ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
1(後編)
「あれ。おう、君か。ええと・・・」
30分遅れで会場に入った。長々とした挨拶を聞かされてはたまらなかった。比目子に顔を見せ、銀座に来た連中に礼を言ったら、すぐ帰るつもりだ。
「そうだ、水野か。久しぶりだなぁ」
声をかけてきた男の顔に見覚えはあった。厚い唇に坐った鼻、ごつごつした肌。名前は思い出せない。
「きれいになったなぁ。見違えたよ、いい女になった」
成人式の再会でもあるまいし、ちっとも変わらないという世辞ならともかく、ここまで言う男も珍しい。もらった名刺には、大手電気メーカー営業部長代理の肩書きに、寺内、とあった。そう確か、基礎課程で同じクラスにいた。
「見違えたのは、ここよ」
古い記念館を取り壊して新築されたホールは、卒業二十周年を口実に、卒業生を呼びつけて見せたいと思うだけことはあった。金輪際、ホテルの広間など借りる必要がないぐらい、調度も豪華な広々した建物だ。
「これでまた寄付を募ろうってんだろ。やたら愛校心の強いのがいるからなあ。あれだけ学費も取られたのに、卒業生は神サマだぜ」
そう言う寺内も、愛校心が強いと言われる、いわゆる「下から」組ではなかったろうか。
「俺なんか高校からだ。もっと『下から』の連中は、五百万ぐらい、ぽんと出すからな」
それにしても色っぽいな、おめー、まだ結婚してんのか、この髪型いいよ、白髪もないし、ショートが似合うのは美人の証拠だな、と言いながら、寺内は瑠璃の髪や首筋に触れようとする。
「白髪がないのは染めてるからよ。もういいから、銀座のお姉ちゃんとやってね」と、寺内の手を払いのけつつ、銀座はおろかこのホールにもそぐわない自分のラフすぎる格好に、瑠璃は少し後悔した。
「なんだよぅ。こんなとこ出て、俺と遊ぼうぜ」
寺内はしつこく前に立ちはだかる。瑠璃はその肩越しに比目子の姿を探し、スーツ姿の男が目に留まった。
正確には、男のスーツが目に留まった、と言うべきだったろう。同じグレイでも色目が違う。仕立ても微妙なラインも、周囲のものから際立ってシャープだ。たぶん、いや明らかにイタリア製だ。
男が振り返った。と、瑠璃を見て一瞬、目を見開いた。
瓜、崎。そう、瓜崎だった。
ふいに寺内が、力が抜けたかのように横によけた。その顔を眺めると、諦めたようにビールを飲んでいる。
「なんか、持ってきてやろうか。ワインか?」
立ちはだかっていたのは絡んでいたのではなく、自分と瓜崎を遭わせまいとしていたのだ、と瑠璃は了解した。視野に入れば互いに嫌な思いをする。とはいえ瑠璃は瓜崎の名前、顔すら忘れていた。向うだって、思い出す理由もなかったはずだ。いつまでも覚えているのは、物見高くて口さがない第三者だけだ。
「ねえ、比目子はどこ?」
「ヒメコって。誰だそりゃ?」
「この会の幹事じゃないの。知らないの?」
寺内が渡してくれた赤ワインのグラスを手に、瑠璃は広い会場を歩き回りはじめた。避けようとも思わなかったが、瓜崎の姿はもう見えなかった。実々がいた。
「先日は、来てくれてありがとう」
計測学科の連中らしき輪の中にいた実々には、その挨拶だけで通り過ぎることができた。
オードブルのサーモンを手元の皿に盛りつけている柿浦を見つけた。皿にはすでにポテトサラダや海老がいっぱいに載っている。それを持ったまま、柿浦の方から近づいて来た。
「こないだは、わざわざありがとう」
