も浮かんでいない。代わりに今、頭の中にあるのは冴子の顔だ。嫌な予感を無視しながら値段を尋ねると、「絶対みんなには内緒だよ、絶対だよ」と言いながら、七万五千円と教えてくれた。生々しい額。今日は百五十円の酒を呑むのが正解だったみたいだ。
程なくしてトミちゃんはご機嫌で帰っていった。「投資、成功するといいね」と投げかけた言葉に嘘はない。今はただ、その絵のモデルが冴子でないことを祈るばかり。聞けば買ったその絵は「売約済」の札を付け、まだ展示されているという。頭の中でスケジュールを確認するまでもなかった。俺にそんな度胸はない。卑屈に祈るくらいで丁度いい。
トミちゃんに遅れること十分、俺も店を出た。「百五十円だからって、呑みすぎ注意だよ」というキンさんと「私も後から行きまーす」というマドカちゃんに笑って頭を下げる。誤解されたままで構わない。いや、本当にこれから行ってみようかな。
今日、安太に電話をするのは中止だ。俺のコンディションが悪すぎる。このまま電話をしたら、妙な勢いがついて下高井戸の家に突撃しかねない。今はまだダメだ。行くならば厳重に装備をしてからでないと俺の方がやられちまう。
それにしても七万五千円か、と天を仰いだ。高いか安いかは分からない。ただ投資だギャンブルだと照れ隠しを言っていたが、その額はトミちゃんの安太に対する信頼、「いい歳して夢に向かって頑張ってる」同士への熱いエールに間違いない。そして俺にはそういうものを贈られる権利も資格もない。
例えば必死に頭を下げて窮状を訴えれば、七万五千円をくれる人はいるだろう。でもそういうことでは決してない。トミちゃんはとても嬉しそうだったし誇らしげだった。それは七万五千円以上の何か――お金ではないはずの何かを手に入れたからだ。
俺が七万五千円を稼ぐには、とか、百五十円が五百杯呑めるな、とか考えているうちはよかったが、大学の一般教養でやっていた経済の話なんかが混ざってきたので、そのまま歩いて帰ることにした。スーパーで二リットルの水を買い、口から遠慮なくこぼしつつ家路を急ぐ。
いっそのこと、と顎の辺りをびしょびしょに濡らしながら思う。いっそのこと安太が日本を代表する立派な絵描きになって、長ったらしい名前の賞をいくつも取って、年に二回は園遊会に呼ばれるような生活を始めれば全ての問題は解決するはずだ。なんで今すぐ偉くならないんだ、このノロマ。
もしそうなったらあいつだって、と冴子の顔を浮かべたかったが、ただ苛立つだけでアウト。未来は想像できなかった。
枕元に置いたスマホのバイブが耳の周りを揺らしている。どうにか起きたけれど、電話には間一髪間に合わなかった。何とか確認した時刻は七時半。寝ぼけた頭でもおかしな時間だと分かる。通常、親戚の訃報以外は考えづらい。しょぼしょぼの目で確認した発信元は「ナオ」。ナオ? 慌ててかけ直す。
「あ、ごめん。起こしちゃったよね」
「うん。それよりどうした?」
「いや、今日の約束なんだけど、ちょっと無理になっちゃって……」
どうした、と訊いてから数秒、向こうから返事はない。もう一度「どうしたんだ?」と重ねてようやく反応があった。
「うん、ついさっき親から連絡があって、なんか大事な話があるみたい」
父親か母親かも分からないし、「大事」の度合いも分からない。でも「行くな」と止める選択肢がないのは、寝ぼけた頭でも分かる。結局よく分からないまま約束は流れた。
ああ仕事も休みだし一日ヒマになっちゃったなあ、と思いながら二度寝して二時間ちょっと、またスマホが震えた。目を閉じたまま「もしもし」と出ると、聞こえてきたのは店長の声。思わず上体を起こす。
「あ、店長。おはようございます」
まったく忙しい日だ。色々回りくどかったが、要は「店に行けなくなったから、代わりに出てほしい」という臨時出動要請。しかもオープンからクローズまでワンオペ。まあどうせ何もないし、と引き受けそのまま立ち上がる。ということは、あと一時間で出勤だ。昨日買った二リットルのペットボトルを冷蔵庫から出し、僅かばかり残っていた水で口を潤す。昨日色々あったから忙しい方が有難い。分かったか有難いんだぞ、と言い聞かせて乱暴に顔を洗った。
服を脱ぎ、シャワーを浴び、また服を着て、歯を磨く。そんな流れの中、ずっと思っていたのはナオのことだ。あいつ、親の方が大事なんだなあ。そう思いながら支度を整えるのは、案外効率が良かった。不思議と余分な動きが少なくなる。
支度を終えて家を出ても頭の中は変わらない。きっとナオは七万五千円、俺にくれるだろう。そんな具合にねじれていたが、知りたいのはそういうことだ。きっとくれるだろうけど、こうやって親の方を優先する。そのバランスを忘れてはいけない。決して忘れるな、と歯を食いしばりながら世田谷線に乗った。
右田氏は足を洗い、トミちゃんは安太の絵を買い、俺は急遽仕事になった。ここ数日、アウトばかりだ。野球ならスリーアウトでチェンジだが、野球じゃないからチェンジしてもらえない。このまま何十回もアウトが続き、気付けばコールド負け。ありえるな、と思うと腹の底が熱くなる。
平日の古着屋は夕方まで暇だ。今は夏休みでも冬休みでも春休みでもない。普段ならそれでいいが、今日は忙しい方が楽だろう。買取の客が来る気配もないので、久々にシャツを並べ直そうかと腰を上げた瞬間、本日一人目のお客様が御来店。飲食店みたいに「いらっしゃいませ」と声を張りはしないが、笑顔で会釈はしなければ。さあ仕事、と口角を上げる。でも店に入ってきたのは客ではなかった。ロックバンドのTシャツを着て、赤いフレームの眼鏡をかけた安藤さんだった。
(第19回 了)
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