世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
十八、ぬかるみ、明るみ
珍しく遅刻をした。ドタキャンはよくやるが、「フォー・シーズン」で遅刻は初めてかもしれない。学生の頃もそうだった。欠席と早退は多かったが、遅刻をした覚えはない。ちょっと遅れただけで結局最後までいなければいけないなんて馬鹿らしいと思っていた。だったら一限だけ出て早退した方が得。そう言って周りからツッコまれていたのが懐かしい。
久々の遅刻だからといって特別な理由なんかない。昨日から雨が降り続いているが、もちろんそのせいでもない。普通に寝坊をしただけだ。ナオが泊まりに来ていれば、起こしてくれたのかもしれないけれど。
「すいません。十分遅れます」
駅から電話した俺に「え、休まないんですか?」と訊き返した安藤さんは、タイムカードを定時で押してくれていた。ありがとう、と頭を下げたマヌケ面の俺に、「私の時もお願いしますよ」と明るく笑っている姿は妙に大人びていて、やっぱり店長と色々あるんだなと納得できた。そういえば彼女は最近、ロックバンドのTシャツを着てこない。
「あれ、これは?」
無防備に声を出したのは、まだ寝ぼけていたからだと思う。見慣れないインスタントカメラがレジの脇に置いてあった。
「あ、すいません。私のです。最近なんていうかゲットして……」
背後から聞こえる安藤さんの声に、僅かな焦りが染み込んでいた。店長とあんな事やこんな事を撮り合って楽しんでんだな、と今までなら健康的に解釈しただろう。でも彼女を大人びたなと思ったせいか「畜生」と妬んでいた。俺は不健康だ。畜生、店長のヤツ、うまいことやってやがんな――。
「懐かしいなあ。デジカメなんかよりこういう方がいい?」
不健康なヤツは意地が悪い。可愛らしいパステルカラーのカメラを指差し、安藤さんの反応を楽しむ。大人びたはずの彼女は過剰な笑顔で律儀に答える。不健康というより悪趣味だな、と反省した俺は無意味な質問をして話を切り上げようとした。
「今、これっていくらくらいするの?」
「そんな高くないですよ。多分七、八千円くらいから買えるはずです」
予想外の安値にスマホで確認してみた。確かに安い。
「本当に安いじゃん」
「あー、信用してなかったんですね」
大人びた感じに戻った安藤さんへの謝罪の意味も込め、俺はその場でカメラを注文した。超衝動買いじゃないですか、と笑っている彼女はやはりまだロックバンドのTシャツが似合う女の子だ。畜生、店長のヤツ。
仕事が終わっても雨は降り続いていた。ナオからは帰りに「マスカレード」へは寄らなくていいと言われている。無駄遣いをするな、ということだ。来年三十歳のフリーターには耳が痛い。「でもさでもさでもさ、ハイネケンじゃなくて割りモノならタダで出せるんじゃない?」という一言は呑み込んだ。あいつはちゃんとした人だ。でもさ、なんて通じない。
だったら、と浮いたお金で「大金星」に立ち寄った。真っ直ぐ帰りたくないのは雨のせい、ではなく傘のせいだ。昔から傘をさすのが嫌いだった。バイトのマドカちゃんに大瓶を頼んで知った顔の隣に立つ。トミちゃんとワダテツ。俺の顔を見るなり「聞いてるだろ?」と距離を詰めてきた。
「ん? 何を?」
何だよ知らないのかよ、と大仰に驚いたワダテツ曰く、安太の絵が賞を獲ったという。
「ドコカの新聞社がやってるナントカって賞らしいんだけど、結構な賞金ラシイんだよ」
全く要領を得ない。片やトミちゃんは受賞作が発表されているサイトを知っていた。どんな絵なのか知りたかったが、こんな状況で見るのは落ち着かないので「そんな情報、どっから飛び込んできたの?」と風向きを変えてみる。返ってきた答えは「だって気になるじゃない」という直球だった。
「たまに気が向いた時に検索かけるのよ、あの人の名前で。たいてい何も起こってないんだけどね」
