ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
2(前編)
物事は、そこだけちょんと花芽のように摘み取って、とはいかないものらしい。いったん起きれば、根が張ったようにしばらく続く。
銀座の路地で会った比目子と、それきりとならず、皆といっしょに彼女の最期を目にするはめになったのも縁だろう。ついさっきまで元気だった者が突然、亡くなる。四十を過ぎたばかりだが、自分たちはもう、そんな歳なのかもしれない。同級生同士、互いを眺め合って社会的達成やら、見た目の若さやらを競うのは浅ましいが、真に年齢を自覚するのはやはり、こんな機会しかなかった。
とはいえ義理で同窓会に出たばかりで、今度はまた葬式に出なくてはならないのか。瑠璃は気が重かった。冷たいと言われようと、二十年間も音信不通だった自分が、ずっと付き合ってきた者たちと同じに振る舞わなくてはならないのは割に合わない。実々からの同報発信メールを読むと、通夜から手伝わされそうな気配があった。
亡くなったのは救急車の中ということだ。すると看取ったのは柿浦、ということになる。救命士が手を尽くしたが、あっという間だった。心臓麻痺、という以上の詳細はなかった。それはともかく、どういうわけか二日を過ぎても葬儀の予定は決まらないらしい。それではこっちとて、どう都合をつけていいかもわからない。
仕事が忙しい、とお茶を濁しておこうか。
が、その仕事のことで、比目子に世話になった、と思われているのだ。彼女が展示会の客集めを手伝ったつもりでいたなら、その葬式を手伝わずに済まされるだろうか。
仕事と言うなら、比目子の勤め先の同僚はどうしているのか。五葉証券は南園閥で、シンクタンクには毎年、博士号を持つ優秀な数人が就職している。近しくしている者もいるのではないか。同窓会の幹事をしていた彼女に最近、声をかけられただけの瑠璃まで駆り出されては、通夜の台所は大勢で賑やかすぎやしないか。
いずれにせよ、ここしばらく瑠璃は本当に、結構忙しくなる予定なのだった。日本橋にある婚家の本店に行き、ロサンゼルスでの方が捌けそうなものを仕訳けしなくてはならない。舅はまだ元気で店を取り仕切っているが、着いた荷を開き、運んだり仕舞ったりの作業は、物理的にも瑠璃の手を当てにするようになっていた。
さらにその日の午後、日本橋に向う前に、地下鉄の清澄白川駅に近い場所で打ち合わせがあった。例の展示会に、知人に連れられてきた人材派遣会社の社長から仕事の依頼があったのだ。今日はとりあえず挨拶に自宅を訪問するだけだが。広報誌でティーパーティの特集を組むのに、コーディネートと写真を瑠璃と川村仁に、という話だった。
写真資料を山ほど持った仁は、地下鉄の出口で待っていた。
「すんごいマンションですよ。ワンフロア全部占めてるし」
彼は以前に一度、父親とともにそこを訪ねていた。父親は今回の依頼自体には関与していないようだが、最初から、その息子という触れ込みだ。世界に通用する(かどうか疑問だが)といわれる有名写真家に頭を下げられ、気を悪くする社長人種はいない。息子の方も、利用できるものを利用しないで生き残れるとまで自惚れてはいない。細い身体に、すでにそのぐらいの厚かましさは備えている。ハンガーを思わせる幅広の肩に荷を下げて、足早に通りを行く。ほとんど手ぶらの瑠璃がついていくのがやっとだ。
ちょっと待ってよ、と瑠璃は言った。「あなたを見失ったら、行き先がわかんないじゃない」
「荷物が重いからっすよ」と、川村は間の抜けた返事をする。「早く着いて、降ろしたいじゃないっすか」
通りすがりの女たちが振り返るのは、その猛烈な勢いでなく、肩までの髪がひらめく彼のルックスのせいだった。
十六階建てマンションの最上階は、仁の言う通り、スペースをふんだんに使った豪勢なものだった。玄関先は傘を何本でも干せるだろうし、その前の廊下は人が一人住めるほどの広さだ。
