ささやかな日常の一瞬を切り取り、永遠の、懐かしくも切ない言語的ヴィジョン(風景)に変えてしまう、『佐藤くん、大好き』で鮮烈なデビューを果たした原里実さんによる連作短編小説!
by 文学金魚
タムサク結婚だって! スマートフォンの画面につぶやきとともに、泣き顔の絵文字が流れてくる。くだらない、と真凛は思う。画面の上をなぞるように、人差し指を縦にすべらせると、大量の情報が通りすぎては消えていく。しばらくそれを目で追ったあと、つまらなくなって画面を暗くした。
ふと視線を上げると、目の前の七人がけの座席に座っている乗客全員、手のひらのなかの小さな画面に見入っている。真凛は眼を閉じた。電車がレールの上をすべっている感覚が、お尻から伝わってくる。
目を開けたら、プリーツスカートからのぞく太ももと膝頭が白くかさついているのが目に入った。これだから冬はいやだ。足のあいだに挟んでいた学生かばんから、ボディークリームを取り出して塗り込む。向かいに座っているおじさんが、ぎょっとした顔で真凛を見た。
校門の前に、黒山の人だかりができている。バンが何台も停まって、なにやらカメラを担いだ人やマイクを握った人までいる。なにごとかと思いながら近づいていくと、そのなかのひとりが真凛に気づいて、駆け寄ってきた。
「きみ、何年生?」
初対面のくせになんでタメ口なわけ、と真凛は無視を決めこんだ。
「あっ、ちょっと」
失礼な男はしつこく寄ってくる。
「三年四組の寺田さんって知ってる?」
四組の寺田さん? 思い出そうとしたけれど、顔が浮かばなかった。
「知らない」
素っ気なく答えると、男はすぐに興味を失ったようだった。
昇降口も、階段も、廊下も教室も、みんないつもより騒々しい。かばんを机の横にかけ、席に着くと、大きな背中を丸めて居眠りしていた隣の席の山田が目を覚ました。
「おはよう」
「おはよ。今日なんかあるの?」
ああ、という返事とあくびの混ざったような声を山田は出して、
「聞いただろ、タムサクが結婚したって」
「うん」
「その相手が、四組の寺田だったんだってさ」
「あっ、そういうこと」
「そういうこと」
真凛の席の近くでも、なにやらかしましくおしゃべりをしている女の子たちの輪から声が漏れ聴こえてくる。
「いいなあ、タムサクが旦那さんなんて」
「急に手紙が来たらしいよ。あなたの結婚相手は田村朔也ですって」
「びっくりして卒倒しちゃうわよね」
田村朔也、いまをときめくスーパーアイドル、通称タムサク。真凛が電車の中でSNSから得た情報によれば、結婚の報道によって、タムサクがいま主演を務めている月9の視聴率低下があやぶまれるとのことだった。
タムサクが結婚したって、と真凛は思う。「ラブハレーション」がおもしろいことに、なんのかわりもないのに。
「帰ったら、毎日タムサクがいるなんて」
「いいなあ」
「でも里奈子は、タムサクより黒木くんでしょ」
「今度、水族館にデートに行くの。なにを着て行こうかなあ」
一時間目の先生が教室に入ってくると、かしまし娘たちは蜘蛛の子を散らすように退散していった。先生は四組の寺田さんのことにはひとことも触れずに、いつもどおり出席を取りはじめる。
頬杖をついて、その声を聞きながら、真凛は考えている。あとひと月したら。
あとひと月したら、真凛は十八歳になる。もう、病院の予約もしてある。からだじゅうの検査をして、情報を登録する。それからあとはもう、寺田さんみたいに、いつ結婚することになってもおかしくないのだ。
どうせいつかは知らない人と結婚するのに、と真凛は思う。どうしてみんな無邪気にデートなんか楽しめるんだろう。
「山田」
出席番号順でいちばん最後の名前を、先生が呼んだ。山田はぼんやりしていたのか、
「ふぁい」
と気の抜けた返事をして教室の笑いを誘っていた。照れくさそうな笑みを浮かべている山田の顔を横目で見ながら、こいつって普段なに考えてるんだろ、と真凛は思う。
かばんのなかから教科書を取り出していると、右腕をつつかれた。教科書見して、と山田が口の動きだけで訴えてくる。真凛はわざといやな顔をして見せてから、山田のほうに机を寄せた。
教科書百三十六ページ、先生がいうとおりのページを開くと、予習をしたときに描いたおまんじゅうの落書きが残っている。山田はそれを指差して笑ったけれど、真凛は無視した。
窓の外をながめると、校門の周りにまだたくさん人がいるのが見える。もう一度右腕がつつかれた。なにかと思えば、山田がルーズリーフにメッセージを書いてよこす。
つまらん。
汚い字だった。筆跡からいかにも、つまらん、という気だるさがにじみ出ていて、真凛は思わず少し笑った。
私もつまらん。
書いて返した。山田は少し考えてから、急になにやら思いついたように鉛筆を動かしはじめた。真凛の真似をして、おまんじゅうを描いている。真凛はそれに、顔を描き足した。顔のあるおまんじゅう。
デートでもするか。
山田は書いてきた。
なんで?
