特集「文人たちの忌日」の編集部リードには「忌日の句とは元来、回忌ごとの法要に参加者たちが詠んだもので、季題として扱われてきたものである。この頃は、回忌の行事に参加しない人たちが、その人を偲んで詠むかたちのものが多い。今回は、著名な文人の忌日の句を、略歴を交えて紹介したい。作品や人柄のどのような点に着目して詠まれているかを読みとるのが、忌日俳句の楽しさである」と書かれている。
江戸時代から忌日俳句は詠まれていたわけだが、それがだんだん俳句技法(作法)の一つになっていったということだ。生前親交のあった故人を偲ぶための句が季語化していったのはそういうことだ。季語は言葉数が少なく空間描写になりやすい俳句に、時間的深みを与えるためのものである。春夏秋冬の風物が季語の基本だが、文人の命日でも季節を表象できるということである。
青空に染まらぬかもめ修司の忌 遠藤若狭男
木に宿る滴もみどり修司の忌日 橘川まもる
五月の蝶消えたる虚空修司の忌 新谷ひろし
(「修司忌 5月4日 寺山修司」より)
寺山の命日は五月四日だから、いずれも新緑の季節を詠んでいる。緑や青空といったスコーンと抜けた清新さが詠み込まれているのは、言うまでもなく寺山の作風の反映である。
寺山は高校時代から俳句を始め、すぐに一定のレベルに達してしまった早熟の人である。青森高等学校三年の十七歳の時に創刊した同人句誌「牧羊神」には「母は息もて竈火創るチエホフ忌」の句がある。寺山さんは呆れるほどの俗物で、文名を上げるために有名人との縁を求めて走り回った。そのあまりの俗物ぶりは周囲の人を呆れさせ、「ま、いっか」と許されるというか、これはこれで立派と感心されるほどだった。しかしカンは恐ろしくいいのである。
寺山というチンドン屋文学者の場合、どこまで本気でどこまで戦略だったのかわからない面があるが、この人は戦前や戦中派文学者に果たし状のような拒絶を示すことでデビューのきっかけをつかんだ。今でも若い俳人がよくやるように、俳壇は息苦しい、あんたたちのようなカビ臭い俳句を詠むなんて真っ平だ、という批判姿勢である。その一方で著名俳人たちに取り入ろうとしていたのだから厄介である。あ、今の活きのいい若手俳人もその点は似たようなものか。
よく知られているように、寺山は「チェホフ祭」五十首で第二回短歌研究新人賞を受賞した。俳句に七七足した短歌が多いが完成度は高い。また「チェホフ」を持ち出したのが寺山のカンだ。戦後のガラガラポンの世相に呼応するように、皇国史観に染まって古くさくなった短歌にヨーロッパ文学の明るさと華やかさを持ち込んだのである。「チェホフ祭」巻頭は「マッチするつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」である。こう来たらスネに傷持つ戦中派歌人はぐうの音も出ない。寺山は世相を読む才能もあった。
早稲田の夜急にしぐれぬ漱石忌 松根東洋城
漱石忌余生ひそかにおくりけり 久保田万太郎
赤シャツはざらの世となり漱石忌 井原久子
(「漱石忌 12月9日 夏目漱石」より)
東洋城は漱石の弟子だから、漱石忌日に集った際に詠んだ句だろう。万太郎が漱石と親交があったのかどうかはわからない。ただともに江戸っ子である。漱石も万太郎も華やかな表街道を歩いた人だが、だからこそ「余生ひそかに」という思いも強かったのかもしれない。井原久子さんは現代俳人だから、これはもう批評的な作品である。親交のなかった作家の忌日を詠めばこういった批評意識も当然入ってくる。
賢治忌の枕もとより蝗かな 小原啄葉
田まわりの兄の自転車賢治の忌 森須蘭
星空を汽車で駆け抜け賢治の忌 高砂谷輝子
(「賢治忌 9月21日 宮沢賢治」より)
作家の作品や人生に基づくわけだから、忌日俳句も様々である。盛岡で友人知人だった人たちを除けば、有名文学者で宮沢賢治に会った人はいない。またその人生は基本的に聖人君子的である。立派だが伝記的面白味に欠ける。小原啄葉さんの句は賢治の田舎生活に基づいている。森須蘭さんは農民作家賢治に句を重ね合わせている。高砂谷輝子さんは『銀河鉄道の夜』を詠み込んでいる。賢治忌はどうしても抽象的思念に傾きがちになる。
色町のなくなりてけふ荷風の忌 森澄雄
荷風忌の近き投げ込み寺に来し 高木良多
荷風忌の六区を独り歩みけり 後藤浩己
(「荷風忌 4月30日 永井荷風」より)
荷風といえば下町の色町。パブリックイメージとしての荷風作品の反映である。文名高いにもかかわらず、荷風作品の要所はピンポイントで抑えにくいということでもある。いずれにせよ忌日俳句は当然ながら思考が過去に向かう。失われた何かを哀惜し、現在から見た過去を一つの像として捉えようとする。ただそれは何も忌日俳句だけの特徴ではあるまい。
短歌や自由詩でも悼歌や追悼詩は書かれるが、忌日俳句のような一様式にはなっていない。俳句は過去と相性がいいのである。
月光にいのち死にゆくひとと寝る 橋本多佳子
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
亡き夫顕つごと焚火あたたかし
楡の花夫に寧き日いつまでも 石田あき子
初咲きの曙椿夫見舞ふ
ひとたびは夫帰り来よ曼珠沙華
妻がゐて夜長を言へりそう思ふ 森澄男
木の實のごとき臍もち死なしめき
妻亡くて道に出てをり春の暮
今号では「夫恋の句、妻恋の句~夫、妻を詠んだ俳人たち」の特集も組まれている。たいていの俳人が亡き夫や妻を偲んでいる。つまり過去の一場面やイメージを俳句に定着しようとする。これは俳句では馴染み深い光景だ。
俳句では動きのある句は意外に少ない。虚子「流れゆく大根の葉の早さかな」が秀句として知られる所以である。俳句はある特定場面や思念の不動の造形=像化を最も得意とする表現だ。忌日俳句が一ジャンルとして成立する理由でもある。
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る 中村草田男
虹に謝す妻よりほかに女知らず
空は太初の青さ妻より林檎うく
毛糸編みはじまり妻の黙はじまる 加藤楸邨
疲れ寝の妻の手うごく冬畳
子を呼べば妻が来てをり五月尽
過去形の妻恋句の中で、草田男と楸邨の句は現在形である。俳句は底堅い古典的表現だから、思い切った現代的技法や思想風俗を取り入れた方が目立つ作品になりやすい。しかしそれらはどうしても俳句本来の姿と馴染まず、一過性の新し味で終わってしまう。むしろ草田男や楸邨の句の方が、なんの変哲もないようで学ぶべき点が多い。彼らの句は作家独自の思想と技法がなければ不可能である。
また草田男と楸邨は「人間探求派」と呼ばれながら、相容れない面があった。まあ言ってみれば犬猿の仲だった。しかしその作品には共通した手触りがある。わかり合う点がなければ犬猿の仲にすらなれないということか。
岡野隆
■ 金魚屋の本 ■