エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第四章 新入り
相変わらずみじめな庭でこれほどの貴公子とご一緒するという縁に恵まれたことに感興醒めやらないうちにしわがれたというかむしろひび割れたどなり声が出入り口のほうから鳴り響いた。『アメリカ人!』
声の主は看守だった、すべての平看守から語り尽くせぬほどの尊敬を集めながらすべての常人からは言い尽くせぬほどに忌み嫌われている例の看守長だ。ひと風呂浴びた帰りしなにごっつんこするという身に余る光栄に浴したあの看守様さ。
出入り口付近の人だかりに混じっていたオランダ三人組とフリッツが、四者四様の国言葉で「どの?」とどなり返した。
看守は四人には目もくれなかった。人も無げに『アメリカ人!』と繰り返す。そうして、ようやくどなり散らし合いになっていた四人の嘆願に一歩譲って、『新入りのだ』
Bが云った、「たぶん事務官のとこに連れていく気だ。向こうで待ってるんだと思うぜ。おまえの金を預かってくれてるはずだよ、そんで週に二回小遣いをくれる。ただし二十フランまでだ。パンとスプーンは俺が預かっといてやるよ」
「アメリカ人はどこにいきやがった」と看守がどなった。
『ここです』
「来い」
看守の背中とけつとホルスターの後について有刺鉄線のフェンスのせまい出入り口をくぐり抜けて屋内に戻ったところで、看守が「行け」と命じた。
俺は「どっちに?」と訊いた。
「まっすぐだ」と看守はいらだたしげに答えた。
前進した。「左!」と看守がどなった。左折した。戸口の前に出た。「入れ」と看守が命じた。フランス軍服姿のぱっとしない見た目の紳士が机のようなものに腰掛けていた。『医師、新入りです』医師が立ち上がった。「胸を開いて」はい。「ズボンを下ろして」はい。「よし」そして、看守が俺を部屋から連れ出そうとしたところで、「イギリス人か?」と興味津々という感じで訊いてきた。「いえ」と俺は返した、「アメリカ人です」『本当かね』――そう云って俺をじっくりと眺めまわす。「南アメリカ人だろうあんた」「合衆国のほうです」と俺は答えた。『本当かね』――そう云って好奇の目を向けてくる、それでも嫌な気はちっともしなかった。『どうしてここに』「さあ」と俺はにっこり笑って返した、「ただ自分の親友が手紙を書いたらそれがフランス軍の検閲に引っかかっちまいまして」「ほう!」と先生が声を上げた。『以上だ』
そこで俺は出発した。「行け!」と黒ホルスター殿がどなった。来た道を引き返し、しかし中庭につづく戸口を抜けようとしたところで、「止まれ!馬鹿たれ!行け!」
俺はすっかり面食らって「どっちに?」と訊き返した。
「上だ」と黒ホルスターはいらだたしげに答えた。
左側の階段に向かい、上る。
「そう急ぐな」と後ろから黒ホルスターが叫んだ。
俺は足をゆるめた。踊り場まできた。俺は事務官はとんでもなくむかつく野郎にちがいないと思っていた――たぶんがりがりに痩せた男で最短距離の戸口から俺めがけて突入してきて「手を挙げろ」とかなんとか、フランス語でぶちかますんだろう。向かいの戸が開いていた。俺はなかをのぞきこんだ。監督官が立っていた、後ろ手を組んで、俺が行くのを承知づくな顔で眺めていた。俺は自問自答した、会釈したほうがいいかな?ちょこまか動く影とくすくす笑う声に気を取られて左のほうを見た、どんより暗く著しく汚ならしい廊下が伸びていた。女の声だ……俺はぎょっとして腰を抜かしそうになった。めいめいの戸口から気持ち大胆に覗き込んでくる女の顔が影の正体なんだよな? 何人いるんだ――声を聞く限りじゃ百人はいそうだ――
『何をしている』とかなんとか云いながら看守が俺を次の階段のほうへどんと突き飛ばした。俺は素直に階段を上りはじめたが、頭の中ではあの監督官を蜘蛛になぞらえ、魔性の巣の真ん中に品よくつかまりながら、一匹の蝿がもがいてもがいてもがき果てるのを待っている様を思い浮かべていた……
階段を上った先にもうひとつ廊下が伸びていた。そこにある閉じきった戸口は監督官の神聖なる職位よりひとつ上の存在を暗示していた。戸口の上に、俺が憶測をめぐらして時間を無駄にすることがないように、でっぷりとした太字でこう銘記されていた。
事務官
俺は云いようのないほどうろたえた。戸口に近づく。まさに押し開けようというときだった。『待て、馬鹿たれ』そう云って看守はもう一発俺を突き飛ばした、それから戸口に相対し、二度ノックし、胸底からあふれる尊敬の念を込めた調子で挨拶した、『事務官殿』‒‒‒‒そして最大級の侮蔑を込めた目つきで俺を睨みつけた、こぎれいにした豚みたいな顔はまん丸に膨らんでいた。
俺は内心こう思っていた。この事務官殿は、どんなやつであれ、絶対とんでもなくひどい野郎だ、鬼だよ、慈悲の心なんて毛ほどもないような。
戸の向こうで重々しくもまぬけで心地よい声が物憂げに云った。
