エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第四章 新入り
二度目の酒保入門ですっかり生き返ったし、尋常ならざる夕食というやつも消化できていると見てまちがいなさそうだし、俺はだいぶはっきりしてきた頭でぐるりと見回した。ブラガード伯爵は大部屋のほうがいいと言って夕べの散歩を遠慮していたっけ、庭に出た連中の中にもうお馴染みのオランダ人三人――ジョンとハリィとポンポン――それから熊さん、オーギュストさんに、フリッツの顔が見えた。その後の一時間でじかにというわけではないが少なくとも視覚のうえではだいたい十二三人の連中とお近づきになった。
そのうちの一人が見るからに風変わりなほとんど小学生みたいな男で齢は三十五前後、黒いチョッキに着古したズボン、縞柄の襟なしシャツが首もとではだけて金色の飾りボタンが光り、いささか大きすぎる帽子を目深にかぶっているので小さな目玉までではなくともその際立った眉毛はほとんど帽子のつばに隠れている、靴はゴム底のスニーカーみたいなものらしい。虚ろな顔つきがわざとらしい。ずっとフリッツにくっついていて、せいぜい――女が窓から顔を出しているとみるや――男らしい振る舞いを誇示しようとするもとなりの師匠の有るがままに体育会系な人柄とはばかばかしいほどの好対照だった。英語をしゃべろうとしていた(いや確かにしゃべっていたと思う)、というよりはむしろ英単語を口にしようとしていたという感じだが、おどろくほどなめらかに発音できる二三の猥褻語のほかは奴の語彙力ではひどく不自由そうだった。フリッツと議論するときなんか、そんなことがしょっちょうあったんだが、デンマーク語で話していても、ある種の言語的な鈍臭さがついて回って、ひとつ意見を言うにつけ聞くにつけ頭を目一杯回転させなきゃならないという印象を与える。自惚れ屋が過ぎて、事あるごとにかっこつける。お人好しでもある――愚かなほどね。たぶん負けを認めたことがないんだろうな、だってさ、フリッツが女の眼差しを気にして張り切って十四回も軽々と上げ下げしてみせた鉄棒の重さをこらえきれずにふらふらとよろけたと思ったら、あの小男鉄棒を持ったままばったり地面に倒れたんだが、その小さな顔にはばつの悪さの翳も差さなかった――あいつときたら、逆に、そんな自分にご満悦と見えて、つづけて小さな身体が取ったポーズで拍手喝采を乞うんだ。胸をうんと突き出した格好だと、どことなく雄の矮鶏に似ていた。フリッツにつきまとっているときは扱いに手を焼く猿というか、おもちゃの木登り猿みたいで、つかの間ぎこちなく登り降りさせて遊ぶののが関の山って感じだ。名前はヤンといった。
巨大な鉄の梁に腰掛けて、ひとりぼっちで座っているのがなんとなくさまになっている男が目に留まった、ほの赤く染まった頬と青い瞳、こぎれいに保たれた黒い上下、頭には小さな帽子。彼の風采は、中庭に散らばる他の連中と比べて、ひときわ地味だ。が、その物腰には輝かんばかりの落ち着きといったものがあった。繊細そうな眼差しが印象的だった。明らかに人も物も見ないようにつとめていた。鹿のようにおどおどした感じが一目で俺の心を打った。ひょっとしたらこわがっていたのかもしれない。彼に知り合いはなく誰も彼が何者かも知らなかった。いつからかは覚えていないが、Bと俺は彼を寡黙屋と呼ぶようになっていた。
どうやらハリィとポンポンという二匹の獣に気圧されたらしく(それでもなんとか囚人仲間の大部分の威圧はできているようだけど)ある型破りな人間が中庭を行ったり来たりしていた。そいつをはじめて目の当たりにして俺は吐き気を催した。体格は肥満体の一歩手前で、身なりはちゃんとしている、人目を惹くのはその首から上の部分だけなのだが――なんて頭をしてやがんだろう! まずでかい、そしてもっさりと長く垂らしたモップのような髪の毛が額の上から後頭部へと撫で付けられている――気色悪いブロンド気味の髪が、後頭部はダッチ・ボブにして、薄紅色のふっくらしたうなじを隠すように肩のあたりまで伸びていた。このピアニストか芸術家特有の髪型が、主人が歩くのに合わせて一斉に揺れ動く、その内側にふたつ大きく突き出た一言で言えば野蛮な白い耳が身を隠すようにしている。顔は、古代ギリシャ人とユダヤ人の合いの子で、悪狐のルナールのような表情を浮かべ、どこかずる賢そうでどう見ても人好きはしない。髪の毛と同様にブロンドの口髭が――ふさふさと偉そうだし上官髭というべきか――傑出した鼻の穴の下で波打ち、青っ白い口元を一部隠すのに一役買っている、弱々しくも大きな口の、上下の唇は時折にまぁっとほとんど胎児のそれのような微笑みを帯びた。