応接間の全面窓から、素晴らしい風景を見下ろせた。隅田川沿いに桜並木がほんのり色づいている。だが壁の絵は、先頃亡くなった峰沢画伯がマンハッタンを描いたもので、最高値時の六分の一程度に暴落しているはずだ。生前、大学教授の画伯は、画壇を政治的に牛耳ってプレステージを保持していたが、その絵自体の価値は低い。アメリカ市場ではクズ同然で、ボストン美術館の関係者が日本での評判をいぶかしんでいた。
食器棚にはバカラのグラスとガレがあった。ガラス越しでもあり、瑠璃には見分けがつかないが、日本に入ってきているガレの多くは贋物の可能性が高いらしい。正規ルートと呼ばれるルートそのものが贋物だ、と亮介が言っていた。絨毯の床にいくつも置かれた壺は中国物で、これも瑠璃にはよくわからない。新しく見えるが、本物かもしれなかった。中国は日本と違って枯淡の味わいをよしとせず、年代物でもまるで新品に見える。
川村は十六階の窓から、カメラマンらしく、ためつすがめつ風景の角度を考えている様子だった。
平日の午後であり、社長は不在、打ち合わせの相手は社長の妻だった。
社長夫人は五十代半ばほどで、やや吊り目だが、えくぼに愛嬌がある。黒いボブの髪が重苦しいものの、薄いメークにサーモンピンクのブラウスがよく映えていた。手作り風の軽いニットの黒いタイトスカートもよかった。これは明らかに新物と見られたが、中国製の螺鈿のテーブルでお茶を出してくれた。湯呑みは極薄の磁器、香蘭社のようだ。
「前に住んでいたのは、わたくしの実家の近くで、国技館のすぐ裏手。実家はメリヤスを扱う卸問屋で、ここからも見えるんですよ」と、依田夫人は広い窓を指差した。「主人の会社が大きくなりましてから、広報部室を兼ねて、ここへ越したんですけど」
依田社長の人材派遣会社は中堅どころだったが、ネット活用が功を奏して急成長したという。ならば広報もウェブ展開できるはずで、実際、新宿の会社には、サーバー管理をする広報部がちゃんとある。が、以前から出していた紙の広報誌を廃刊にせず、社長夫人を編集長として続けている。ウェブでの広報は男性を中心とする技術専門職やクライアントの会社向け、冊子の方は派遣される女性たち向けに、毎号エステや海外のホテル、料理やガーデニングなどの特集を組んでいる。つまりは社長夫人のかっこうの玩具でもあり、ここはいわば第二広報部だ。
「冊子なら何かのときに、名刺代わりにお渡ししやすいでしょ。仕事関係の方ならサイトにアクセスしていただけるけど、私どもの個人的なお知り合いとか、昔からのお友達とかにも」
素敵ですわね、と瑠璃は頷く。「この冬の花あしらいの特集なんか。クリスマスリースの花材もシックだし、キャンドル立てに薔薇と明治期の印判って、斬新で」
「アレンジメントの鈴鹿日美さん、新進気鋭ですもの。ただ、連れてきた写真家がねえ。構図がありきたりだと思いませんこと」
仁は床に置いたバッグを開き、案を練るべく、ごそごそと資料を取り出しはじめた。
「お宅のご主人のお店には、お宝級の浮世絵もおありなんですってね」と社長夫人は瑠璃に言う。「今度、下町風インテリア特集を組もうと思って。奥沢に、ミニ盆栽を扱うお店を見つけたの」
「浮世絵ですか。めぼしい物は、ロスに持っていってしまって」
「そう。日本より、あちらの方が値が付くかもしれませんものね」と、依田夫人はがっかりしたように呟く。
「でも、派遣される女性向けだったら、むしろ気軽な物の方が。値の張らない幕末物なら、こちらにも」
五千円程度からのミニ盆栽と並んで写真におさまるのに、五百万もする代物では、そもそもバランスが悪すぎよう。
「うーん。あたしが見せていただきたかったのよ」
「では、今ちょうど新しい荷を解いてますので、いいのがあったら取り分けて、まずお見せしましょう」
瑠璃の仕事を通じて、こうして亮介の店の新しい客も捕まえるケースもぽつぽつあった。
「あのう、先日の展示会で一番好評だったパネルですが」
仁は資料の束をテーブルに置いた。
「あら、それ。いいわね、セーブルって好きよ。それとロイヤル・コペンハーゲンのブルーフルーテッド・フルレース。あたしはね、ウェッジウッドのデザインとかって、やっぱり日本のテーブルにはどうかなって。ミントンみたいな植物文様なら、キッチンなんかで気楽に使えば・・・」
瑠璃の携帯が鳴った。「すみません、」と慌ててバッグから出す。
