世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
二十、ヤブヘビ
え、とお互いに驚いてしまった。声にするほどびっくりしている。ただ驚きの度合いとしては向こうの方が上。その自覚があるらしく、合皮のレザージャケットを着た安藤さんは、アタフタしながら「おはようございます」とぎこちない挨拶をした。
おはよう、と返しながら推理する。約一時間前の店長からの電話、目の前の安藤さん、二人の関係――。
考えるのも馬鹿らしい。答えは、痴話だ。ケンカになるならまだ楽しめるが、ただの戯れあいなら関わりたくはない。裸で混ぜてくれるなら話は別だけど。
脱いだジャケットを腕にかけたまま、何か言いたげな雰囲気の短大一年に「さっき店長から連絡があって、急遽チェンジしたんだ」と告げる。もちろん大人の嗜みとして、「伝言あるなら伝えとくけど」と鈍いふりも忘れない。
いや、あの、あ、そうなんですか、と明らかにおかしな反応の安藤さんを見ながらレジ金の確認に取り掛かる。実は十数分前、店に来てすぐ一度確かめているから問題はないはず。俺が今、本当に確認したいのは安藤さんだ。
ここ最近見なかったロックバンドのTシャツ姿で、アタフタを隠そうともしない彼女は何度か咳払いをした後、「あの、いてもいいですか?」と言った。
「え?」
「私、お店にいても大丈夫ですか?」
その口調とはちぐはぐな妙に落ち着いた表情。そして似合っていない赤いフレームの眼鏡。その奥にある瞳はしっかりと俺の顔を見据えている。
断る理由はひとつもない。椅子出そうか? と尋ねた俺に「大丈夫です。コンビニでお茶買ってきます」と頭を下げて彼女は外へ出る。店長に知らせてもよかったがやめておいた。すれば必ずヤブヘビになる。そう思ったから連絡はしなかった。
レジ前に座ってアイスコーヒーを飲んでいる。コンビニから帰ってきた安藤さんからのプレゼントだ。まるで勤務中のように働いてくれるから、特に俺がやることはない。やるはずだったシャツの並べ直しも、ついさっき終わらせてくれた。今日はまだ、いや、今日もまだ客は一人も来ていない。
気付けば彼女はモップを手に取っている。床掃除を始めるらしい。思い切りタダ働きだが、ああやって動いていた方が楽なんだろう。痴話は痴話でもケンカになるタイプのようだ。もしいちゃつくだけなら、ここにずっと居続ける理由はない。愛しの店長に電話をして、今すぐ会いに行けばいい。
「あの、すいません」モップ片手に彼女が近付いてきた。「やっぱり少し座ってていいですか? なんか疲れちゃった」
やはり断る理由はひとつもない。
それから七時間ちょっと、結局店を閉めるまで安藤さんは店にいた。普段二人で働いている時と座る位置は変わらなかったが、とにかくずっと話をしていた。彼女がここで働き始めてから約半年。こんなこと、初めてだ。
この間行ってきたロックフェスの話、通っている短大の話、生まれ育った街の話。彼女は高校を卒業するまで群馬で生まれ育っていた。少し前に群馬にまつわる話があったような気がするが、全く思い出せない。記憶を探りたかったが、安藤さんはちゃんと目を見て話すタイプなので厄介だ。集中していないとすぐバレる。
今日は会話の時間が長いだけではない。内容だっていつもよりも濃い。彼女は最初の方こそぎこちなかったが、時間がだんだん経つにつれ普段同様よく笑うようになった。きっと今後二人で働く時は、こうやって話すようになるのだろう。
美人の短大生と会話をするのは楽しいが、別に彼女に伝えたいことがある訳ではない。だからなるべく喋らすように仕向けていた。相槌のリズムさえ間違えなければ、そんなに難しくはない。安太のいつものやり口だ。ただ、それでも自分の話をするタイミングは回ってきてしまう。これまで一緒のシフトになっても訊かなかった基礎的な質問を、彼女はいくつかぶつけてきた。たとえば出身地、たとえば趣味、たとえば家族構成。
生まれてからずっと東京だと言うと「ぽいですねえ」と笑われた。趣味がない、と言った時も同じ反応だったが、妹がひとりいることに関しては「えー、見えないです」と驚いていた。姉か兄がいるように見えるらしい。「まあ、妹はかなりしっかりしてるんだけどね」と付け加えると、「ああ、なるほど」と納得していた。
夕方前の休憩は十五分。俺はコンビニで自分の分と彼女の分のアイスコーヒーを買った。店に帰る途中、スマホを確認すると店長からの着信が一件。留守電には何も入っていなかったので、わざわざかけ直したりはしない。もちろん彼女に伝えるつもりもない。とにかくヤブヘビだけは避けないと。
その後学生の集団が何組か来たおかげで、売り上げはそこそこ伸びた。店長から交代した手前、正直なところホッとしている。もしかしたらとスマホを見たが、あれ以降連絡はなかった。