つまらんから。
暇つぶしにデートなんて、ほかのみんなと同じだ。でもまあ、べつにいいか、という気分になった。
いつ?
今日。
塾ある。
一日くらい、平気だよ。
ばれたらママに怒られるな、と思った。ママはしっかり勉強していい成績をとれば、経済的に裕福な人の結婚相手に選ばれるのだと信じている。自分がそうだったから。
なんとなく連れ立って教室を出るのが気恥ずかしくて、校門前で待ち合わせをした。
「どこに行くの?」
真凛がたずねると、決めてない、と山田は答えて、ゆっくりと歩き出した。真凛はついていくことにした。
学校の敷地の外側に沿って、プールの近くの裏門があるあたりまで行くと、山田はそこから裏道を抜け、細い階段をくだり始めた。
「ふり向かないでね」
先を下りて行く山田に、真凛は言う。角度が急で、パンツが見えそうなのだ。
「え?」
と山田は聞こえなかったふりをして、わざとふり返るようなそぶりを見せる。ちょっと、と怒った声を出すと、楽しそうに笑った。
階段を下りきって、踏切を渡ると、商店街に出る。夕方の商店街は人でにぎわっていた。
「おれのお気に入りを教えてやろう」
と山田は得意そうに言うと、まっすぐに肉屋まで歩いていった。
「食えるか?」
なにを、と思いながら、真凛はうなずいた。
「ピロシキふたつ」
エプロンに三角巾をつけた肉屋のお姉さんに、山田はそう注文する。
「あら、お友達?」
顔見知りなのか、お姉さんは山田にたずねた。
「あ、クラスメイトです。月島です」
真凛は軽く会釈してつい名乗ってしまいながら、名前はいらなかったかな、とあとから思った。
「デート、してんすよ」
山田は得意そうに言う。
「デート? なあに、それ」
「あっ、お姉さん、知らないんすか。いま流行ってるんすよ、われわれ若者のあいだでは。男と女が、連れ立って遊びに行くんです」
あらあ、とお姉さんは大げさに声を弾ませてみせた。
「若いって、いいわねえ」
「お姉さんもまだまだ若いっすよ。今度、旦那さんと行ってみてください。デート」
そうね、そうするわ、とお姉さんは言って、
「デートだって」
と奥に向かって呼びかけた。はあ? とよく聞こえないのか、白い服と帽子に身を包んだガタイの良い男性は、肉を処理しつづけている。
「はい、お待ち」
手渡されたピロシキは熱々で、口のあいた白い袋に、少し油がにじんでいた。
「三百四十円ね」
真凛が財布を開こうとすると、いいからいいから、と山田は言って、真凛のぶんまで払ってくれた。
「今日はデートなんだからさ」
ありがとう、と真凛は素直に財布をしまった。
「月島って、ありがとう、とか言うんだな」
山田はひとこと余計である。
「うるさいな」
「それ熱いから、気をつけろよ」
山田は真凛に注意を促しながら、歩き出した。
「よく行くの、あそこ」
「うん、部活の帰りとかによく行ってた」
「ふうん」
山田の足下に、散歩中の柴犬が寄ってくる。ピロシキ、食うか? と山田は犬に話しかけている。飼い主は、すいません、と苦笑いをしながら犬をひっぱっていった。犬は飼い主に抵抗しながら、いつまでも山田のほうを見ていた。
「山田って動物に好かれるタイプ?」
「ふつう」
山田は大きな口でピロシキにかぶりつく。真凛も真似をすると、ジューシーな肉汁が口いっぱいに広がった。さすが、肉屋のピロシキである。
「うまいだろ」
「うまい」
真凛が大きなピロシキをようやく半分くらいまで食べたところで、山田は食べ終えて、包み紙をくしゃりと小さく丸めてコートのポケットに入れた。
「次はあそこだ」
と指差す先には、「スマートボール」と看板の出たガラス張りの店がある。
「ちわっす」
大きな声で挨拶をしながら、山田は入店し、真凛もそれにつづいた。店の奥で新聞を読んでいる店主に、山田は近づいていく。小さな店内には真凛と山田のほか、三人のお客さんがいる。