トミちゃんの横顔を見ながら、以前に安太と何かあったんだろうかと考える。やっぱり俺は悪趣味だ。そしてその手の汚れは顔に出やすい。敏感に察した彼女はやんわり否定した。
「別にあの人と何かあるわけじゃないの。でも、アレなのよ。うーん、ちょっとコレ、ここだけの話にしといてよ」ぐっと声を潜めたトミちゃんに、俺とワダテツはすっと顔を寄せる。「たまに買ってくれるのよ、うちの劇団のチケット。もちろんちゃんと観に来てくれるしね」
へえ、とワダテツが俺の分まで驚いてくれた。「なるほど、そりゃあ妙にモテるわけだ」という言葉にも乗っかって頷く。
「まあ、お互いいい歳して夢に向かって頑張ってるわけじゃない? だから今度のことは嬉しくてね」
「いや、本当本当。今度会ったら奢ってやんないとな。ちゃんと伝えといてくれよ」
俺を軽く肘で小突いたワダテツの顔に曇りはない。健康的だ。さっき店長を妬んでいた自分を思い出し、その違いを考えようと思った。俺とワダテツの違い、ではない。安太と店長の違いだ。でもダメだった。「ほらほら、勝手に祝杯あげちゃおうよ」と乾杯が始まり、何事かと周りの連中が集まってくる。結局トミちゃんにそれがどんな絵だったかは訊けなかった。
大瓶を二本空けてちょうど一時間。店を出てもまだ大粒の雨は降っている。ずいぶん湿度が高い。憂鬱な傘をさして三軒茶屋方面へ戻る途中、水を買って緑道で道草を食った。今、家に帰りたくないのは傘のせいではない。安太の話を聞いたからだ。
俺はトミちゃんやワダテツと違って素直に喜べなかった。冴子とのことがあるから、と言い切れないのが悲しい。例えばこれが一年前、安太の家によく女の子を連れ込んでいた時期だとしても、俺は喜べなかったと思う。置いてきぼりにされたような、ひどく裏切られたような、その二つが混ぜこぜになったような暗い気持ち。街灯に照らされた緑道のぬかるみに、不健康なノケモノは傘を思いっきり突き刺した。
ようやく雨の勢いが衰えた翌日、仕事帰りに狛江のナオのマンションに行った。安太の絵をスマホの小さい画面で見るのは嫌だったからだ。俺の家のパソコンはネットに繋がっていない。ホンマさんの絵を見るの初めてよ、と楽しそうなナオに訊いてみる。
「なあ、まだ生じゃ見れないんだよな?」
「え、生って?」
「だから実物を見れないのかってこと。どこかに展示されてるんじゃないのかな?」
ちょっと待って、と調べること数分、明後日から他の受賞作と共に一週間ほど公開されるらしい。場所は新宿。どうする? と訊いたのは俺ではなくナオの方。答えがまとまらないから黙っている。
「とりあえず今見るのはどうする? やめとく?」
「生で見た方がいいような気もするし、別にこのまま見なくてもいいような気もする。あの……もし見たかったらさ、俺に遠慮なく見てやって」
何よそれ、と笑った後で「じゃあシャワー浴びてきたら? 私、その間に絵を見とくから」とバスタオルを投げてよこす。ハイハイ、と面倒臭そうな態度で俺はシャワーに逃げ込んだ。そう、答えを出したくなかったからナオの前から逃げたんだ。
もちろん、シャワーを浴びたくらいで答えは出ない。絵を見たはずのナオは俺に感想を伝えないでいてくれたし、それ以降二人の間でその話題は出なかった。俺がここに来た理由なんて忘れたように、テレビを見ながら酒を飲んで馬鹿話をしただけだ。あいつは本当にちゃんとしている。
そして三日後の昼下がり、俺は新宿にいた。都庁の近く、高層ビルが立ち並ぶ見慣れない風景。普段、美術館とか受賞作品とは縁がないのでとりあえずスーツを着てネクタイも締めてみた。久しぶりに整髪料も使った。何だか結婚式の二次会に行くみたいだ。やり過ぎかなと思ったが、場所は高さ二百メートル近いビルのほぼ最上階。短パンにサンダルよりマシだろう。
やはり普段は縁のない高層ビルに入り、キョロキョロしながら直通エレベーターに乗る。俺以外には誰もいない。慣れない感覚に身体を任せながら、ずっと考えていたのは時期のことだった。そんな賞が貰えるような絵、安太、いつ描いてたんだ?
