五月号には第159回芥川賞を受賞した高橋弘希氏の「送り火」が一挙掲載されている。一挙といっても一六〇枚で、単行本でも一二〇ページ程度だ。純文学の枚数であり、実際「送り火」は書き方的にも内容的にも純文学である。
小説が物語を基盤とし、最大の武器としている文学ジャンルであるのは確かである。読者は物語がどのように進み、どう決着するのかという興味で作品を読み進めてゆく。物語を手放せば作家は作品を量産できなくなり読者も付かない。人とは違うことをしたい、目立ちたいくらいの動機で物語を手放してはいけないのである。読者が作家の中に、どうしても物語が壊れざるを得ない切実な表現テーマを見出し、それに説得されなければ単に前衛モドキの素振りで終わる。
では物語とは何だろう。物語が基本的に、一定の時空間の中で複数の登場人物たちが交わり、事件によってその関係が変わってゆくお話しであるのは言うまでもない。現実世界では狭く単調な人間関係に属し、さしたる事件も起こらない、起こってほしくないと考えている読者は、小説を読むことで喜びや悲しみ、時には恐怖や不快を楽しむ。
この作品と読者の期待は相関的なものである。読者が小説に期待している事柄が一定である以上、作家はそれに応えなければならない。大衆エンターテインメント小説は基本的には読者の期待に応える形で書かれる。どんなに突拍子もなく、驚きに満ちた残酷な事件が起ころうとも、いわゆる落とし所は中庸なものだ。大衆文学では小説大団円の選択肢は狭くならざるを得ない。
では純文学小説の落とし所は大衆文学より広いのだろうか。そうとも言えるしそうでもないとも言える。小説が人間が作り出すものである以上、その落とし所は必ず愛や憎しみ、諦念など限られた概念に収束する。ただこの人間の基本概念にはパブリックな側面とプライベートな側面がある。大衆文学は小説をパブリックな概念に落とすことで多くの読者を獲得する。しかし純文学では極めて特異な欲望や希求をテーマにしてよい。日本では純文学は実質的に私小説の異名だが、〝私独自の思想〟を中心に据えてよいのである。
ただ私独自の思想と言っても、それが一握りの読者にしか理解・共有できないものであるなら異端的マイナー文学である。そういった作品を純文学と呼んでもいいのだが、多くの純文学作家はそれとは違う表現地平を目指す。私固有の特殊な関心事を限界まで掘り下げることで、社会性あるパブリックな認識地平に出るのだ。このいわゆる私小説的認識地平は大衆文学的落とし所を少しだけはみ出している。簡単な作業のようだが実際にはとても難しい。
大衆文学も純文学も、作家がそういった作品を書こうと決意しなければ書けない。書き終えたら純文学でしたという事態はまず起こらないのである。しかし大衆文学だろうと純文学だろうと、小説が描く人間存在の根っこはそう簡単には変わらない。もし純文学小説を書こうと志すなら、今まで世の中になかった新たな思想を探すのではなく、自分は人とどこが違うのか、何が自分固有の執着なのかをはっきり把握するのが近道だということである。
晃の指示で、藤間が無作為に試験管の順番を入れ替える。(中略)
歩の心配をよそに、勝負はあっさりと決まった。稔が蓮華のカスと松のカスでドボンだった。皆から歓声が上がり、稔はいつもの照れたような半笑いを浮かべる。(中略)
稔は試験管立ての上で、右手を右往左往させた後に、端から二番目を選ぶ。と、背後から有無を言わせず、藤間が稔の腕を押さえる。(中略)乳白色の液体が手の脂肪を滑り、次第に皮膚が露わになる。(中略)稔は半笑いを浮かべたままで、苦痛の色は覗えない。皆から歓声が上がった。
「どれがハズレだったんだべな?」
内田は両手に試験管を持ち、液体を見比べながら言う。すると晃は赤い舌を覘かせた後に、
「本当はどれもただの牛乳だべ、だばって硫酸だきゃ。薄めても、稔の手さ骨さなるかもしれね。」
すると皆からは、安堵とも落胆ともつかぬ笑いが起きた。(中略)その和やかな空気の中で、晃は硫酸原液の薬瓶の蓋を開けると、すっくと立ち上がった。(中略)稔の頭上でその薬瓶を傾けてゆく。(中略)溶液は勢いよく周囲へも飛び散り、皆の表情は一瞬で凍り付き、慌ててその場から飛び退く。その大きな輪の中央で、稔は不動のままに顔から液体を滴らせていた。
(高橋弘希「送り火」)
「送り火」の主人公は中学三年生の歩である。父親が転勤族で津軽地方の平川という辺鄙な集落に越してきた。中学だけで三回目の転校とある。直近に住んでいたのは東京杉並区の高層マンションだからかなりの落差だ。転入したのは市立第三中学校で、翌年には廃校になることが決まっていた。歩も高校生になればまた関東に転校だ。歩が転入した三学年のクラスには彼を含めて十二人しかいない。男子は歩、晃、稔、藤間、近野、内田の六人である。
