『ザ・サークル』(2017年、米)ポスター
監督ジェームズ・ポンソルト
派遣社員のメイは水道会社の顧客対応係である。実家暮らしで、父親は多発性硬化症を患っている。家族仲はいい。近所に住む幼馴染のマーサーは大工仕事で身を立てる自然派で、あるいはメイと結ばれるという人生もあったかもしれないがそうはならなかった。食事の約束をするのにメイは「今度メールする」と言う。マーサーは「どうして? ここにいるんだからいま決めればいいのに」と返す。その時点で二人の軌道は重ならないことが運命づけられている。
それに、メイはそれどころではない。友人アニーのコネで、いまをときめくIT企業「ザ・サークル」への転職が決まったのだ。ザ・サークルは米国民の大多数をはじめ世界中に数十億の利用者を持つSNSを運営している。さらにはクレジットカードの一元管理やウェアラブル端末の開発も行い、あらゆる生活の領域と、共同体のあらゆる構成員を、文字通り巨大な「円」でひとつに結ぼうとしているのだ。金曜日になると社長はプレゼンテーションを行い、詰めかけた全社員は社長のつまらない冗談に大笑いしつつ、怒涛のように発表される新技術に総立ちで喝采を送る。
むろん、いくつかの有力IT企業に対するあからさまな当てこすりである
一流企業に職を得た嬉しさからしばし思考停止していたメイだが、会社の理想が裏を返せばプライバシーの放棄であることを覚ってからは警戒心も抱く。社員は最新の商品である超小型カメラ「シー・チェンジ」によって常に追跡されており、夜間や週末もSNSでの活発なやりとりを求められる。世界をかこむ塀をつくることを使命とする社員たちは、まずは自分たちから塀のなかの住人とならねばならない。
ところがある事件をきっかけにメイは急進的な社員となり、進んでプライバシーを放棄する。シー・チェンジを身につけ、さらには身の回りや両親の家にも配置することで、自らの生活を二十四時間、生中継するという実験に立候補するのである。メイの異常なのめり込みように、両親やマーサーは戸惑いを隠せない。だがメイは暴走し、世界中の人々がプライバシーを放棄することに理想を見出す。そうなれば人類の歴史上、はじめて真の民主主義が実現するのではないか……。
本作が提出している主題そのものは、新しいどころかむしろ手垢のついたものである。生活の生中継という現象は名作「トゥルーマン・ショー」(1998年、米)のジム・キャリーによる熱演があるし、現代のコミュニケーションをめぐる物語はこの連載でも取り上げた「ファイト・クラブ」(1999年、米)、「her/世界でひとつの彼女」(2013年、米)や「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」(2015年、米)などによって繰り返し展開されている。また社長役のトム・ハンクスが主演の「王様のためのホログラム」(2016年、米)は、孤独な営業マンが拡張現実の技術を利用した通信機器を砂漠の国に売りにゆくという内容で、言ってみれば「ザ・サークル」とは鏡写しの内容であるから、ハンクスが本作の出演を承諾した理由もその辺りにあるのではないかと考えさせられる。さらにSNSというより具体的な道具立てにしてみても、早い者勝ちの感のある題名を持つ「ソーシャル・ネットワーク」(2010年、米)がその誕生から限界点までを実に無難な形で物語化しているのだ。
ではいまさら「ザ・サークル」のような映画が撮られる必要はどこにあるのだろうか。おそらくそれは、SNSやそれをきっかけとする人間関係、あるいはプライバシーをめぐる議論が、まさに円を描くばかりで停滞していることを揶揄するためなのである。
たとえば二十四時間の生中継と言いながら、メイは眠りにつくときはカメラを切るし、排泄や性行為についても中継する必要はないということが、なぜか前提として共有されているのだ。しかもメイを新時代の模範的市民として礼賛しながらも、その顰みにならう者は一向に登場しないのである。結局はメイひとりを見世物にすることで、メイ以外の人々はプライバシーを固守することに成功しているわけだ。
秘密とは嘘であり、プライバシーとは他人の「知る権利」の侵害である、というメイが作中でこねる理屈は、だからまったく説得力を持たない。「ザ・サークル」の登場人物は全員が偽善者であり、嘘こそが創造の源であるという事実に必死で目を向けまいとする(なお、これについてはリッキー・ジャーヴェイス主演の「ウソから始まる恋と仕事の成功術」(2009年、米)をご覧いただきだい)。つまり、コミュニケーションを円滑にしようとすればするほど、実際には嘘の「濃度」が高くなるわけである。
本作のこのようなメッセージは、あからさまな形では描かれない。しかしメイが両親に向かって(アメリカ人であることを差し引いても)あまりに頻繁に I love you という言葉を発し、両親がどこか不安そうな面持ちでこれに応える場面が随所に挿入されているところなどは、なかなか気の利いた演出である。そしてそれ以上に注目すべきは、全編を通じての画面の暗さであろう。本作には豊かな自然も登場するが、風光明媚なはずの光景はどこか液晶の画面を中継しているかのようによそよそしい(実際、何割かの場面はカメラ越しである)。人物はしばしば影のなかに立ち、表情がはっきりとは読み取れない。主要な登場人物でさえ、ごくわずかに焦点が甘く設定されており、細部まではよく見ることができないのである。コミュニケーションが不可能になりつつある世界では、景色はピンボケなのだ。
カメラ越しの歪んだ、人工的な世界では焦点が合いにくい
もっとも現実世界のSNSはというと、一時の熱狂もどこへやら、それこそプライバシーの脆弱性もすっかり明るみに出つつあり、人間同士の距離を近づけるのと同程度に引き離しもするということが、すでに周知に事実となっている。未だに誤解を引きずっている人も少なくないようだが、SNSは人間のコミュニケーションのあり方を可視化するだけで、本質的に変化させはしないのである。
大野ロベルト
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