特集「句集をつくろう!~俳句の魅力、句集の魅力」が組まれていて、ああそうなるほどねぇと考え込んでしまった。俳句は崇高な表現であると同時に、どうしようもなく俗(低俗を含む)なお遊び文芸でもある。文学として考えれば崇高な面を探求すべきだが、現実はそうもいかない。そんなのついていけないという実作者の方が圧倒的に多い。ただバランスを取るのが難しい。下々を相手にしていれば下々の考え方に染まる。崇高に留まろうとすれば、友だちはもちろん読者も失う。先生先生と慕われるためには、はっきり言えば下々とうまくやってゆく必要がある。
加えて俳句を含む詩の難しさがある。芭蕉「古池」や子規「柿食えば」を雑誌やテレビで引用するたびに一円でも印税を払えば、彼らはそれなりに潤うだろう。しかし当然そんなことは行われない。俳人は名句秀句を詠もうと日々努力しているが、もし生み出せたとしても、それはすぐに日本語表現の貴重な遺産(成果)として一瞬で多くの日本人に共有される。句集を出すのはお金がかかるわけだが、少数の愛好者を除いて購入する者は少ない。たいていの人は口誦しやすい最上の作品を愛玩するだけだ。短歌でも自由詩でもあまり変わらない。詩人の経済はどうやっても厳しい。
茶山は書肆に詩を刻することを許すとき、恥庵(亡弟)の遺稿を附録とすることを条件とした。小原業夫の序にも同じ事が言ってある。「先生曰く、我亡弟信卿の遺稿を刻せんと欲すれども、因循して(ぐずぐずして)未だ果さず。彼若し我の志を成さば、即ち我も亦た彼の乞に従はん、と。書肆喜びて諾す。乃ち斯の集(『黄葉夕陽村舎詩』)遂に上木し、附するに信卿が遺稿を以てす。」大抵詩を刻するものは自ら資を投ずるを例とする。古今東西皆さうである。然るに茶山は条件を附けて刻せしめた。「銭一文もいらず、本仕立御望次第と申候故許し候」と云つてある。其喜は「京師の書肆河南儀平、金を損じて余が詩を刊す。戯れに贈る」の詩にも見えてゐる。
曾て聞く 書賈(出版元)の黠なること(悪賢いこと)比無しと、怪しみ見る 南翁(河南儀平)の特地に痴なるを。伝奇(小説) 出像(絵入り本) 人争ひて購ふに、却て家貲を損じて悪詩を刻す。
小説の善く售れるに比してあるのは妙である。小原も亦云つてゐる。「余嘗て聞けり。袁中郎(明時代後期の詩人)、自ら其の集を刻し、幾ど柳湖荘(袁中郎の別荘)を売却す、と。技を衒ひて售らんことを求むるは、誰昔より然り(昔から同じ)。先生の撰は則ち之と異なり、自ら欲せずして書肆之を乞ひ、之を乞うて已まず。則ち知る 世の斯の集を望むは、翅に余が輩のみならざるを。」誰昔然矣は陳風墓門の章からそつくり取つた句である。爾雅に「誰昔昔也」と云つてある。
(森鷗外「伊澤蘭軒」)
森鷗外が書いているのは、江戸後期の福山藩儒者で漢詩人として聞こえた菅茶山の漢詩集『黄葉夕陽村舎詩』の出版経緯である。「大抵詩を刻するものは自ら資を投ずるを例とする。古今東西皆さうである」とあるように、江戸時代の漢詩集はほぼすべて自費出版だった。短歌(和歌)俳句(俳諧)も変わらない。江戸後期には蕉門の名が高まり各種の俳諧本が刊行(板行)されるようになるが、芭蕉、蕪村ともに生前の本はほぼすべて自費出版である。彼らに家集(自分の作品だけを集めた俳句本)がないのは本を板行するための金を個人では集めにくかったためでもある。
茶山の『黄葉夕陽村舎詩』は例外的に京都の書肆河南儀平の元から企画出版された。今では江戸の詩人といえばすぐに芭蕉蕪村の名前が上がるが、江戸時代に詩人といえば、少なくともインテリ階級にとっては漢詩人を指した。菅茶山はその代表的詩人だった。茶山の元から幕末を代表する思想家、頼山陽が出ている。また同時代に大窪詩仏と菊池五山がおり、こちらは江戸で漢詩(詩壇)ジャーナリズムを始めた。途中で養子が挟まっているので直系ではないが、文藝春秋社創業者の菊池寛の先祖が大窪詩仏である。文化的DNAが受け継がれたのでしょうな。