柿浦は頷き、「比目子なら、あそこにいるわよ」とフォークの先で向うの壁際を差した。瑠璃の目的をちゃんとわかっているのだった。その気の回り方と、今日のまた、とてつもなく野暮ったいスーツが、何ともちぐはぐな感じだった。
同窓会然とした格好ほど、女の年齢を感じさせるものはない、と瑠璃は内心で呟いた。実々のワンピースも、胸元のフリルがいただけなかった。全体に金をかけすぎるからだ。身分や立場を確かなものに見せたい思いがそうさせるのか。男なら、それもいいだろうが。
そんな苛立ちは、くだを巻く酔っぱらいと変わらない。靴とシャツだけ上等な、ジーンズ姿の自分が若く、寺内の言うのもまんざら世辞ではないと言いたいのでもない。それこそ嫌な、同窓会的なる自惚れだ。が、やはり情けなかった。この歳で老け込み、昔を懐かしむことが。脂肪と余裕がありあまった同級生たちが。
昼間から飲むと、酔いが回る。空になったグラスを、手近な丸テーブルに置く。と、瑠璃は目を見張った。
真紅のスーツ。まさしく花のように真っ赤だった。
「ヒメコ。まあ、素敵」
そうお、と比目子はにっこりした。いや比目子ではない。姫子だ。
「あのときに銀座で買ったのよ」
そうだったのか。金をかけすぎるから老け込むという、たった今の考えを、瑠璃は百八十度あらためた。あのブランドの紙袋には、この一式が入っていたのだ。同窓会があるときは、銀座に出かけて豪華海外旅行に行くぐらいの金をはたくべきだ。アウトレットで買った着崩れしたスーツしかないなら、出ないことだ。
ウェイターの盆から、瑠璃は白ワインを取った。ウェイターは不慣れな感じで、学生を使っているのかもしれなかった。一口啜り、さらに比目子に賞賛の眼差しをおくる。アルコールは今度は、瑠璃に惜しげのない鷹揚さを振る舞わせていた。
素晴らしいカットラインの真紅のスーツは、痩身のエステも奮発したのかと思わせるほど、身を引き締めてみせていた。色の映りを意識してなのか、比目子は口に運ぶ気配もないまま、赤ワインのグラスを持っている。まるでミセス雑誌のグラビアだ。
幹事の姫子に、会場の係の者が話しかけた。瑠璃はわけもない満足感に微笑み、脇を通り過ぎた。
集客の礼を言うのを忘れたと気づいたのは、そのすぐ後だった。が、必要あるまい。素敵という言葉に、本気の賛辞の眼差し。どんな丁重な礼にも勝ろう。
さて。瑠璃は、これで帰るつもりだったことを思い出した。
しかしなぜか、その気が失せていた。長居する気はないが、慌てて立ち去ることもなかろうと思えたのも、アルコールからくる鷹揚さだったろう。後から考えれば、それがむしろ瑠璃には幸いした。不幸中の幸い、という程度の話だったが。
瑠璃の目線は、別の人影を探していた。それは呆れるようなことだったが、アルコールは瑠璃自身に対しても鷹揚さを許した。
名刺を捨てた、あの技研に勤める同級生。銀座の画廊にわざわざやってきて、瑠璃にとっては暴言としか思えない言葉を吐いた男に一言、言い返してやりたかった。少なくとも自身がここにいることで、何も後ろめたいこともなく、日本に帰っているのを隠していたのでもないと示したかった。もしかすると、自分がここへ来たのは比目子に義理立てしてではなく、そのためだったのかとも思えた。
それは自分にしか関わりのない、それこそ同窓会的なつまらぬ自己顕示にすぎなかった。が、構うものか。それ以上に程度の低い男を相手に、恥じる必要はない。
が、その姿は見当たらなかった。とはいえ、どこにでもいるような小太りの、頭の薄くなった男だ。集まったたくさんの鼠色のスーツの背中のどれもが、そいつかもしれなかった。
と、背後でざわめきが起こった。振り返ると、人だかりができている。駆け寄る柿浦の姿が見えた。