百円玉を二枚、山田が差し出すと、怒ったような顔をした店主は青いビー玉のたくさん入ったカゴを足下から取り出してきた。
「あら、タッくん」
店の奥から、少しかっぷくのよいおばさんが出てきた。肌がつるつるだ。
「声がしたからね、そうじゃないかなって思って」
怒ったような顔のおじさんはなにが不満なのか、ちっ、と舌打ちをする。
「こんちは」
「なんだかずいぶんひさしぶりじゃない」
そちらは、と真凛のほうを示して、おばさんは興味津々の顔でたずねる。
「妻です」
山田が答えると、えっ、うそ、ほんとなの、とおばさんはおどろきから入り、やだ、よかった、おめでとう、と最終的にはとても喜んだ。
「すいません、うそです」
山田が笑った。
「クラスメイトの、月島です」
真凛が言った。わかりにくいうそをつくんじゃないよ、と思いながら。
なあんだ、とおばさんは笑って、
「ゆっくりしていってね」
と真凛に向かって言った。
「この人、怒ってるように見えるけど、もともとこういう顔なだけだから」
おじさんの肩に手を置いてそう言うと、お茶淹れてくるわね、とおばさんはお店の奥に消えていった。おじさんは、また余計なことを言って、という顔をしている。やっぱり怒っているようにしか見えない。
山田は入り口近くの台に陣取った。真凛はピロシキの残りを食べながら、山田が遊んでいるようすをとなりでしばらく見ていた。ルールはかんたんで、右手前にあるレバーをひっぱってからぱっと離すと、ばねの力でビー玉が発射される。上手に穴に入れば当たりだ。途中でおばさんがお茶を持ってきてくれた。
「私もやりたい」
真凛は山田のとなりの台で、ビー玉をいくつか入れて打ちはじめた。しかしこれが、ぜんぜん当たらない。
「コツとかあるの」
「よく狙いをさだめることだな」
「狙いをさだめるコツは?」
「狙うところをよーく見て、しゅっ、とだな」
だめだ、わけわからん、と思い、真凛は自己流でいくことにした。真凛が真剣に十発目の狙いを定めているところで、うおっ、ととなりから山田の興奮した声がした。
「やった、当たりだ」
じゃらじゃらとビー玉が出てきている。
「すごいじゃん! どうやったの」
「よーく見て、しゅっ、とだな」
コツがわかってきた気がする、と大口を叩いていた山田はしかし、その後一度も当てることなく、ビー玉をすっからかんにしてしまった。かくいう真凛もさっぱりであった。
最後まで怒っているようにしか見えなかった店主と、また来てね、と笑顔のおかみさんに見送られて店を出た。
「ビスコが食いたいな」
と山田は言い出した。景品として店内に飾ってあるお菓子のなかに、ビスコがあったのだ。
「駄菓子屋に行こう」
ポケットに手を入れて、山田はずんずん進んでゆく。真凛も慌ててあとにつづく。
駄菓子屋はうなぎの寝床のように細長い店だった。店先には、マジックハンドやフリスビー、小さなラケットでゴムのボールを打ち合うおもちゃなどがぶら下がっている。それらをかき分けるようにしてなかに入ると、色とりどりの小さなお菓子がところ狭しと並んでいた。
「おじゃまします」
山田は奥に座っているおばあさんに声をかけた。
「いらっしゃい」
とおばあさんは言いながら、膝のうえで丸まっている猫の背中をなでている。おばあさんはだいぶ腰が曲がって、目も開いているのか閉じているのかよくわからず、もうずいぶんお歳に見える。
「あった」
山田はさっそく赤いパッケージのビスコを見つけて喜んでいる。真凛は種類が多すぎて目移りしてしまう。結局ふたりで十分くらいかけて協議のうえ、どれを購入すべきか、吟味して決定した。
十種類くらい買ったのに、全部で三百円ちょっとだった。
「これは私がごちそうしてあげよう」