閉店時間が来た後も、安藤さんが帰る気配はない。俺も「もう今日は大丈夫だよ、ありがとう」とは言わなかった。ここまで来たなら流れに任した方がいい。まさか店に泊まりこむつもりではないだろう。手伝ってもらいながら簡単な清掃を終え、タイムカードを押している間、彼女はドアの近くで待っていた。
「お疲れ様。今日は色々助かったよ。ありがとう」
「いえ、そんな。あの……」
「ん?」
「色々訊かないんですね。なんか、助かりました」
店長と何かあったんでしょ? なんて絶対に言わない。ただ「この間、タイムカード押してもらったしね」といなしておく。さあ帰ろうか、と促して数秒、安藤さんから「ご飯、連れて行って下さい」と頼まれた。
「え?」
「いや、色々と面白い店知ってそうだし……」
このセリフ、どこかで聞いたことあるような気がする――。悪い気はしないが、ゆっくり記憶をたどる暇もない。人の気持ちなんてすぐ変わる。そして安藤さんは美人だ。
「うん、じゃあ軽くね」
力がこもらないよう細心の注意を払い、羽毛よりも軽いトーンで了解する。薄暗い店内の中、ヤブヘビに対する警戒心は一向に作動しなかった。
短大一年の女の子が喜ぶような店は知らないし、下北界隈の店には行きたくない。そもそも純粋に食事をするような店なんて、牛丼屋や中華料理店くらいしか行ったことがない。きっと安藤さんは空腹だから「ご飯、連れて行って下さい」と切り出した訳ではないだろう。さっきまで俺に何も訊かれなかったから、色々と溜め込んでしまったもの。それを処理したいのだと思う。店を閉めてから無言のまま二、三分、俺の数歩後を彼女はついてきている。
「どこか行きたい店とかは?」
「私、何でも大丈夫です」
なんて会話はしたくないし、「面白い店知ってそうだし」なんて言われちゃったし、と頭をフルに回転させながら、足は下北を避け三軒茶屋の方向へ。ファミレスの看板がいくつか目に入る。何の面白みもないけれど、案外これが正解かもしれない。
「ファミレスでいい?」
そう訊いてみようと振り返ったが、間一髪、彼女の言葉の方が早かった。
「あの、私、お酒平気ですよ?」
あ、いや、でも、と慌ててみせるのも大人の嗜み。俺は内心胸を撫で下ろしていた。
モツ焼き屋を選んだことに深い理由はない。安いし、空いていたし、安藤さんが「わ、美味しそうな匂い」と言っていたし、というところだ。
威勢のいい店員に通されたのは二人用の小さなテーブル席。聞けばサワー系が好きと言うので、まずはレモンサワーで乾杯。とりあえず串の注文だけでも、とメニューに手を伸ばすと、「今日はすいませんでした」と安藤さんは頭を下げた。
「ん? どうした?」
「ちゃんと説明もしないで、ずっと店にいてすいません」
「いやいや、俺も助かったんだしさ、もうそれはいいんじゃないかな」
放っておくと今にもカミングアウトしそうだったので、慌ててメニューを広げた。まだ何か言いたげな彼女に「えっと、串は何がいいかな?」と尋ねる。ここで全てをぶちまけられるのは迷惑、それこそヤブヘビだ。今日のところはどうにか実名を出すことなく、胸に溜め込んでいるものを処理してもらいたいが、なかなか難しいかもしれない。
安藤さんは確かに「お酒平気」ではあったが、別に強いわけではなかった。しかもこの店のサワーは結構濃い。まあでも、これは想定内。店員に水を貰って、交互に飲むよう勧めておく。ヤブヘビを避けたい俺も同じだ。酒のペースは落とした方がいい。そう、ちゃんと頭では分かっていた。だがここで想定外の事態が発生してしまう。彼女が似合っていない赤いフレームの眼鏡を外したのだ。
「邪魔なんで学校の授業やバイトの時くらいしか、かけていないんですよ」
そう言って俺の目を見ながら笑う安藤さんは美しかった。もちろん知ってはいたが、こうして小さなテーブルで向かい合い、濃いめのサワーを飲んでいると意味が変わってくる。おかげでペースが狂い、気付けば俺はレモンサワーをぐっと飲み干していた。
やっぱり早いんですねえ、と大袈裟に驚いた後、彼女はトイレに立った。テーブルに残されているのは赤いフレームの眼鏡。そうか、こいつがリミッター、制御装置だったのか――。
それを外してしまった今、安藤さんの美しさは野放しだ。思いつく防御策はひとつだけ。レモンサワーを持ってきた若い店員に、「すいません、もう一杯水を下さい」と頼んでみた。
結局約二時間半、店が終わる時間まで俺たちはテーブル席で向かい合っていた。安藤さんは俺に言われたとおり、水を飲みながらのゆっくりペースだったのでほぼ無傷。店長の名前どころか、色っぽい話さえすることなく、ただ楽しそうにモツ焼きを食べ、普段よりも大きな声で笑っていた。そして俺は、そんな彼女の野放しの美しさにボロボロ。別に酔っ払ってはいない。ただ、その気になっちまっただけだ。
