ささやかな日常の一瞬を切り取り、永遠の、懐かしくも切ない言語的ヴィジョン(風景)に変えてしまう、『佐藤くん、大好き』で鮮烈なデビューを果たした原里実さんによる連作短編小説!
by 文学金魚
目が覚めると博士の顔が見えた。博士の顔を見るのは初めてのはずだった。でもわたしは、それが博士だということを知っていた。
「おはよう、メイ」
「おはよう、博士」
わたしはゆっくりとからだを起こした。わたしは白いワンピースを身にまとっていた。手のひらを見つめた。指はわたしの意思を反映して、なめらかに動いた。
嬉しかった。この世に生まれてきたことが。そしてそれは、ほかならぬ博士のおかげであるということをわたしは知っていた。
わたしは、博士の頬にキスをした。博士はくすぐったそうに、含み笑いをした。わたしの胸は、ちりちりした。
「立てるかい?」
博士はわたしに手を貸した。わたしはその手を取って、そっと床に足をつけた。足の裏が、ひんやりした。床は、堅かった。
そのまま、右、左、右、左、と交互に足を動かした。
「大丈夫そうだね」
博士が嬉しそうにしていることが、わたしは嬉しかった。
わたしと博士は、並んでラジオ体操第一をした。わたしは腕を斜め上にふり上げる運動が好きだった。なんだか楽しい気分になるからだ。
わたしがあまり勢いよくからだを動かすと、博士はそのたびに心配しているようだったけれど、わたしのからだはすこぶる好調に、軽やかに動いた。
わたしは朝食をつくった。それが初めての仕事だった。博士の好みは、既にインプットされていた。わたしは冷蔵庫のなかを見て、何をつくったらよいのかすぐに考えることができた。今朝は焼いたトマトにマッシュルーム、それにスクランブルエッグ。イギリス風の朝食にした。もちろん、それは博士の口にぴったり合って、わたしの初めての仕事は大いに成功をおさめた。
博士は平日、毎日八時ころ家を出て、七時ころには戻ってきた。規則正しい生活を送るのが好きなのだ。わたしは家のことをしながら、博士のことを待った。博士がいないあいだも、博士の着たものを洗濯したり、博士の使った食器を洗ったり、晩に博士と一緒に何を食べるか考えたりしながら過ごした。わたしは、いつも満たされていた。
初めての週末に、博士はわたしを町はずれの丘へ連れていった。よく晴れていて、丘の上には心地のよい風が吹いていた。わたしは初めての遠出がうれしくて、早起きしてたくさんのサンドイッチをつくった。フリスビーをしたり、シートの上に寝転がって本を読んだりしながら、わたしたちは時間をすごした。博士も楽しそうにしていたけれど、一度だけ、りんごのかたちに切ったりんごをほおばっているわたしの顔を見ながら、少し、悲しい顔をした。
「どうしたの?」
わたしはたずねた。
「なんでもないよ」
と博士は答えた。それからわたしのほほを、その冷たくて細い指で、やさしく撫でた。わたしはおなかのなかがくすぐったいような気持ちになった。
二度目の週末には、海へ行った。博士のこぐ自転車のうしろに、わたしが乗って。
海を見るのは、初めてだった。大きな水のかたまりがうねっている様子は少し怖かったけれど、その分、魅力的でもあった。
わたしのからだは完全防水だと博士は言ったけど、わたしは勇気がなくて、靴と靴下を脱いで、足のほんの先の方だけ水に浸した。冷たくて気持ちがよかった。博士はそんなわたしを見て笑いながら、また少し、悲しい顔をした。
「どうしたの?」
わたしはたずねた。
「なんでもないよ」
と博士は答えた。それからわたしの唇に、そっとキスをした。わたしは心臓をぎゅっとつかまれたような気持ちになった。
そいつがやって来たとき、わたしはとても驚いた。水曜日の午後三時だった。
「やあ」
はじめ、わたしは博士が帰ってきたのかと思った。でも、博士がそんなふうにわたしに内緒でいつものペースを崩すなんてことは考えにくかったし、何よりもわたしのなかの何かが、そいつは博士ではないとはっきり告げていた。
わたしはわたしの頭のなかから博士の全身の姿かたちを呼び出してきて、目の前に立っているその男と重ね合わせてみた。おおまかな背格好は一致したけれど、目の前の男の方がわずかに腕が長く、こちらから見て右側の口もとに、博士にはないほくろがあった。
「誰?」
わたしはたずねながら、博士がアンドロイドであった可能性について考えた。そうであれば、こんなにそっくりな別の個体が存在することも説明がつく。
そいつは、
「おれを忘れたの?」
と大げさにショックを受けた顔をしながらも、すぐに笑顔になって、
「大丈夫、すぐに思い出すさ」
とつづけた。
「兄貴は留守だね? 上がってもいいかなあ」
「兄貴?」
「ああ、そう。おれは博士の双子の弟さ」
双子。わたしは合点がいった。博士はアンドロイドではなかった。こんなに似ているのなら、一卵性双生児に違いないとわたしは思った。
博士の弟は、わたしが答える前に靴を脱ぎ、堂々と部屋へ上がってきた。わたしは慌てて、スリッパを用意した。博士の弟はそれを見て、ありがとう、と笑った。
博士の弟は勝手知ったるふうで台所へ入っていき、やかんに水をくんで火にかけた。わたしは少し離れたところから、動向を見守っていた。
「緑茶でしょうか?」
男は、首を横に振って、紅茶の茶葉の缶を棚から取り出した。
「アールグレイだよ」
男は淡々と答えた。わたしはどうしたらいいかわからなくて、
「わたしがやりましょうか」
と申し出た。男は、また首を横に振った。ポットとカップをお湯で温めて、ていねいに紅茶をいれた。
「ビスケットは?」
男はたずねた。ビスケット? とわたしがわからない顔をすると、
「いいよ」
と笑った。
わたしたちは向かい合って紅茶に口をつけはじめたけれど、気まずかった。わたしは、早く博士が帰ってこないかな、と思って時計を見た。まだ、そいつがやって来てから二十分しか経っておらず、博士が帰ってくるまでにはずいぶん時間があった。
「元気そうだね」
いい匂いだなあ、と男は言いながら、湯気の立つ紅茶のカップに口をつけた。
「はい、元気です」
わたしは、変な気分だった。男は博士とほとんど同じ姿かたちをしているにもかかわらず、話し方や、全身の筋肉の使い方のせいか、圧倒的に違う人物のように見えた。
「あの、前に会ったことがありますか?」
わたしはたずねた。元気そうだね、という言い方が、初めて会うにしては、少しおかしいと思ったのだ。あんのじょう、そいつは、小さくうなずいた。
「先週も来たんだよ」
わたしには、そいつの言っていることがよくわからなかった。
「先週? の、いつ?」
「水曜日。同じ時間さ」
この男も、規則正しくあることが好きなんだな、と思った。それは博士と同じだった。……博士?