真凛はえらそうに財布を取り出しながら、ふとレジの横に、写真立てが置いてあることに気がついた。なかにはずいぶん色の褪せた写真が入っている。若い男女が、寄り添いあって立っている。髪型や服装やめがねのかたちから、昔のものなのだとわかった。
真凛はその女の人の顔を見たあと、一生懸命お釣りを数えているおばあちゃんの顔を見た。
「はい、七十円お返しね」
おばあちゃんの震える指先から、真凛はお釣りを受け取った。
山田はビスコが手に入ってはしゃいでいる。日が暮れてきて、辺りは橙色に染まりはじめた。
児童公園のベンチに、並んで腰かけた。山田はポケットから、丸まったピロシキの包み紙を取り出して、遠くにあるごみ箱に向かって放り投げた。それはふちに当たってはね返されて、ころんと地面に転がった。
ん、と山田が右手を真凛に差し出すので、真凛は自分のポケットのなかの包み紙を山田に託した。山田はもう一度、それを放り投げた。また外れだった。さっきより大きく右に逸れて、今度はふちにさえ当たらなかった。
「あーあ」
山田はざんねんそうな声を出して立ち上がり、ふたつとも拾い上げるとごみ箱に入れて戻ってきた。
「どうした」
山田が真凛にたずねた。
「べつに」
真凛は答えた。
山田は真凛の手を取ると、駄菓子屋の袋から取り出したソーダ味の餅を、その上に載せて握らせた。
「ほら、おまえがどうしても食いたいって言ってたやつ」
うん、と返事をして、真凛は受け取ったものを見た。
なんかあったかいもんでも飲むか、と山田は真凛の顔をのぞきこんで、さらにたずねた。真凛は首を横にふった。
「なんで私のことデートに誘ったの」
真凛はたずねた。
山田は少し笑って、
「席がとなりだったからだよ」
と言った。
いつかは知らない人と結婚するのに、と、今朝考えていたことを真凛はまた思い出した。
「山田はなんで生きてるの」
真凛がたずねると、難しいことを訊くな、と山田は頭をかいた。
「わかんね。ピロシキやビスコはうまいし、スマートボールも楽しいから、生きてるんじゃないのかなあ」
そうだよね、と真凛は言った。
「安心しろよ」
山田は言った。
「今日会った人、みんな幸せそうだっただろ」
うん、と真凛は小さな声で答えた。
「日本中でいちばんの相手が、いつか月島に選ばれるんだぞ」
わかってるよ、と真凛は言った。「それ」にはぜったいに間違いがない。真凛の相手に選ばれる人は、日本中でいちばん、真凛にぴったりの人。いつか、と山田は言ったけど、それはそう遠くはない未来のはずだ。
「大丈夫、なるようになるさ」
山田は言った。なぜ私は山田に元気づけられているのだろう、と思った。しかし山田にそう言われると、大丈夫なような気がしてくるから不思議だった。
「今日は、楽しかったな」
「うん、楽しかった」
いつか遠い過去になる、と真凛は思った。ピロシキの味も、スマートボール屋の店主の不機嫌そうな顔も、駄菓子屋のおばあちゃんの色あせた写真も、この公園も。山田も。
あーあ、と山田が言った。
「おれの相手はみそパンがいいなあ」
民放の人気アナウンサーの顔を真凛は思い浮かべた。山田にはちょっと美人すぎるかなあ、と思ったけれど、
「そうだといいね」
と言った。
ソーダ餅のパッケージを開けた。四角くて小さな水色の餅が、きれいに並んでいる。真凛はつまようじで一粒刺して、口に入れた。甘いソーダの味が、しわしわと口のなかではじけた。
どれ、と山田も手を伸ばす。あっ、と真凛は文句を言った。
「おいしくないから買わない、ってあんなに言ってたじゃん」
うるさいな、と山田は笑って真凛の手からつまようじを取り上げると、一粒口に放り込んだ。
「悪くないな」
と山田は言った。
「悪くないでしょ」
と真凛も言った。
(了)
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