ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
1(前編)
春、三月。快晴だった。
瑠璃が青葉台のマンションを出たのは、昼少し前だった。細身のジーンズに白のシャツブラウス。三月も末だったが結構、肌寒い。羽織った薄手のダウンは今期のユニクロの新作だ。大人げないが、同窓会然として着飾ってゆく気にはどうしてもなれない。それも赤坂のホテルというならともかく、母校の新ホールだ。
卒業式のシーズンに合わせ、昨年秋に落成した記念ホールでの卒業二十年目の同窓会を開くという通知が来たのは、二ヶ月も前だった。葉書はとうになくして忘れていたのが、出かける羽目になったのは、運悪く銀座で比目子に出くわしたせいだった。
黒岸姫子の名が、同級生の頭の中で「比目子」と変換されるようになったのは、故意か思い違いか、誰かの書き損じからだったか。容姿、才覚、どこを取っても平均的な彼女だが、いつも上目使いに他人と自分を比較している感じが、それにぴったりに過ぎた。ヒメコ、と呼んだとき、「今、どんな字面をイメージした?」とばかりに同級生同士が目配せし合い、吹き出すこともあった。
もっとも、南園大理工学部の女子学生たちがとりたてて底意地が悪かったということはない。当時、八百人のうち女子は四十人しかおらず、クラスや学科を越えて、むしろ仲は良かった。試験も実験レポートも、文系と比べものにならないほど大変で、助け合わざるを得なくもある。が、理工系の女の子たちはさばさばして、もとより他人のことにやたらと踏み込まなかった。勉強も忙しかったし、男女比一対一の文学部あたりと違い、男を取り合ったりする必要もなかったからだろう。
だが瑠璃は大学の同窓生たち、特に卒業後のことについては、ほとんど何も知らなかった。卒業とほぼ同時に亮介とともに米国に渡り、まもなく結婚した。日本橋で二百年続く古美術商の跡取りである亮介が、そのロサンゼルス支店を出す準備のためだったが、軌道に乗るだけで十年かかった。帰国したのは、瑠璃がちょうど四十歳となった二年前。亮介はロスとこっちを行ったり来たりで、半分は向うで過ごしている。
瑠璃もしょっちゅうロスには行くが、最近は長くても三週間ほどで戻ってくることが多い。米国家庭風のパーティ・アレンジメントを紹介する仕事が忙しくなり、今やロスに行くのも、その素材の仕入れが目的となっている状態だった。
比目子とばったり出くわしたのは、その仕事の最中、銀座の狭い路地で、だった。
「るぅり、じゃない」
そんな子供っぽい、耳障りな呼び方をするのは誰か。
振り向いた瑠璃の目に入ったのは、ブランド物の紙袋をいくつもぶら下げたスーツ姿の女だった。顔は見覚えがある。が、紛れもなく中年。面差しは横に拡がり・・・名が出てこない。
「ヒメコ、よ。黒岸。今は、いえ、今も黒岸」
比目子、いや黒岸姫子だ。確かに。
「うぁ、久ぃしぶぅりぃぃ」
上半身を引き、目をまん丸に、十倍のテンションでの叫び声は、相手に劣らず子供っぽかった。
「何してるの。こんなとこで」と、比目子は訊いた。
ご覧の通り、と瑠璃は米国風に両掌を上げ、自分の古ぼけたセーターと埃まみれのジーンズを見下ろす。
「このビルのスタジオ画廊に、写真パネルを搬入なの」
路上にいたカメラマンの川村を、比目子はちらりと見た。
「息子よ。イケメンでしょ」
えっ、と仰け反った比目子に、瑠璃は思わず笑った。昔と変わらず、からかいたくなる彼女だ。
「冗談よ。子供はいないから」
「画廊・・・。ご主人のお手伝い?」
首を横に振りながら、瑠璃は意外に思った。夫の職業を覚えているのか。メーカーに就職したり、大学院へ進んだりする学生が多い中で、畑違いの男とさっさと結婚し、日本を離れた瑠璃のことはよほど話題になったのかもしれない。日程の都合で慌ただしく、卒業式にも出ず仕舞いだった。何年も経って、学生課から卒業生名簿のことで問い合わせがあり、担当者が言うには、瑠璃が大学を中退したと思ってる者もいたらしい。
「よかったら、見ていかない? まだちゃんと展示してないけど」
あのとき、なんでそんなことを言ったのか。
後から考えると不思議だったし、後悔もした。なにも、自分がしていることを説明する必要などなかった。忙しいからと、そのまま別れていたら、あんなことに巻き込まれもしなかったろうに。
「あっちで英語を勉強したら、後はもう、することがなくて。日本からのお客さんを案内したり、アメリカ人を接待するぐらいしか」
アレンジされた花、ワインボトル、サンドイッチの皿といった写真パネルに、うぁ、きれい、すっごくすてき、と比目子は大げさなぐらいに感心してみせた。
「だんだん面倒臭くなって、パーティならいっぺんに済むし。そのコツがわかったっていうか。日本人はキャデラックで迎えに行くと喜ぶし、アメリカ人なら人力車で」