店を出る直前、勘定を済ましているとナオから連絡が来た。
お疲れ様/明日の朝、帰ります/親とは色々あったけど、それは次にでも/あ、この前のカメラのフィルム、実家の近所で安かったから大人買いしといたよ/今日はドタキャンになっちゃってごめんね
大丈夫ですか? と店の外に出たはずの安藤さんが戻ってきた。赤いフレームの眼鏡はジャケットの胸ポケットに挿さっている。大丈夫大丈夫、とその気になっている俺は穏やかな笑顔を作ってみせた。ナオは今夜帰ってこないから大丈夫、俺は明日も仕事だけど大丈夫、安藤さんは眼鏡をしていないから大丈夫。さあ行こう、と店の外に出る。
「安藤さん」
「はい」
「いや、今日はありがとうね」
「いえ、こちらこそごちそうさまでした」
あの、という言葉が重なったので彼女に譲る。きっと大丈夫、という俺の読みは当たっていた。
「あの、最後にもう一軒どうですか?」
オッケー、という俺の声は羽毛より軽かっただろうか。自信が持てないのは、その気になっているから。大抵そういう時の声はじっとり湿っている。
「次は絶対私が出しますね」
眼鏡を外した安藤さんが、微笑みもせず俺の顔を見上げる。恐らく分かっていると思う。俺がその気になっていることも、リミッターを取っ払った自分の顔の美しさも、この十九歳の少女はちゃんと分かっている。
「あの、提案なんですけど」歩き出してすぐだった。「次、カラオケボックスじゃダメですか?」
「え、カラオケ?」
「はい。飲み放題もつけれるし、私、無理に歌わせたりしませんから」
いいよ、と答える代わりに「超久々だよ」と言うと、「じゃあこっちです」とUターンをする。今度は俺がついて行く番だ。
「よく行くの?」とか「結構歩く?」とか「まだ飲める?」なんて余計な質問をする余裕はない。ベストな落としどころは何処なのか、ギラついた頭で俺は密かに考えている。いや、考えようと頑張っている。でもこの街は少し狭すぎた。安藤さんが振り返る。
「あの、着きました。ここです」
まだ落としどころが見つかる気配はない。
とりあえず一時間でお願いします、とフロントで彼女は言っていた。館内は盛況で廊下は各部屋から漏れたノイズに塗れている。何年振りだか忘れたが、この感じは昔とちっとも変わっていない。通された部屋は狭く、無理をすれば何とか直角に向かい合えそうだ。無論無理を試みるが、脱いだジャケットを壁に掛けようとする彼女に止められた。
「いや、それじゃあ狭すぎますよ。ここに並べばいいじゃないですか」
薄闇の中に二人隣り合い、肩が触れ合う距離で薄くて甘いレモンサワーを飲む。彼女も歌おうとはせず、かといって曲を探すでもなく、ただ馬鹿でかいリモコンをいじっている。
「レモンサワー、お代わり頼むけど、いる?」
「あ、はい」
俺と同じペースで飲んでいるが、さっきの店とは違って止めたりはしない。スピーカーからは知らない曲のカラオケが大きな音で流れている。彼女が俺に寄りかかっているのは、決して気のせいではないはずだ。
薄くて甘いレモンサワーはとても飲みやすい。立ち上がり、壁の電話でまた注文して座ると、安藤さんはまたピタっと身体をつけて寄りかかってくる。数分後に店員が運んで来たグラスを取った後も同じだ。今だって半袖から出た互いの腕が密着している。それなのに素知らぬ振りでリモコンをいじる美しい横顔。この子は全部分かっている。
そろそろ予定の一時間が経つ頃、彼女はようやく口を開いた。二人とも五杯ずつ飲んだ。薄くて甘いとはいえ、十分に一杯はなかなかのハイペースだ。
「あの、結婚してるんでしたっけ?」
ううん、と答えると「付き合っている人、いますか?」と重ねてくる。基礎的な質問から応用問題に内容が変わったみたいだ。
いるよ、と答えると俺の方に顔を向け、「私もいます」と言う。ここが落としどころかもしれない。密着したままの腕を、ぐいと押し付けてみる。特に拒みもせず、けど視線も逸らすことなく、そのままの姿勢で彼女はまた問いかけてくる。
「大丈夫ですか?」
何が? と訊けないのは分かる。でも、それにしても美しい顔だ。俺は落としどころを探るのを止め、こっそりと自分の欲望に従った。
「うん。安藤さんも大丈夫?」
彼女は答える代わりに腕をぐいと押し付け、力を入れたり抜いたりを交互に繰り返す。まるで心臓の鼓動だ。つまりオーケーなんだな、と理解した俺は「じゃあ、どこにしようか?」と耳元に顔を近付けた。つい数時間前、あれほどヤブヘビを警戒していたのが懐かしい。
「ラブホがいいです」
腕をべったりと密着させているからか、その答えに驚きはしなかった。
(第20回 了)
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