エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第四章 新入り
用心深い看守は敬礼のような仕草ののち戸を閉めて辞した。つば無し帽のおえらいさんは書類の束に向き直って大きな両前肢で繰りながらもぐもぐ呟き、ご機嫌にげっぷをかました。ついに目当てのものを探り当てると、物憂げに口を開いて
『生まれはどこだね』
『マサチューセッツです』と俺は返した。
カバはさっと振り向いてひ弱顔をだまって見つめた、そのとき彼の視線は寂滅のうちに漂っていたが、どぎまぎしつつも合衆国の一部ですと答えて作り笑いを浮かべた。
「ぅあ」とカバが鳴いた。
それからカバは俺が拘束された身であることを述べ、俺も拘束された身であることに異論はないと返した。
カバは「金は手に入ったか」と云うなり俺が答える前にのっそりと腰を上げ、机越しに身を乗り出して、げんこつで優しく俺を小突いた。
「うぁ」とカバはまたひと鳴きし、腰を下ろして、眼鏡をかけ直した。
「君の金はこちらで預かっている」とカバ。「その都度に少しずつ引き出せる。ご希望なら、二十フランでも。週に二回だ」
「いま二十フラン引き出したいのですが」と俺は云った、「売店で買い物がしたいので」
「受領書を書いてもらうよ」とカバが云った。「いま二十フランほしいと、それでいいんだな」そして手書きの受領書作りに取り掛かったが、はぁはぁと荒い息遣いにげっぷが混じり、字がやたら大きくちょっと収拾がつかないほどぐちゃぐちゃだった。
今度はひ弱顔が近寄ってきて、おもむろに切り出した。「エ・メリィケジンでシか? 」――そこで俺が親戚やアメリカのことについて仏製英語の談笑に華を咲かせているとそれを打ち切る
「うぁ」
カバの方は仕上がったらしい。
「署名しろ、ここだ」とカバが云うので、そうした。カバは分厚い書物の一冊を繙いて俺の名前の反対側の項に何やら記された内容を確認した、自分の名前が収容者一覧の仲間入りしているのが俺にはおもしろかった。名を綴っては、消して、また書き直してというのを数回繰り返した跡があった。
事務官殿は署名をじっと見つめている。と、その目を上げ、にやりとし、俺の背後へと会釈をした。俺も振り向いた。そこに(しばらく前に音もなく入ってきてからずっと)立っていたのは剣士殿だった、落ち着きなく後ろ手に指を組んだりほぐしたりしながら承知づくな面持ちで俺を眺めていた、いやハーゲンベック園長が新たにその栖(すみか)から調達してきた珍妙な猿を眺める飼育員の顔か。
カバ野郎が引き出しを開けた。中を引っ掻き回して、ようやく何枚かの紙幣を探り当てた。そこから二枚を勘定する、太い親指にべろんと唾つける勿体つけた仕草だ、もう一度勘定し直したのちのっそりと金を差し出した。俺はそれを猿が椰子の実をもらうみたいに受け取った。
「御用で?」――事務官は俺に会釈を返すと、剣士殿に声をかけた。
「いやいや」と剣士殿はぺこぺこ頭を下げた。「こいつの面接はもう済んでおります」
「さっきの看守を呼べ!」と事務官殿が一喝、例のちびっこいのに浴びせた。ちびっこいのは忠義立てに部屋を駆け出して軟弱な声色で「看守!」と呼ばわった。
濁声だが律儀な「只今」が階下から轟いた。一瞬ののちには看守の中の看守様が律儀に姿を現した。
「散歩の時間は過ぎている、男部屋に連れて行け」と監督官(スルヴェイアン)が命じると、カバ公は(無尽蔵の安堵感といささかの自惚れを湛えて)きいきいとやかましい椅子にくずれ落ちた。
荷物運びの抱えるスーツケースになったような心持ちで、俺は素直に付き添い人を先導して階段を二つ降りた、その前にカバに向かって頭を下げて「どうも」と礼を云ったけど――そんなご挨拶にはカバ公殿は目もくれなかった。一階のじめっとした廊下を通り抜り抜けるときには、下り道の俺には囁き声もくすくす笑いもないんだなとがっかりした。おおかた例の看守が癇癪起こして女たちを部屋に閉じ込めて黙らせたんだろう。通路の端まできて階段を三つ上り、上りきった先の踊り場であらゆる看守の中の看守様が錠とかんぬきを外し、そうして俺は大部屋に一飲みにされた。
俺はBの元へ向かった、手に入れた銀行券をひらひら振り回すほど舞い上がっていた。すぐさま俺のそばに人集りができた。寝床までの道すがら――距離にすれば三十フィートぐらいだ――ハリィにポンポンそれに風呂場のジョンにも背中を叩かれ、オーギュストさんからはお祝いの言葉を、フリッツからは敬礼を頂戴した。寝床に着いたときには、驚異的な衆人環視の的になっていた。それまで口もきいたことのない人たち、風呂にも入らず無精髭の俺の外貌を鼻で笑っていたような連中が、社交辞令よりもましな言葉をかけてくる。二枚舌までもが部屋をうろつく足を止め、俺を一瞥し、俺のそばまでするすると寄ってきて、一言二言耳触りのいいおべっかをくれた。と同時にオーギュストさんとハリィとフリッツからは金をしまってちゃんと隠せと忠告を受けた。みんないるんだぞ、なあ……待った無しだ、わかったな……。よくわかった、大騒ぎの大多数が一気に意気消沈するのを尻目に全財産を限界まで小さく折りたたんでズボンに詰め込み、その上からかさばる大きさのごみをいくつかぎゅうぎゅう押し込んでふさいだ。そうして俺は乱痴気騒ぎを平定してみせようとする銀幕のウィリアム・S・ハートばりの顔で静かにぐるりと睨み回した。一人また一人と好奇と熱狂の衆が離れていった、残ったのは俺がもう友達だと思っている何人かだけ、彼らとBと俺とで消灯までの残りの時間をのんびり過ごすことにした。