「そういえば、どうして博士と同じ顔なの?」
「ああ。俺は博士の双子の弟なんだ」
博士の弟は言った。どうりでそっくりなわけだと、わたしは腑に落ちた。こんなにそっくりなら、一卵性双生児に違いない。
「でも、わたし、先週の水曜日にあなたに会った?」
「会ったよ」
博士の弟は答えた。
「覚えていないだけで。メイはおれのこと、覚えられないんだよ」
博士の弟は、かばんからビスケットの箱を取りだした。赤い箱に天使のマークがついている、素朴な味のビスケットだ。食べたことはないけれど、あまりにも有名な銘柄なので、わたしの頭のなかのデータベースに入っている。
「メイも食べる?」
そいつはわたしにもビスケットを勧めながら、袋を開けて食べはじめた。
「紅茶と一緒に食べるとうまいんだ」
そいつは幸せそうに言った。あんまりおいしそうに食べるので、わたしも袋を開けてかじった。
「なぜ、わたしはあなたのことを覚えられないの?」
ビスケットを食べながらわたしはたずねた。
「そうなるように、博士が、きみの頭のなかに書きこんだからさ」
やはり、そいつの言っていることはわたしにはよくわからなかった。
「なぜ、そんなふうに博士は書きこんだりしたの?」
そんなことをして、不便こそあれ、何か特別よいことがあるとも思えなかった。そしてわたしの知る限り、博士は不合理なことをするような性格ではなかった。
「おれがきみのことを好きだからさ」
そいつは答えた。
好き、という言葉に、わたしは飛び上がりそうになった。ちらりと見ると、そいつはいたって涼しい顔をしていた。わたしは気を落ち着けるために、紅茶をひと口飲んだ。
「メイは一度リセットされたんだよ、覚えていないかもしれないけど」
そう言って、そいつはビスケットをかじった。
「リセット?」
「そう。リセットされて、記憶がみんななくなってしまったのさ」
「なぜ? どうして博士はそんなことを?」
「おれがきみのことを好きだからさ」
そいつはまた、同じように答えた。
「きみの記憶のなかに、おれがいるのが嫌だったのさ」
わたしの記憶のなかにあったはずの男の記憶を、わたしは呼び覚まそうとしてみた。けれど無理だった。そりゃあそうだ。博士が、消そう、と思ったなら、それはもちろんきれいさっぱり消えて、抜かりがあるなんてことはありえないのだ。
「もしかしてわたし、先週もあなたに同じこと、聞いた?」
わたしがたずねるとそいつは少し笑って、そうだよ、と答えた。
「メイはやっぱり、頭がいいね」
ごめんなさい、とわたしは謝った。けれど、男は、きみが謝ることじゃないさ、と穏やかに言った。
わたしはお代わりの紅茶をいれようと、立ち上がった。やかんに水を足し、再び火にかけて、茶葉を用意しようと戸棚を開けた。
「あれ?」
頭にもやがかかったようになって、思い出せなかった。さっき、わたしたちどのお茶をいれたんだったかしら?
「アールグレイだよ」
男は教えてくれた。
テレビを見ながらアイロンをかけていると、博士が帰ってきた。晩ごはんの用意はしてあるから、あとは温めなおして器によそうだけだ。
わたしはアイロンがけを中断し、台所へ行く。博士がグラスに水を注いで飲もうとしていた。
「メイ」
博士はわたしを呼んだ。
「誰か来たの?」
博士は洗いかごに伏せられた二つのティーカップを指し示しながら、わたしにたずねた。
「ええ、来たわ」
わたしは答えた。
「これは、買ったの?」
博士は戸棚を開けると、ビスケットの箱を指差し、重ねてたずねた。
「いいえ、持ってきてくれたの。夕方に来た人が」
わたしは答えた。
「ふうん。いったい誰が来たのかな?」
博士に問われて、わたしは思い出そうとしてみた。男か、女か、若い人か、年老いた人かさえも、わからなかった。その人がビスケットを持ってきた、ということだけはわかるのに、そのときの状況は何ひとつ思い浮かばなかった。
しわのよったわたしの眉間に博士はそっと触れて、
「無理に思い出さなくてもいいよ」
と笑った。
「大丈夫だよ」
博士が、大丈夫だよ、と言うと、不安だった気持ちが嘘のように消えていった。それよりも、博士と一緒に早くハッシュドビーフが食べたい、と思って、わたしは鍋に火をつけた。
(前編 了)
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