「え」
「それは嘘。だけどね、ほんとに日本的にするんじゃなくて、ちょっとばかり派手にするの。そのさじ加減で、日本人も喜ぶのよ。エキゾチックだって」
もちろん、夫の客にはそんな手は通用しない。アメリカ人ではあっても、浮世絵コレクションで知られるボストン美術館の関係者、桃山期の焼き物の収集家たちは、日本人以上の日本通だ。
スペースの中央には黒塗りのテーブルが設えられ、ティーセットでお茶を出す予定になっている。まだ食器が届いたばかりで、花もお菓子もこれからだ。比目子には、缶コーヒーを渡すしかなかった。
「この展示会って、どういう人たちが見に来るの?」
なかなか鋭い質問だった。「瑠璃のパーティ・アレンジング」などと銘打っているが、有名なわけではない。本を出す予定はあるものの、ならばそれが出て、評判をとってからでもよさそうなものだ。
実際には、パネルを撮影したセミプロカメラマン、川村仁のお披露目も兼ねたものだった。彼の父親は著名な料理写真家で、まだ二十二歳の息子のキャリアを築くため、他人から眉を顰められないよう、瑠璃の展示会という形で企画を立てた、というわけだ。出版社や画廊と交渉し、高級食器を貸し出してくれたのも仁の父親だ。亮介の骨董店の客だが、仕事柄、新物のウェッジウッドなども山ほど所有している。
「まず写真関係者でしょうね。銀座の画廊巡りのついでに、美術批評家も来るかもしれないけど。それとこの辺りの出版社の人たち」
瑠璃たちに付き合って画廊に戻り、缶コーヒーも買ってきてくれた川村の耳を何となく憚り、瑠璃は曖昧に答えた。
自慢できるほどのものはないが、やたら卑下することもあるまい。傍目に華やかな「仕事」は大半が手弁当、台所事情はそんなものだろう。川村は父親、瑠璃は伝統店を継ぐ夫という後ろ盾に、身仕舞いを整えてもらっている。
「会期中に、また来るわね」
比目子はそう言うと、二十分ほどで帰って行った。
それだけだったら瑠璃も、そう義理立てして同窓会などに顔を出そうとは思わなかったろう。街で偶然、出くわすなら仕方ないが、同じ教室で過ごしたというだけで、わざわざ集まろうという意味がわからない。わからないというより、積極的に嫌いだった。つい昨日まで接点がなかった者同士、今日、接点を見出そうとする。そこにはたいてい、何かの動機が見え隠れする。生命保険やリフォームのセールスなら、まだいい。同年代の他人と自分を引き比べ、自分の達成を計る物差しにするなど、浅ましい。
比目子というあだ名は、そんな憂鬱な思惑そのものだった。よりにもよって運悪く、と瑠璃は思った。実家や日本橋の婚家に届く通知の類いは無視し、新しく越した青葉台のマンションの住所は知らせず、まだアメリカにいるかのごとくだった。暮らしていれば遅かれ早かれ、しがらみのあれこれは生じるものだが。
しかし後から考えると、そのときのヒメコは少しも「比目子」らしくはなかった。写真パネルを誉め、瑠璃を眺めて「ちっとも変わらない」とお世辞を言い、だが、太ったためか頬の弛みと口元の皺が目立つ自身に対しては、言い訳めいた意識を向けなかった。ブランド物の紙袋は、画廊の床に無造作に放り出していた。単に買い物に出かけてきたにしては高価そうなスーツを着込み、念入りというより濃い目の化粧だったが、その自身の格好についても説明めいたものはなかった。
瑠璃もまた、訊かれたことを答えるだけで、「今、どうしてるの」的なことは口に出さなかった。
「今は、いえ今も、黒岸」と言った比目子が、自分から何か言い出すまで遠慮する気があったのは確かだ。ただ再会を嬉しがっているふうで押し通したのは、人当たりのよさや処世術というより、それこそ瑠璃自身の子供っぽい物怖じだった。
もっとも「今も、黒岸」である以上、訊くべきこともなかった。技術系のキャリア女性として独身で通し、休日は銀座で過ごしている。そうでないと考える理由はなかった。その買い物姿がどこか、有閑マダムふうであったとしても。
偶然の出会いのことも、また来ると言った彼女の言葉も、瑠璃は単純に忘れることにした。
実際、会期中に比目子はやってこなかった。が、その代わりに比目子から同報発信メールをもらったという同級生たちが十人近くも押し寄せてきたのだ。
「香津(旧姓・水野)瑠璃さんがアメリカから戻って来られていて、銀座アップジョン画廊でパーティ・アレンジメントの展示会を開きます。3月4日(月)〜11日(日)10時〜20時。銀座近辺にお勤めの方、ぜひ覗いてあげて。
覗いてあげて、ときた。
ネット時代などろくなものじゃない、とロスにいる亮介へのメールで瑠璃は毒づいた。無論、それ自体が矛盾していたが。