ところで、俺は(その後の二時間で)二足歩行の大群という認識を極めて興味深い大勢の人間たちへと置換することになった。また、時間は幾分限られていたけれども、出会えたことを幸いに思う、また今想像する限りにおいても、永劫に幸いでありつづけるであろう良き六人の仲間たちの暮らしや習慣や好みについて明々と蒙を啓くありとあらゆる類の知識に浴した。牢屋の中では人は幾百万のことを学ぶものなんだ ––––そいつがマセチュウセッツ生まれのラメリカ人ならね。反対側の錠前戸口から響き渡る不吉な予感と畏怖を禁じ得ないガチャガチャが捕囚におやすみを命じる捕手の来訪を知らせた時、俺はまだおしゃべりの最中で世界一巡を何周となく果たしたところだった。ガチャリという音が鳴った瞬間俺たちの小さな輪はその中点に吸い込まれるように消散した、まるで本物の魔法に遭ったみたいだった、俺はまだちょっと目の眩むような感覚に取り残されたまま新生した現実世界を迎えた。
扉が開け放たれた。戸口に立つ看守のほとんど見分けのつかない人影を見てはじめて部屋の暗さに気がついた。暗いとは思ってもみなかった。蝋燭を(部屋の真ん中の机の上にあったのを歓談中に一二度ちらっと見た気がする)誰かが便所のすぐ隣の棚にもどしていた。この蝋燭を囲んでトランプ遊びをしていた連中もいたのに――いまやだれもが左右と奥に延びた大部屋の床に横になって息を殺していた。看守が入ってきた。まず右手に向かっていく。全員いるかとかなんとか訊ねる、幾つもの声が程度の差はあれ冒涜的肯定文で答える。右に左にと闊歩する、便所に蹴つまずく、懐中電灯を閃かせる、藁布団をひとつひとつ点検して回り蛻の殻が無いか確かめる。向こう端に至って今度は部屋の左手。そこから俺のいる方へと向かって巡回をはじめる。視界に白い輪っかが浮かぶ。看守が立ち止まった。俺はとぼけた面でぐったりとまぶしい光を見つめた。光が俺の全身と布団を隈なく照らした。眩い光の向こうからぶっきらぼうな声がした。
『新入りというのはきさまか』
左に寝ていたオーギュストさんが、静かに答えた。
『はい、彼がそうです』
懐中電灯の主はうぅむとひとつ唸り、(無罪潔白の権化たる男の検分にBの寝床で一秒足を止めたのち)ばたんと扉を開けて部屋を出た、その背中と俺がそれまで気が付きもしなかったもう一人の看守を見送って扉はぴしゃっと閉じられた。「おやすみ」や「たんとお眠り」のような優しい言いつけの妙なる交響曲が憲兵退場に送辞を添えた。二人への助言が部屋のあちこちから多種多様な言語で飛び交った、かみさんの夢でも見やがれ、寝首かかれないようにな、風邪引くなよ、寝る前にやることやっとけよ。その交響曲もだんだんとしぼんでいき、俺は神妙な心地のまま、藁布団の上、死ぬほどの疲れと幸せに身を横たえていた。
「寝そうだ」と隣の暗闇に向かってつぶやいた。
「俺もだ」とBの声が云った。
「正直」と俺はつづけた、「ここが人生最良の地だ」
「この世で最良の地だろ」とBの声。
「ありがとう神様、もうAに会うこともないそれにあの――衛生分隊にも」枕のあるべきところにブーツを置いて俺は唸るようにつぶやいた。
「そうさ」とBの声が云った。
『布団の下に靴を敷いてみるとね』とオーギュストさんの声が云った、『よく眠れますよ』
オーギュストさんの気配りに礼を述べ、その通りにしてみた。たちまち幸福と疲労の恍惚境に沈みこむ。これ以上のものなんてありえないな。眠るのには。
「くそうめえタバコ持ってるか」ハリィの声がフリッツに訊く。
「あるわけねえだろ」フリッツの声がつれなく返した。
もう鼾が聞こえていたが音調もばらばらなら距離も方角もてんでばらばら。蝋燭の火がかすかに揺らめいた、まるで暗闇と灯火が命を賭けて戦っているみたいだ、軍配は暗闇に上がりつつある。
「ジョンから一噛みもらおう」とハリィの声が云った。
三つか四つ先の布団で、声を押し殺したひそひそ話をしていた。俺はうとうとしながら聞いていた。
『そんなわけで』とひそひそ声が云う、『免役病傷兵の仲間入りよ……』
(第27回 了)
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