ロビーからは東京が見渡せた。さすが上空二百メートル、邪魔物は少ない。新宿の街並みはもちろん、遠くにはスカイツリーも見える。晴れていてよかったと目の前の景色を堪能しつつ、数日前の緑道のぬかるみを思い出す。まだ俺の気持ちは暗いままだ。安太はいったいどんな絵を描いたんだろう? エレベーターから降りてきた二人の女が、窓に駆け寄り「絶景、絶景」とはしゃいでいる。ふと瞼の裏に浮かんだのは、キャンバスに描かれた冴子の裸。俺はその残像を振り払いながら美術館の受付へと向かった。
大丈夫、そんなに短期間で描けるもんか。いや、そもそも冴子がそんな絵を描かすもんか。内側で渦巻く想いが表情に出ないよう気を付けながら、安太の受賞作品だけを探す。俯き加減で絵には目もくれず、作者の名前だけをチェックしながら歩くスーツ姿の男は、いち早く警備員にマークされたかもしれない。
「本当におめでとう。すごいねえ」
「ありがとう。自分でもびっくりしちゃったのよ」
館内には談笑する集団が二、三組。あれは作者を囲んでいるのか。もしそうだとしたら安太もここにいるのか。さすがに今日は会いたくない。もう少しゆっくり動こう、とスピードを落とした瞬間だった。あまり見慣れない安太の本名が視界に入る。隣に書かれた「優秀賞」という文字が眩しい。安太、本当に獲ったんだな。タイトルは「無限の幽玄」。その意味を掴めないまま頭を上げる。大きなキャンバスに描かれていたのは――、よく分からなかった。
あれ、と二、三歩下がってみる。キャンバス一面、砂漠が広がっている……と思うが自信はない。更にもう二、三歩後退。ああ、と思わず声が出た。見覚えのある風景じゃないか。相当デフォルメしているが、これは忰山田さん、通称バーバラの裸だ。
砂漠と見間違えるほど色々誇張しているし、顔の部分にはモザイク的に靄が掛かっているけれど、間違いなくこれはモーパッサンのバーバラだ。騎乗位だとこんな風に見えるに違いない。へえ、と素直に感心した。池袋のホテルで一緒にぐちょぐちょやっていた時も、こんなアイデアが浮かんでいたのかもしれない。ぐちょぐちょする時くらい集中しろよ、と思わなくもないが、こうして完成した作品を見ていると圧倒されるものがある。俺は数分、バーバラの裸の前で立ち尽くしていた。
直通エレベーターで再び地上に降り、今までいたビルの最上階辺りを見上げてみたがあまりよく見えない。バーバラは自分の裸があんなに高い場所に飾られていることを知っているのだろうか。連絡先が分かれば教えてあげたいくらいだ。
あの館内では会いたくなかったが、安太に電話で一言「おめでとう」と伝えたい気持ちはある。向こうから連絡をよこさないのは、冴子と何かあるという何よりの証拠だろう。
このまま互いに連絡を取らなければ楽かもしれない。でも、それは黙認することと同じだ。ノケモノの俺はそこまで踏み切れない。出来ればまだごまかしていたい。俺は何も知らないと二人には思い込んでいてもらいたい。だから今から鈍いふりをしてお祝いの電話をしようと思っている。安太と冴子のことが明るみに出るのが、そして元に戻れなくなるのが俺は一番怖い。
時間は午後三時前。さっきよりも風が強くなっている。すぐにでも安太にかけるつもりだったが、いざとなると躊躇してしまい実際にかけたのは三十分後。本当、情けない。場所はこの間ナオと一緒に来た新宿の中央公園。ベンチに腰かけてスーツのポケットからスマホを取り出す。こんな格好をしていると、仕事中のサラリーマンに見えるかもしれない。
意を決してかけてみたが、そううまくはいかなかった。数コール待たされて留守電だ。一瞬どうしようか迷ったが、冴子が聞く可能性を考えてそのまま電話を切った。正直なところ、少しほっとしている。おめでとう、とメールで送ってもいいが、返信が来るまでの心持ちを考えると気が重い。後でまたかければいいか、と俺はネクタイを外した。