室壁実々と柿浦奈央子は、連れだって来た。実々は職場結婚して子供もいるが、旧姓のまま電力会社に勤めている。柿浦奈央子は独身で、航空会社でシステム管理をしているという。二人とも計測工学科だが、実験の忙しい工学科の連中は結束が堅いらしい。
「うわあ。本格的にやってるのね」
実々の言葉は無邪気なもので、悪意は感じられない。瑠璃は川村仁を紹介し、「本格的」という言葉をかわした。「彼のデビューなの。昨日、『写真グラフ』の編集者も来たのよ」
とたんに実々の背筋が伸びた。小学生の子供二人を抱え、額に深い皺が刻まれていたが、キャリアウーマンらしく緊張感のあるプロポーションを保っている。
「会社にだって若い子、いるでしょ」
耳打ちしてきた実々に、瑠璃はそう囁き返した。
「あんなガキども、お話にならない。いいなぁ、あんな部下ほしい」
部下どころか、川村仁はむしろ瑠璃のスポンサーの息子なのだ。が、そんな事情までわからせようという気力はなかった。
対照的に柿浦奈央子は、パネルやテーブルを値踏みするような目で見ていた。もっとも、ウェッジウッドのカップに紅茶を淹れ、手製のショコラ菓子を勧めると、納得した表情を覗かせた。こちらもまるで他意はなかった。
「引退したCAで、こういう教室を開いたりしてる人がいるのよ」
航空会社に勤める柿浦奈央子は、雅びを売り物にする女を見かける機会には事欠かないのだ、といった口振りだった。
「どうかな、って思うことも多いのよね。ファーストクラスに抜擢されたようなスタッフなら、人脈も豊富だろうけど。エコノミーでジュースを配ってただけのCAとかじゃ」
だがそんな柿浦自身、とても同い歳、しかも独身とは思えない老け込み方だ。システム管理とはいえ、華やかな航空会社にいて、どうしたらこんなに野暮ったくしていられるのか、となかば感心するぐらいだった。俗世に身を置きながら魂を竹林に隠遁させ、皮肉な警句を発する仙人のごとく、か。
そんな柿浦と実々がいっしょに来たのも妙だが、おかしがる間もなく次々と、他の同窓生らが訪れた。比目子はずいぶん広くメールしたらしく、瑠璃がまったく見覚えていない、クラスも学科も違っていたと思しき男もいた。
「君はどうして、こんなことしてるの」
大手家電メーカーの技研にいるという元同級生には、あたかも不祥事を起こしたかのように問いただされた。何やら我々と違う、技術畑でない男と海外に出たとは聞いている。この事態はその亭主の差し金か、それとも離婚にでも至って、こんなはめになったのか。
「どっちでもなくて。ただ、成り行きで」
「成り行き・・・」
どうやら瑠璃は、あり得ない言葉を吐いたようだった。
「そうか、そういうことか。あのときも成り行きで、あんな結果になったってことか」
そう呟き、瑠璃の顔を眺めた。理工系らしい、地面に転がったドングリのような眼差しだ。この捕らえどころのない瞳で日がな一日、コンピューター画面を見つめているのだ。
「ええと、化学実験を、」
男の言葉を無視して、瑠璃は言った。「アメリカのキッチンは広いでしょ。だから毎日、配合と化合を繰り返してたら、人種によって最適なレシピと、人種共通に適合するものとかが」
男が帰ると、瑠璃は名刺を画廊のゴミ箱に捨てた。
あのときも成り行きで、あんな結果に、とは何という言い草だ。二十年以上も前の出来事を思い出させるために、わざわざ来たのか。技術バカを装えば、どんな暴言も許されるとでも。
その後の客も男の同級生ばかりで、瑠璃は疲れ果て、同じ出まかせを言った。瑠璃が基礎課程の全単位を落としたのがコンピューター演習と化学実験で、勉強したのが数学だけだったと、覚えている者はいなかった。数学科の連中は当時から互いの関係が希薄で、幸い画廊にも誰も顔を出さなかった。
思わぬ忙しさで展示会は終わった。客が増えたばかりではメリットはなく、比目子に恩義を感じる義理などなかった。来た連中は、感じるべきと思うに違いなかった。
そんな他人の思惑を忖度して、自分の行動を決めるのはくだらない。それでも比目子が幹事役という同窓会に、やはり出かけないわけにいかなかった。会場が母校の大学で、無視するには、マンションのある青葉台から近すぎもした。瑠璃が着ていたのは、確かにロスJブランドのスキニージーンズにユニクロのジャケットではあったが、踵の高いパンプスと白いシャツブラウスはイタリアの最高級ブランド製だ。理工学部の連中、特に男どもは気づきもするまい。それは無駄な意地で、言うまでもなく無駄な見栄でもあった。
(第01回 第01章 前半 了)
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*『本格的な女たち』は毎月03日にアップされます。
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