何かの予感に、瑠璃はワイングラスを置くと、人だかりに吸い込まれるように近づいた。背広の男が屈み込み、隙間が空いている。
真紅のスーツ。俯せに突っ伏して、比目子が床に倒れていた。
グラスが床に砕け散り、赤ワインが拡がっている。スーツに染みが、と瑠璃は一瞬、そっちを心配した。深い真紅に赤ワイン。さほど目につかないだろうか。
「おーい、大丈夫か」
しゃがみ込んだ男は比目子の頭と顔に手をやり、どこか子供をからかうような口調で呼びかけている。騒ぎにするまいとしているのだろうか。と、見ると寺内だった。
「救急車っ」と、柿浦がヒステリックに叫んだ。
「息はしてるし、意識もあるぜ」
たしなめるように寺内が言ったが、ほとんど誰の耳にも届いていない。「そこ、ガラスに気をつけろよ」と、寺内は溜め息交じりに呟き、両掌をはたいて腰を上げた。
救急車は、大学裏で待機でもしていたかと思うほど、すぐにやってきた。進行係だか、世話役のような男が指図して人を避けさせ、担架に乗せられた比目子が運び出された。柿浦が、たぶん自身と比目子のだろう、バッグと上着を抱え、その後を追って行った。
掃除夫が床を掃き、モップで拭いた。それを合図に、固まっていた同窓生たちは蠢き出した。アクシデントがモップで拭き取られた、とでもいうかのようだった。瑠璃は、隅のカウンターからあらためて白ワインのグラスを取ると、壁に並んだ椅子の一つにかけた。
もう二時過ぎだった。遅い朝食をとったきりだ。酒に強くもないし、空き腹にアルコールばかりもよくない。何か食べておこうか。会場の入口で五千円も払ったんだし。
と、向うからボンがやってきた。さっき、計測学科の輪の中で実々と話していたのを見かけて会釈した。そのとき凡子、もしくはボンという呼び名も思い出していた。
「少し、どお」ボンは皿いっぱいに盛ったサンドイッチを勧めた。
「ありがと。お腹すいちゃってたところ」
「びっくりした、ねえ」
童顔のボンは、まだ驚いているように目をくるくるさせる。学生の頃はまるで赤ん坊みたいで、本当にかわいらしかった。その無邪気な顔でスパーッと煙草を吹かすのに、歳下の男子学生がイカれていたのを目の前で見たことがある。
「ヒメコ、だいじょぶかな」
口いっぱいサンドイッチを頬ばり、ボンはもごもごと、比目子でなく、姫子、と言っているように聞こえた。
「過労かな。この会の幹事、彼女なんでしょ?」瑠璃は言い、会場を見回す。八百人の同期のうち、ざっと二百人以上はいる。集める人数は幹事の腕次第というが、頑張ったものだ。
「うん。母集団を増やすんだとかって、留年組にも通知してたからね。つまり、同期卒業と同期入学の全員に」
とすれば八百人でなく、優に千は超える数だ。南園大理工学部は進級には厳しく、毎年留年が山ほど出る。コンピューターと化学が嫌いな瑠璃も、基礎課程では相当にひやひやした部類だ。
「比目子はどこに勤めてるの?」
五葉証券のシンクタンク、と、ボンはやっぱり口をもごもごさせながら答える。
「すっごい。いいとこね」
それなら、さほど多忙ではあるまい。女性にはぴったりの職場だ。
「うん。彼女、統計処理が専門だったからね。博士課程では」
「そう。博士まで出たんだ」
出てない、とボンはもごもご言う。「途中でやめちゃったの」
博士課程中退だろうが、学部卒だろうが、南園大学理工学部は就職先にはこと欠かない。バブルがはじけようと金融危機が来ようと、どんな不景気も、ものともしないのだ。それもまた瑠璃が異端視され、もったいないとさんざん言われた理由の一つだった。
「でも、どうして途中で?」
「子供ができたから」
