『どですかでん』(1970年、日)ポスター
監督 黒澤明
胡散臭い夢占の文句に、「夢に色がついているのは想像力が豊かな証拠」などというの目にすることがある。これは実に奇妙な話で、現実世界には色がついているのだから、夢だけが白黒だとすればそちらのほうがよほど豊かな想像力の産物というものであろう。どうもここには、そもそも夢の像というものは曖昧なので、あえて尋ねられると色がついていたかどうか自信がなくなる、というのと、見るものといえば一昔前は映画だったので、白黒の時代には映画からの連想で夢も白黒であると考えがちであったという、いくつかの位相の異なる理由が作用しているものと思われる。
だがそんなふうに考えてみると、映画においては色というものがしばしば画面から遊離しているような気もしてくるのである。これはなにも抽象的な議論ではなく、白黒映画のお気に入りの場面を思い浮かべてみるとなぜだかそこに色がついているようなこともあるし、反対に色つきの映画でも、記憶のなかでは色がさして意味を持たず、事実上モノクロで再現されるようなこともある、という話である。
ましてや黒澤明のように、白黒の時代にもカラーの時代にも作品を送り出している監督の場合にはなおさら混乱を招く。「姿三四郎」(1943年)から「まあだだよ」(1993年)まで、ぴったり半世紀の間にきれいに三十本というのは出来すぎである。実のところカラーはこのうち最後の七本に過ぎないが、黒でもカラーでも重厚な色遣いと濃淡の使い分けに長けていたことに変わりはない。
もっとも黒澤明は、優れた監督というよりも、優れた監督と呼ばなければならない監督、という印象も強い。文学の世界では川端康成があまり批判に晒されない作家であると言われるが、文壇の中枢にいて事実逆らいにくい存在であった川端とは違って、黒澤は存命中にはかなり批判も受けた。もっと器用で世渡りも上手ければ倍の六十本くらいは撮っていただろう。巨匠という肩書きが絶対的になるのは、アカデミー賞をもらった=世界に認められた監督である、というような浅薄な権威づけを頼りに、ろくに作品も見ないまま「黒澤は別格である」というような見方をする世代が増えてからのことであろう。
ただわたしは殺す時に、腰の太刀を使うのですが、あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。なるほど血は流れない、男は立派に生きている、―しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)
芥川龍之介「藪の中」
これは黒澤がヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を獲った「羅生門」(1950年)の主要な原作、芥川龍之介「藪の中」のなかで、嫌疑を受けて詮議された多襄丸が吐く有名な台詞である。「藪の中」は有名な作品というだけでなく、多数の登場人物による複眼的な語りという構造にしても、『今昔物語集』のみならずアンブローズ・ビアースの語り直しでもあるという成立事情にしても、また黒澤によって映画化されているという波及性にしても、文学の授業で取り上げるのにまことに都合のよい作品であり、私も毎年のように取り上げている。
そのたびに気になるのが、上に引用した多襄丸の言葉なのである。窃盗と殺人に相当の美学を持ち、己の快楽に愚直に生き、命さえも惜しまぬ多襄丸が、なぜいきなり国家権力に対して子供じみた嫌味を言い、しかも「皮肉なる微笑」を浮かべるなどという中学生のような真似をするのか。むろんそこには芥川自身の権力に対する反感も表出しているのだろうが、作品の一貫性という意味ではこの台詞は完全に失敗であると私は思う。そして芥川という人物には、どこかその作品と生涯を通じて、一種のナイーブさが漂っていると思うのである。
あらすじに一貫性がないのが本作のミソだが、心情に一貫性がないのは困る
ところがそのナイーブさに、黒澤は見事に共感したらしい。「羅生門」でその台詞が生かされていることはもちろんだが、「赤ひげ」(1965年)でも同様の権力への反感が溢れているし、「影武者」(1980年)に至っては、主題とは何の関係もないのに、冒頭でいきなり同じ趣旨の台詞が披露されるのである。この台詞に集約されるような頑迷さというか、駄々っ子のようなところが、晩年の迷走にもつながっているのだろう。
もともと黒澤映画には冗長な場面が多いが、後期の作品ではとうとう尺の長さに意味がなくなるし、「八月の狂詩曲」(1991年)などを観ると、リチャード・ギアが日米の混血という設定も悪い冗談としか思えないが、内容も社会科見学の域を出ておらず、同時代の凡百の日本映画と選ぶところのない水準にまで質が落ちているのだから、芸術とは残酷なものである。遺作であるという理由で価値を増している「まあだだよ」も、主人公である内田百閒の文章に見られるあの歯切れのよさはどこへやら、面白くもない諧謔にキャスト総出で大笑いを繰り返す、という場面を二時間以上も見せられるのは辛い。
「まだ終わらないのか」「まあだだよ」
しかし明らかな失敗作として語られることも多い「どですかでん」(1970年)などは、なかなかどうして傑作である。
郊外のドヤ街、いやほとんどゴミ処理場といったほうが近いが、六ちゃん(頭師佳孝)は今日もそこで電車を走らせている。電車は六ちゃん自身だから堆積物の間を縫って走ることも造作はない。ぷしゅー、がたん、どですかでん、と六ちゃんが動き出すと、周囲のひと癖もふた癖もある住人たちも電車の乗客のように見えてくる。窃盗、不倫、スワッピングも日常茶飯事のこの界隈では、何もないところに希望を描きながら今日も誰かが死んでゆくのである。
いわゆるグランド・ホテル形式の群像劇や、それを巧みに日本化した内田吐夢の「たそがれ酒場」(1955年)などの系譜に連なるとも見えるが、黒澤自身の「どん底」(1957年)と響き合う部分も多い。また高度経済成長期に例の多い、社会の底辺に対する(ともすると抑圧的な)共感に立脚した作品という意味では、野村芳太郎監督の「白昼堂々」(1968年)などとも共通項が多い。だが「どですかでん」の面白さは、それが永遠のひとこまでしかなく、明日になればまた同じ日が始まることが目に見えているということ、つまり六ちゃんは永遠に電車を走らせ、これからも幸福にも不幸にもならない、ということが明らかな点にあるだろう。
「どですかでん」は黒澤初のカラー作品である。そしてその世界は、まさに子供のぬりえのような色に満ちている。砂埃にまみれた色とりどりの廃棄物はおもちゃ箱のようである。そして真赤な陽が沈むと、緑の肌をした物乞いの親子は、群青の空に黄色い星を眺めながら、いつか暮らすことになる黄金の宮殿を夢想するのだ。まるで初めてクレヨンを買い与えられた子供がためらいもなく世界を染めてゆくように、黒澤はきわめて自由にふるまっている。これは他の黒澤映画にはあまり見られない特徴である。江東区堀江町のゴミ捨て場にセットを組み、一月足らずの間で撮影されたという即興性が、かえって黒澤に自由を与えたものだろう。無意味な長回しをしている時間はないのである。だがこの映画の興行的な失敗は、再び黒澤に軌道修正を強いることになった。
ぬりえの世界の住民たち
もうずいぶん前から、「大人のぬりえ」なるものが定着している。水を差す気は毛頭ないが、制約のなかでの自由な配色に創造性を求めるといえば聞こえはよいが、結局は何事もパッケージ化されていなければ手を出せない現代人にお誂え向きの商品というほかなく、絵心のない大人の自己満足としか映らない。だいたい、こういうものに飛びつくひとに限って、通り一遍の色しか選ばないものである。そういうひとは六ちゃんの電車には乗れないだろうし、それを損だとも思わないのだ。
大野ロベルト
■ 黒澤明監督作品 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■