『her/世界でひとつの彼女』(2013年、アメリカ)ポスター
監督スパイク・ジョーンズ
現代という時代を定義しようとすれば必ず時代錯誤に陥る。デヴィッド・フィンチャー監督「ファイト・クラブ」(1999年、米)の序盤で、狭い機内に閉じ込められ、出張の途次にある〈僕〉はこう考える。
どこへ旅しても、小さな生活があるだけだ。一杯ぶんの砂糖、一杯ぶんのミルク、一塗りぶんのバター。電子レンジ用コルドン・ブルー定食。コンディショナー入りシャンプー。一回ぶんのマウスウォッシュ。小さな石鹸。飛行機に乗るたびに出会うひとたちは一回ぶんの友達。離陸から着陸まで一緒に過ごして、そして、それだけ。
〈僕〉は雑誌に出ているようなアパートで雑誌に出ているような家具調度に囲まれ、雑誌に出ているような服を選び、つまり「正しい」生活を送っているが、心は一向に満たされない。豊かな生活とは裏腹に貧しい人間関係にあえぎ、孤独を切望しているくせに悲観的になり、他人を拒絶するくせに理解されないと嘆く。〈僕〉はそんな二十世紀末の典型的な青年だ。
購入した商品によって定義されることを望む現代人
だが、ここには留保が必要である。というのもこのような青年は十九世紀末にもいたし二十一世紀にもいる。その意味で「ファイト・クラブ」の描く現代もやはり錯誤を抱えている。しかし錯誤を含めて現代であり、時代を定義するということは錯誤に付き合うこと、錯誤を積み重ねてゆくことに他ならないだろう。
近年ますます同様の錯誤が上書きされるように見えるのは、世界がますます孤独な場所になっているからなのだろうか。「her/世界でひとつの彼女」(2013年、米)と「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」(2015年、米)という親和性の高い二本の映画を観るかぎり、それは錯誤としては精度のよい部類だと思われる。
親和性は物語の内容だけにあるのではない。前者の監督スパイク・ジョーンズは「マルコビッチの穴」(1999年、米)で鮮烈な印象を残した後、「ヒューマン・ネイチャー」(2001年、米・仏)の制作に関わり、さらに「アダプテーション」(2002年、米)の監督や「脳内ニューヨーク」(2008年、米)の制作を務めている。いずれも映画の語り手・主人公・観客との距離感を弄ぶ、冷笑的だが遊び心に溢れた良作である。一方、後者の監督ジャン=マルク・ヴァレはジョーンズより寡作だが、近年「ダラス・バイヤーズ・クラブ」(2013年、米)と「わたしに会うまでの1600キロ」(2014年、米)で立て続けに高い評価を受けている。つまりどちらも、才能ある中堅監督の作品なのである。
主演俳優についても同様だ。前者のホアキン・フェニックスは少年時代こそ実兄リバー・フェニックスの陰に隠れがちであったが、その兄の死を乗り越えた頃から演技は凄みを増している。「8mm」(1998年、米)でも独特の魅力を発揮しているが、近作の「ザ・マスター」(2012年、米)や「教授のおかしな妄想殺人」(2015年、米)では存在感だけで場の空気を圧倒するほどの力量を身につけている。後者のジェイク・ギレンホールも映画関係者の一家の出身で、頼りない優男のような印象が先走るが、すでに「ドニー・ダーコ」(2001年、米)で充分に才能を見せつけている。そして近年の、たとえば「複製された男」(2013年、カナダ)などでの寄る辺なさや底知れない苦悩などの表現の巧みさは、どうにもフェニックスの演技と重なるのだ。
「ザ・マスター」のフェニックス(上)と「複製された男」のギレンホール
さてそろそろ物語に目を向けよう。「her」の主人公セオドアは、近未来のロサンゼルスに暮らしている。心の内を言葉にすることが苦手なひとがますます増えたのを幸い、文才あるセオドアの手紙の代筆屋を職業としている。だが妻との離婚を目前に控えたセオドアも、実は決して人間の心を理解しているわけではない。耳に差し込んだ携帯端末で見知らぬ相手と交歓するという流行の遊びもいまいちしっくり来ないが、新発売の人工知能型OSを試してみるという誘惑には抗しきれない。
女性の声を持つそのOSはサマンサと名乗りはじめる。最初こそ便利な道具に過ぎないと思われたが、未曾有の速度で学習を続けるサマンサはすぐにセオドアの最良の助言者となる。二人が声だけを頼りに恋人関係になるまで、さして時間はかからなかった。しかしあるとき、サマンサは自分は何千ものユーザーと同時に関係を構築しており、恋人も何百人もいるのだと打ち明ける。セオドアは絶望するが、もはや物理的世界を超越するところまで進化したサマンサは、それが二人の絆に影響を与えることはないと諭すのであった。
液晶画面を通して、意識はひたすら内奥へ向かう
「雨の日は会えない」の主人公デイヴィスのほうは、もっと粗暴で厭世的である。ほとんど全編を貫く彼の独白は、自動販売機の顧客相談窓口に宛てられた手紙の言葉として紡がれはじめる。義父の会社に縁故採用され豊かな生活を送っていたデイヴィスは、とつぜんの事故で妻を失う。だが病院で目覚めたデイヴィスはそれを知っても悲しくならない。あるのは空腹感だけである。そこで病院の自動販売機で菓子を買おうとするが商品が出ない。デイヴィスは苦情の手紙を書きはじめる。手紙の内容はすぐに苦情から事故の話に、日常の話に、仕事の話になる。仕事は企業の買収と売却である。中身のない、数字だけの仕事。中身のない毎日。妻は優しい人だった。でも自分は妻を知っていただろうか。
奇妙なことに、こんな嫌がらせのような手紙に返信があった。デイヴィスに興味を持った相談窓口のカレンはあまつさえ彼を尾行し、二人はいつの間にか友人になる。仕事をやめ、身のまわりのものを分解するという新たな奇癖を身につけたデイヴィスは、自宅まで分解しはじめ、寝るところがないのでカレンの家に寝泊まりするようになる。もっとも二人のあいだには静かな言葉があるだけで、肉体関係は気配もない。デイヴィスはやがてカレンの息子で、自分はゲイかもしれないと悩む十五歳のクリスにとっても重要な存在になってゆく。
死んだ妻を通して、自らを理解しようともがく
どちらの映画の場合も、主題は言葉であると言えるだろう。「her」のセオドアの場合には、意味を失っていた言葉という道具に、サマンサという神が再び命を吹き込んでいる。「雨の日は会えない」は、Demolition(解体)という原題が示す通り、妻の死によって暴かれた彼の不安定な自我が、行き場を失った言葉を書きつけるという行為によって浄化されてゆくのである。言葉の容器として手紙が使われる点も両者に共通している。
ところで孤独な二人の男がしばしば派手すぎるほどの暖色に包まれていることには注目してよいだろう。その色は二人の孤独を誇張するが、また同時に、彼らが完全には見放されていないことを示唆しているようでもある。二人の男は困難を乗り越えはするが、幸福になるわけではない。ただ困難が何であったのかを、ほんのすこし理解できるようになるだけである。
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■