茶山は自分の詩集が企画出版される喜びを「曾て聞く 書賈の黠なること比無しと、怪しみ見る 南翁の特地に痴なるを」と反語的に書いている。ただ反語では終わらなかった。河南儀平は茶山に相談することなく勝手に詩集を編集して出版してしまいトラブルになった。今も昔も本屋は機を見るに敏で、売れる時に売っておきたかったのである。また鷗外は「小説の善く售れるに比してあるのは妙である」と書いているが、江戸の小説家がものすごく儲けていたわけではない。江戸小説は書肆の原稿買い取りで、いくら売れても作家に印税は入らなかった。稿料で暮らしていたのは滝沢馬琴くらいだろう。異様なほど筆が早く原稿を量産できる作家だったので、なんとか稿料で食べられたのである。
短歌俳句自由詩を問わず、かなりの数の作品集が企画出版されたのは、一九九〇年代くらいまでになりそうだ。明治大正時代の作品集は江戸と同じく自費出版だった。啄木『一握の砂』、朔太郎『月に吠える』、中也『在りし日の歌』、賢治『春と修羅』すべて自費だ。現代の詩集は江戸から大正時代に戻ったと言える。もちろん細々とだが企画出版はされている。しかし二千部も売れたら上々だ。印税などたかが知れている。たいていは三百部ほど刷って、友人知人に献呈しまくればそれで終わりである。
日下野 「海」では会員が句集を出す際は主宰(高橋悦男「海」主宰)が見ますので、私はあくまでパイプ役で口出しはしません。最初から、句集刊行が目的であったり、俳人になろうと思って俳句を始める方は少ないです。でも続けてゆくうち、一冊くらいは句集を出したい、と思うようになるんですね。(中略)ただ、「海」では、句集は同人になって五年経ってから、という暗黙の約束があります。(後略)
大高 「風の道」も同人になってからでないと出せません。(後略)
日下野 ただ、病床のご主人が元気なうちに句集を作り、見せてあげたいとか、そういう方もいらっしゃいます。(中略)そういう時は私も積極的に協力します。出版社の方にも早く作ってあげて! と催促します。(中略)句集というのはこれまで俳句を一生懸命やってきた証、その思いの結実だと思います。(後略)
(大高霧海、日下野仁美、辻村麻乃鼎談「俳句の魅力、句集の魅力」)
九十九パーセントの句集が鼎談で語られているような経緯で自費出版される。それが結社の底支えになり、商業句誌の経済基盤の一角を形作っている。これが俳壇の現実であり良い悪いの問題ではない。一所懸命といっても年に数十句程度詠めば、十年でも句はそれなりに溜まっている。薄い句集にまとめられる。生きがい俳句の俳人たちは多くを望まないので、その分この俳句領域は底堅い。生きがい優先の句を作品として厳しく批評しても仕方がない。「よかったね」で当人も周囲も満足すれば句集刊行の目的は達せられる。決して嫌味ではない。
むしろ多かれ少なかれ俳句を文学として捉え、芭蕉蕪村子規らに比肩し得るような俳句を生みだそうとしている俳人の方が苦しいだろう。苦しさは二通りある。命を削るほど俳句に打ち込んでも俳壇は元より世間一般の評価を得られるとは限らない。経済的恩恵はもっと遠い。プロと自任するなら作品量産は不可欠である。だが句集を出せば出すほど赤字が膨らんでゆくことになる。
この苦境をどう乗り越えるのか。決定打と呼べるような方法はない。ただ文学的評価としても経済的恩恵の面でも、ほぼまったく手応えのない状況に置かれ続けるのは辛い。たまさかジャーナリズムで持ち上げられても、いっときのバブルで終わるのが普通だ。たいていの詩人がどこかで心棒が折れる。「もういいや」になって作品の質が落ちる。耐えるには肉体化した思想が必要だ。「自分はこうしなければ生きていけない」と、ほとんど生理に近い形にまで孤独な思想を肉体化する必要がある。ただ難しい。詩はほんとうに難しい。
岡野隆
■ 金魚屋の本 ■