「え。じゃ、結婚して?」
「してない。子供ができただけ」
無邪気さが子供の依怙地さに変わったようなボンの横顔には、鼻から口元にかけて深い皺が刻まれていた。
「未婚の母になったの。で、働かなくちゃって就職した。父親は誰か、言わないんだ」
言えない相手。既婚者か。だがそもそも実験に明け暮れていた院生が、大学の外で男を見つけたとも思えなかった。
しかも五葉証券のシンクタンクといえば、南園大でも誰もが羨むピカイチの就職先だ。そんな状況の比目子に決まるところではないだろう。担当教授によほどプッシュされなければ。
「もしかして父親は、南園の先生とかかな」
いろいろ噂はあったけど、とボンは言葉を濁した。「比目子が、何にも聞くな、ってオーラを放ってるから」
勇気があるね、と呟いて瑠璃は黙った。
学生時代の比目子からは想像もつかない。瑠璃の展示会の情報を回してくれたり、同窓会の幹事を引き受けたりしていたのも意外だったが、それが彼女の意地なのかもしれない。
「ボンは、仕事は?」
「あたしは在宅のプログラマーで、頼まれ仕事をしてるだけ。子供もいないし、亭主も留守ばっか。文字通りフリーよ」
ボンの立場は、どうやら瑠璃に近いようだ。今日の格好もカジュアルなニットのワンピースで、気楽な感じが共通していた。
が、瑠璃はボンを置いて先に出ることにした。最初から別に、旧交を温めるつもりで来たわけではないし、比目子もいない。あの自分に暴言を吐いた技術者の姿もなかった。アルコールが醒めたせいか、もう見つけたところで、どうしようとも思わなかった。
会場の出口に寺内がいた。
「なんだ、どこ行く」と、瑠璃の腕をつかむ。その力が少しばかり強すぎる。ちょっと荒れてる感じだ、と瑠璃は思った。家か会社で、嫌なことでもあるのか。
「赤坂のホテルに部屋とったんだぜ。スイートだ」
たちの悪い冗談だ。だいいち声がでかい。
「また今度ね。奥さんによろしく」
「今夜は帰さないって、さっき言ったろ」
しかも、しつこい。このオヤジっぷりを、もしかして気遣いからの演技、などと一瞬でも買い被ったことを瑠璃は後悔した。
「おーい、亭主の留守はいつだあ」と喚きながら、追いかけてまでは来ない寺内に「十年経ったら会いましょう」と応えて、瑠璃はホールを出た。
青葉台の駅前で、時間をかけて買い物をし、マンションに戻ったときには日が暮れていた。
化粧を落とし、シャワーを浴びると、買ってきたマカロニサラダと海老フライで簡単な夕飯を済ました。一日二度のアルコールはよくない。ビールは控え、ローズヒップティを一リットルばかり飲む。本当に、よっぽど気をつけてないかぎり、あっという間に体重が増えてしまう。二十代から三十代前半まで、四キロぐらいならすぐに減らせた。今は増えたら最後、戻るのに半年はかかる。
今日は何もできなかった。瑠璃は反省を込めて、3DKの奥の一室を見渡した。銀座での展示会の荷物が、まだ運び込まれたままになっている。早く帰って片づけようと思っていたのに。
まあ予定というのはこうやって裏切られてゆくものだ。明日できることを今日するな、と。
バッグから出した携帯が点滅していた。シャワー中にメールが届いたらしい。見覚えのないアドレスに、「実々です」とタイトルが付いている。
さっき、メアドの入った名刺を渡したんだった、と思う間もなく、本文が目に入った。
「姫子が亡くなったそうです。詳細はわかりしだい、追って」と書かれていた。
(第02回 第01章 後編 了)
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