今日の夜はナオが泊まりに来る。誘った、というか頼んだのは俺の方だ。安太の絵を見た後は、どんな状態であろうとナオと一緒にいたかった。一人でいてもろくなことにはならない。
新宿のデパ地下で惣菜をいくつか買って家に帰る。京王線から世田谷線というルートだが、安太の自宅がある下高井戸で乗り換える時は周囲が気になった。安太に似た人はいなかったが、何人かの女の後ろ姿は冴子に似ていた気がする。あれ? と思うこと数回。その度、もうあの二人のことは明るみに出てしまっているような気がした。
家に帰ったらまず、美術館で貰ってきたプリントやパンフレットを読むつもりだった。他の作品に興味はないけれど、「無限の幽玄」というタイトルの意味くらいは知りたかったからだ。
でもダメだった。スーツを脱ぎ、顔を洗い、布団の上に寝転んで靴下を適当な方へ飛ばすと、急激に眠くなってきた。やっぱり慣れない場所に行くと疲れるんだな。じゃあ五分だけ目を閉じよう。そうすればこの眠気から解放される。そう思って目を閉じてから数秒、俺はぐっすりと寝入ってしまった。
起きるきっかけはチャイムとノックの音。時間を見れば午後七時過ぎだ。ナオのヤツ、今日は早くあがれたのかな。ちょっと待ってて、と声をかけながらドアを開けると宅配のオジサンだった。
「はい、お届け物です。こちらにサインの方をお願いします」
「あ、すいません。はい、ありがとうございます」
渡された包みのサイズで中味は分かった。この間、安藤さんに教えられて買ったインスタントカメラだ。まだ眠かったので布団の上で包みを開けたが結局また眠ってしまい、再びチャイムとノックの音で起こされた。今度こそナオだ。ドアを開けると「はい、これ」とワインのボトルを渡される。
「今日はこれ一本だけにしとこうよ。私、明日一度実家に顔出さなきゃいけなくなっちゃって」
「え、今日泊まったりして大丈夫か?」
それは大丈夫、と答えたナオは布団の上に置かれた新品のインスタントカメラを不思議そうに見つめている。説明するのも面倒だから「安かったんだよ」と言うと、「うちの店に寄らない代わりに、買い物してちゃ意味ないでしょ」とたしなめられた。確かに仰るとおりだ。
ちょっと冷やすわね、とワインを冷蔵庫に入れるタイミングで写真を壁から剥がした。酔いつぶれて寝ている俺と、舌を出しておどけるあいつのツーショット。もうこんな写真を撮ることはないのかもしれない。
少々買い過ぎた惣菜の量にナオは何か言いたそうだったが、「で、どうだったの? 見てきたんでしょ、ホンマさんの絵」と話を進めてくれた。ロビーの窓から東京が見渡せたことと、やはり生で見て良かったことは告げたが、スーツにネクタイ姿だったことは内緒だ。
「あとさ、あの女の描き方は素直に感心したよ」
でもモデルのバーバラを知っていることまでは言わない。え? と驚いたのはナオの方だ。
「あれ、女の人なの? 私、てっきり砂漠か、そうでなければ抽象画だと思ってた」
パソコンの小さな画面だと印象がかなり違うのかもしれない。やはり上空二百メートルまで見に行って良かった。
ワインはまだ残っていたが、美術館の話はそこまでにして話題を変える。安太に電話をして繋がらなかったことは伝えなくてもいい。勘のいいナオのことだ。俺が全てを話していないと気付いているだろう。悪いけれど今日は甘えさせてもらいたい。
「あのさ、後でユリシーズを撮らせてよ」
「ええ?」ナオは目を丸くした。「撮るってあのカメラで?」
「そうそう。で、壁に貼っとこうと思うんだ」
「壁に?」
「うん。これから少しずつ増やしていって、最終的には壁があの青で埋まるっていうのはどう?」
あのタイプのフィルムって結構するんだよ、と言いつつナオは袖をたくし上げてくれた。
(第18回 了)
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