『渦』(2000年、カナダ)ポスター
監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ
「渦」(2000年、カナダ)の主人公、ビビアン・シャンパーニュは不愉快な女だ。成功したブティックの経営者といっても、それが有名人である母親の威光によるものであることは誰もが知っている。いや、誰よりも本人がそれを知っているために、ビビアンは謙虚になる代わりに不遜になることを選ぶのだ。
いつも不遜でいることは簡単ではない。ひとつの方法は、決して誰ともつながりを作らないことだ。そうすると人間関係は束の間の快楽によってしか弁証できなくなる。父親もわからない子供を堕胎したばかりのビビアンは、すぐに別の男を引きずり込むが、さすがに術後すぐの肉体は快楽を与えてくれない。それを埋め合わせるように酩酊し、踊り、自動車で男を撥ねる。ところが男の姿はどこにもない。ちょうど堕ろした子供と同じように、彼女に奪われた命はいつの間にかどこかへ流れていってしまうらしい。
こうなると、自暴自棄になったビビアンが自殺を試みることも、それが未遂に終わることも驚くには当たらないだろう。命を見失った者が、自分の命を支配できるとは思えない。ビビアンは死に見放された者として生き続けることを受け入れるが、そこに現れたのは自動車で撥ねた男の息子であった。当然のように、二人は恋に落ちる。
渦に呑まれてゆくビビアン
ビビアンは言ってみればデミウルゴスである。グノーシス派の考えでは、不可知の神のなかには悪の芽もあり、なおかつ神は両性具有的であるとされる。この矛盾した神の下、造物主デミウルゴスはあたかも中絶されたような、間違いだらけの宇宙を造る。そこには永遠を模倣することに失敗したばかりに、時間という厄介なものが流れている。ゆえにグノーシス派は時間に拒絶反応を示すが、彼らは自分たちを一時的に追放された神性の一部であると考えることで地上での生に耐え、帰れるはずもない場所へいつか帰ろうと願いつづけるのである。
映画には、この神話的解釈を正当化するような奇妙な語り手が登場する。粗暴を絵に描いたような魚屋に次々とぶった斬りにされる、深海魚のようなグロテスクきわまる怪魚である。魚はどんどん死ぬが、すぐに俎上に乗る次の魚は、どういうわけか先ほどの魚の意識を引き継いでいる。そしてビビアンの物語とは、他でもないこの魚(たち)の語る「生きる意味」をめぐる物語なのだ。
映画の「語り」を一気に異化する魚=神
だがもちろん、生きる意味など明らかになるはずもない。映画には場面の転換ごとに、不気味な静けさのなかでうねる渦の映像が挿入される。それは紛れもなくビビアンを翻弄する、しかもおそらくビビアン本人によって作られた渦である。やや間延びした、悠長なところのあるカナディアン・フレンチの響きとは裏腹に、その世界の住人は常に緊迫しているように思われる。
わびぬれば身をうき草のねをたえてさそふ水あらばいなむとぞ思ふ
(古今集、雑下、938)
小野小町にこんな歌がある。物憂き現世に泣き疲れ、浮き草のように漂う身は、やすやすと水の流れに誘われてさまよう。別れ話に疲れた女が、誘われるままに新たな恋人に身をまかせる、という世俗的な解釈だけで済ませるには、この歌の諦念はあまりに深い。もっともビビアンの耳には和歌ではなく、トム・ウェイツの詞が繰り返し響く。
Down into the endless blue wine
I’ll open my head and let out
All of my time
I’d love to go drowning
And to stay and to stay
But the ocean doesn’t want me today
限りない青いワインの底
頭をひらいて
すべての時間を吐き出そう
溺れにゆきたい
ずっとそこにずっとそこに
でも海は今日は求めてくれない
監督のドゥニ・ヴィルヌーヴは、すでに取り上げたことのある「複製された男」(2013年、カナダ・西)や「メッセージ」(2016年、米)などに加え、昨年は「ブレードランナー2049」(2017年、米)でも注目を浴びているが、その作品に通底するのはある種の「出口のない」状況である。
「渦」の他にそれがとくに如実に表れているのは、カナダで実際に起こったモントリオール理工科大学での銃乱射事件を扱った「静かなる叫び」(2009年、カナダ)であろう。精神の均衡を失った犯人は、大学で学ぶ女性はすべてフェミニストであり、男性の居場所を奪う存在である、という不可思議な理屈をふりかざし、突如教室で凶行に及ぶ。その教室に居合わせたヴァレリーは、少なくともフェミニストではない。つい数日前にも仕事の面接で、「どうせすぐにやめるんだろう」と嫌味を言われたばかりである。そして銃をふりかざす犯人に咄嗟に従ってしまったジャン=フランソワは、自分の不甲斐なさを恥じながらなんとか状況を打破しようとする。だが主人公三人の思惑は、銃乱射という「出来事」の重さのまえに霞んでしまうのだ。犯人でさえ、自らが作り出した「出口なし」の状況の被害者なのである。
ヴァレリーの眼差しは(そして女優も)どこかビビアンに似ている
「他人は地獄」とまさにサルトルの戯曲「出口なし」の登場人物も言っているが、何しろこの地獄は生きるかぎり続くのだ。死んで目覚めたところで、そこが青いワインの底でない保証は何もない。
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■