さらに一段と弱々しい顎は一面ブロンドの山羊髭に覆われていた。ほっぺたがでっぷり肥えていた。とめどなく汗の吹き出す額には数え切れないほどの薄紅色のニキビが点々としていた。囚人仲間と話をすればこの生き物は嫌みなほどなめらかなおしゃべりを発した、その見た目にしっくりくる身振り手振りは肌と同じく脂ぎっていた。ぷくぷくに膨れて手首のない両手を持ち、拳骨は脂肪に埋没している、その手で場を和ませるということもあった。低い声で難なくフランス語をあやつり、上官髭の隙間から流暢に流れ出る未完のアイデアにすっかり夢中だった。そいつのまわりには媚びへつらいのアウラとでもいうものがつきまとっていた。髪も髭も首もまるでかつらとつけ髭と作り物の首のようだった、次の刹那にはみな突然こなごなになってしまいそうで、雄弁な口先だけがそれらを繋ぎ止めているかのようだった。
俺たちはそいつを二枚舌と呼んだ。
もうひとり、やや背は高いが女々しさいっぱいの男がとぼとぼというよりはすたすたとぎこちなく歩いていた、しみひとつない喪服が年老いてなお生き急ぐような躯にだらりと掛かっている。大きな黒い帽子の下にはやつれているがひときわきれいに剃刀をあてた顔、最も目立つのは赤っ鼻で主人がひどい風邪に苦しんでいるのかのように時々ぐすっとすすり上げる。加齢と清潔感と絶望を放つ人だ。一目で注目を集めないではおかない鼻をのぞけば、彼の顔は悲哀を刻みこんだいくつかの大きな平面が雑に並置される形で構成されていた。動きのひとつひとつが品を欠いていた。しかし洗練されたところもあった。どう見積もっても四十五は越えない。一インチごとに苦悩を抱えている。もう死んでもいいと思っているクチだろう。「あの人はベルギー人だ、ブラガード伯爵の友達で、名前はぺット・エアズさん」気難屋さんは時折落ち着いた消え入るような声でなにか繊細で気難しいことを口にした。彼の喉仏は、そんなとき、しわだらけの肌がたるんだ少々長い七面鳥のような首の中を跳ね上がる。この七面鳥も感謝祭が近づけば怖気立つのだった。気難屋さんは時折まるで手斧が待ち構えているとでもいうように伏し目がちに辺りを見回した。彼の手は鉤爪のようだった、優しくてもぎこちなくて臆病。爪はぴくぴくと震えていた。骨ばってしわだらけの爪先がいまにも喉を締め上げたがっているようにも見えた。
Bが俺の注意を中庭の真ん中でみすぼらしい林檎の木の一本に大きな背中をもたせてうずくまる人物に向けた。この人は水際立って絵になる格好をしていた。大きなつばが垂れ下がったソンブレロ風の黒い帽子に、鮮やかな赤のジプシー風のシャツは見るからに上等な生地で仕立てたもので大きな袖がゆったり弛んでぶら下がっている、だぼだぼのコーデュロイのズボンからは褐色の素足がすらっと伸びていた。少し見る角度を変えるとその顔も拝めた――たぶんこれまでに見たなかで一番ハンサムな男だ、黄金色に光る褐色の顔が、息を呑むほど豊かで美しい黒い顎髭に縁取られていた。造形のひとつひとつが見事な美形でしなやかだった、その目は優しげながら並外れて繊細、口元はすっきりと引き締まっていてその上の黒々とした口髭は絹のなめらかさと神妙なる漆黒がひとつになって胸元まで垂れ下がっている。その顔にはひとつの美と尊厳が備わっていて、俺が一目見たときように、周囲に渦巻く騒ぎを難なく無に帰してしまうのだった。細心の注意をもって彫り抜かれた鼻の穴のまわりには侮蔑そのもののような気配が漂っていた。頬には俺には想いも及ばない太陽の記憶があった。両足は裸足のままで容易には想像もつかないような国々を経巡ってきたのだろう。中庭の泥と雑音の真ん中に堂々と腰を下ろし、哀れにも痩せさらばえた林檎の木の下で……その瞳の奥で完全なる未知と静寂の世界に遊んでいる。身体の落ち着き払った様には品格が漂いユピテルの化身のようだった。この人は太陽に程近い天の国より遣わされた預言者にちがいない。きっと道に迷った神様でフランス政府によって収監されるがままにしあそばされたのだ。少なくとも仄暗き桃源郷の皇子、黄金色の肌の人民を治める王、神水の泉や天女が恋しくなれば御帰朝なされるのだろう。後で尋ねて知り得たことには彼は妻子とともに荷馬車で各国を渡り歩き、行く先々で人々に鮮やかな染料を売る行商を営んでいたという。そうとわかれば、彼もまた歓楽山の住人の一人というわけだ、彼らと出会うために俺ははるばる苦難の道をやってきたんだ。さてここで一旦彼については口を噤もうと思うが、ひとつだけ彼の名はジョセフ・デメストルだということだけは言っておこう。
俺たちは彼を渡り人と呼んだ。
(第25回 了)
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