登録されない、知らない番号だ。誰だろう。このごろはメールばかりで、いきなり携帯を鳴らすのは実家の母か、舅ぐらいだが。
瑠璃の困惑に、「どうぞ」と依田夫人は鷹揚に言う。目顔で仁に話を続けるよう促し、瑠璃は席を立って壁際に寄った。
「はい」
「あの、あたし。柿浦。葬儀の予定を気にしてたって聞いたから」
ああ、と瑠璃は息を吐きそうになった。気にしていたのは、仕事にこういう邪魔が入るのが嫌だったからだ。
いつなの、と早口で囁く。
「それが、まだなのよ」という答えに、頭に血が上りそうになった。
「司法解剖に回されたって。一応、不審死だから。救急車で亡くなったけど、病院で死んだのと同じかと思ってたら」
居合わせた柿浦には、重大事だったに違いあるまい。しかし、なぜ自分に電話してくるのか。
「川村くん、」と瑠璃は携帯を持ったまま声をかけた。「あの、アフタヌーンティのマイセンの写真をお見せして。そう、あなたのお父様が貸してくださった」
「あっ、ごめん。お仕事中?」
「ええ。それで?」
友人が司法解剖されるという話に、それで、はないだろうか。
「土曜だから、てっきりお家かと・・・。それでね、大学のホールも捜査されてるんだって。ボンのとこに警官が来たって言うから、もしかしてそっちにも、って」
「いいえ。来てない」
捜査? こっちから訊きたいことが湧いてくるが、依田夫人の耳がある。
「何かあったら、名刺のアドレスにメールすればいいわね」とだけ瑠璃は言い、携帯を切った。
依田夫人は仁を相手に、ペニンシュラ・ホテル風キュウリのサンドイッチの作り方を論じていた。また写真に戻り、アフタヌーンティの三段トレーに置かれた無花果のスコーンについて、今回はこんなにオーソドックスでなくても、見栄えのするものを考えたい、と言っている。
瑠璃は席に戻った。「失礼いたしました」
「どうかなさったの」と、依田夫人は瑠璃の顔を覗き込んだ。そんな大仰な声を上げただろうか。それとも単に、夫人が物好きで無遠慮なだけか。
「実は、大学の同窓会で友人が倒れまして」
いっそのこと話すことにした。「そのまま亡くなってしまったんです。嫌ですわね、もうそんな歳で」
「ま、それは。大変なときに」
「いえ、別に親しい間柄でもないんです。先日の銀座の展示会の準備をしていたとき、たまたま路上で会って」
「え。あの人ですか?」と、仁が目を剥いた。
「ああ、そう。あなた、あのときいたわね」
信じられないなあ、元気そうだったのに、と仁が首を振る。「展示会場に、南園の同窓生、ずいぶん来てくれましたよね。あの人が呼んでくれたんでしょ」
「あら。宅の主人も南園ですのよ」
「ええ、経済でいらっしゃるでしょ。わたくしは理工学部で」
「まあ、理工・・・」
「数学専攻です。変わってるって言われます。理工学部の人たちからも、そうでない方からも」
「確かにねえ、数学。尊敬しちゃうわ。あたくし、数学だけはどう転んでもダメでしたもの」
「それがまともな人間というものですわ」
仁と別れ、日本橋の店に着いたのは午後五時近かった。店番と経理の従業員二人と、姑の佐和子がいた。舅の啓介は昔馴染みの客のところに軸を持って出かけ、夜遅くなるだろうから、そのまま品川の自宅に直帰するという。
「晩は鰻重でも取ろうか」と、姑は言った。
骨董店はどちらかと言うと夜の商売だ。従業員は交替で食事に出る。瑠璃は外に出れば作業が滞るので、店屋物の方がありがたい。
お願いします、と応え、瑠璃は店の裏の八畳に入った。
形ばかり畳が敷かれているものの、倉庫代わりの部屋だ。無論、品川の自宅近くに別に倉庫はあるのだが、そこから舅が車で運んできた物のほか、直接ここに送らせる荷もある。新しく着いた段ボールが十一箱、壁際に積まれていた。兵庫県の旧家の蔵から初出しで、ほぼ丸ごと買ったと言っていた。
(第03回 第02章 前編 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『本格的な女たち』は毎月03日にアップされます。
■ 小原眞紀子さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■