「入れ」
看守は戸を開くと、敷居のうえにびしっと直立し、看守どもが小腹を空かせたときに卵を見るような目つきで俺を一瞥した。
俺は敷居をまたいだ、怒りに(であってくれ)打ち震えていた。
正面、机に座していたのは、黒いつば無し帽を頭に乗せた巨漢のでぶだった。その顔は巨大な鼻を誇り、鼻先には鼻眼鏡が危なげに乗っている、あとは大きくて頰ひげをたくわえた三重あごで生粋のドイツ顔という感じ。特異な生命体だ。腹は、座っていると、机の天板が少し食い込んでいる、天板の上には審判の日の記録天使たちの持ち物にも似たぶ厚い書物がいくつか並び、他にはインク壺がひとつかふたつと、数え切れないほどのペンと鉛筆、そしてどう見ても人の生き死にを左右する類の書類がいくつか積まれていた。男の身につけた服は上等だがやや辛気くさい仕立てのもので出張った腹も自在に動かせる余裕を残したゆったりとした作りだった。上着は極端に薄手の黒い生地でできていて事務員や歯医者に時折見かけるか図書館司書ならもっとよく好んで着ていそうなものだ。俺がかつて嘘偽りのないドイツ人のあご肉、あるいはそういうあご肉の戯画でもいい、そんなものを見たことがあるかと言えばいま目の当たりにしているものがそれだ。一目見るだに巨大な海泡石キセルが、ドイツ人協会の標語が、泡立ったヴュルツブルガーのジョッキが、それからボストンのジェイコブ・ヴィルト(なつかしいな)で食べたソーセージが俺の脳裡を駆け巡ったほどにまん丸に肥えた人懐っこいビール飲みの赤ら顔。サンタクロースも是く也と思わせるような朱をさした留針のような陽気な目元。十三番街のドイチュ・クーヒェンで六つのジョッキをまとめて掴み取ったかの如きおそろしく巨大で赤味がかった両手。心地よい安堵感に俺ははっと息を呑んだ。
見たところ事務官殿は、リボンで飾った鼻眼鏡や図書館司書風の上着(たっぷり詰まった腹に食い込む赤道線に持ち上げられたどっしり重そうな懐中時計の金鎖とロケットは言うに及ばずだ)の助けを借りて高潔で責任重大な役職が放散しないではおかないはずの威厳というものを精一杯装っているという具合だった。しかしこの威厳が、まぬけ丸出しの双眸に至りてワーテルロー並の大敗北を喫する、無論あご肉の喜劇三部作にあってもだ――俺だって調子どうだい?なんて声かけながらあのでかい背中をばしっとひっぱたいてご挨拶したくなったほどだもの。たいした獣物だ!飽食の野獣、球形目肥満科、捕獲されたカバの最後の生き残り、ナイル川から産地直送。
彼は、こんな状況では至極まっとうな好奇心に駆られて、つくづく俺をうち眺めていた。おめでたい目つきでさえあった。俺を飼葉だとでも思っているのか。たぶん俺の干し草色の髪の毛がお気に召したんだろうな、カバだし。食われるのかな。彼はぶうと唸り、やにで黄ばんだ牙をむき出し、ちっちゃな目がしばしばとさえずった。やがてだんだんと口を開き、きつい訛りで、金科玉条の声明を発した。
『アメリカ人だな』
俺はすっかりうれしくなって、答えた『はい、アメリカ人です、閣下』
彼はきいきいうるさい椅子の背もたれから半ば転がり落ちそうになって思いがけない返しに驚いたようだった。困惑した様子で俺の顔をじっと見つめ、いささか狼狽している気色が見えたのはこのアメリカ人が目の前に立ち上がりやしないかとかそんな心中がこのアメリカ人にお見通しで、なにもかも白日のもとに突き出されるのではないかとでも思っているのか。次の声明は、最初のよりもっと深いところからやってくるようだ、黒いチョッキを上り上がってくる。金の鎖がわなわなと期待に打ち震える。俺はもうすっかり虜になっていた。巨大な智慧のおっぱいが彼に難産を強いるものやいかに。球根のような唇が快感にゆるんだほほえみを浮かべてのたうった。
『フランス語が話せるのか』
こいつは最高だった。背後に立つ看守は事務官殿の愛想のよさに明らかにいら立って、敷居に靴の底をがりがりとこすりつけていた。俺の左右に貼られた地図は、フランスの地図も、地中海沿岸の地図も、欧州全土のものさえも、恥じ入ってしまっていた。ちびで貧血症の二足動物についてはまだ触れてなかった、痛々しいほどに畏敬の念を顔に浮かべて角に突っ立っていたこの男も、一気に緊張がほぐれたらしい。俺はこのちびっこいのが例のラ・フェルテの通訳だろうと推測し、事実正しかった。彼の貧弱な面にもカバのと同じ形の鼻眼鏡がかかっていたが、大きな黒リボンはついていなかった。ちょっと脅かしてやろうと思って、カバ野郎に『少々ですが、閣下』と云ってみると、これを聞いてちびっこいのが青ざめた。
カバが善意たっぷりに『いやたいしたものだ』と云うと、鼻眼鏡が落っこちた。それから用心深い看守に向き直った。
『下がっていい。あとで呼ぶ』
(第26回 了)
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