何度も転校を繰り返した経験から、歩はクラス内の力関係を読み取る能力に長けていた。市立第三中学でもすぐに晃がリーダーだと見抜いた。ほかの生徒に関しても、「藤間という、銀縁眼鏡を掛けたのっぽの少年が、この集団の二番手ではないかと思った。近野は比較的に体格が良いが、変声期中なのかよく声が裏返り、そのせいで発言に自信が感じられない。内田は口数が多いが、背が低く痩せっぽちだった」とある。
歩はなんなく男子生徒たちの集団に溶け込んだ。学級委員を決める際に誰も立候補しなかったので晃を推薦した。事実として晃が男子のリーダーだったからである。晃は学級委員になることを承諾したが、歩に副委員長になれと条件を出した。歩は短期間で晃に気に入られたわけだ。ただ晃はいじめっ子でもあった。
晃はなにかというと、第三中学に代々受け継がれている特殊な花札を使って「燕雀」という賭け事をした。負けた者が万引きしたり、自分で金を出してほかの生徒の分のジュースやアイスを買いに行かされるのだ。負けるのは決まって稔だった。歩は晃の手元を観察して、稔が負けるよういかさまをしているのに気づいた。しかし口は出さない。彼は親の転勤で全国の学校に短期滞在する渡り鳥であり、どの共同体にも根っこを持っていない。
晃はある日、燕雀を使ってロシアンルーレットをした。学校の生物準備室から硫酸と試験管を盗み出し、負けた者が硫酸が入っているかもしれない試験管の中身を手にかけるのだ。負けたのはやはり稔だった。見守っていた生徒たちに緊張が走るが、晃は試験管の中身は全部牛乳だと種明かしする。ただ安堵した生徒たちの前で、晃は今度は硫酸原液の瓶の蓋を開け中身を稔の頭にかけた。これもただの砂糖水だったとわかるが陰惨なイジメには違いない。
物語は、読者の興味は、晃のいじめがどこに行き着くのかを焦点に進む。それがこの小説の推進力である。ただ晃のイジメは大衆小説があえて描き出すような読者の心を激しく動揺させる決定的暴力ではない。晃は稔を殴ってケガを負わせ、金額は少ないがカツアゲのようなことをし、硫酸をかけるふりをして恐怖を与える。しかし最後のところ抑制が効いている。
相撲で負けて転んだ際に白線を引くための石灰入れを倒してしまい、石灰で真っ白になってしまった稔を、「なんだおめぇ、乞食みたいじゃねか」とからかった同級生に、晃は「稔のどこが乞食なんだ、ふざけたことば抜かすな!」と食ってかかった。狭い共同体の中では稔はやはり仲間なのだ。またこの小説には別の興味の焦点が設定されている。
「旧家の坊ちゃんも、もうすぐ舟子の年齢になるっきゃさ。坊ちゃんの晴れ姿ば見らごとできたら、オラもう思い残すことねじゃ。」
舟子とは漁船の船頭のことだろうか、いずれにせよこの土地から海までは相当な距離がある。しかし老婆が勝手に自分を誰かと勘違いしていることが面白く、また腹の中の甘酒のぬくみも手伝って、聞き覚えのある方言を並べて、適当にのせられてみた。
「わっきゃもう坊ちゃんじゃね、大人だじゃ。皆のために立派に舟子ば務めてみせらね。」
すると老婆は火箸を手にしたままぴたりと静止し、その瞳は明らかに潤み始めた。適当に口にした言葉が、何かの的を射てしまったようで、気まずくなり、歩は残りのマシュマロを慌てて口へ詰めると、そそくさと老婆の家をあとにした。
(同)
歩の家の近くに茅葺きの民家があった。教科書でしか見ないような古い家で無人だと思っていたが、老婆が一人住んでいた。挨拶をするようになると、老婆は家に上がっておやつをたべていけと誘った。老婆はなぜか歩を「旧家の坊ちゃん」と呼び、「舟子」になるのが楽しみだと言った。少しボケているのか、老婆には意味のある言葉なのかはわからない。ただこの作品には、東北地方にたくさん残っている、古い民族学的習俗が取り入れられている。舟子は大人になるための通過儀礼儀式らしい。歩は利口な少年でそれに気づいている。「わっきゃもう坊ちゃんじゃね、大人だじゃ」と短期間で覚えた土地の言葉で老婆に答えた。
また歩は田んぼのあぜ道で円塚を見つけて立ち止まった。たまたま仕事していた農夫が声をかけてきて、「その辺はたまに言葉漂ってらはんで、気ぃつけ」と言った。歩が「それは言葉のお化けみたいなものですか?」と答えると、農夫は目を丸くして「かみの子は賢いねぇ、と笑った」とある。中学生だが歩は多少の民族学的知識を持つ都会の少年である。
ただ小説は民族学を援用した怪異譚や幻想譚には進まない。そうしたければ最初からある書き方採用していなければならず、この小説のリアリズム的な書き方では不可能だ。またイジメが小説最大の焦点になることもない。簡単に言ってしまえばそれが純文学だからだ。イジメを小説のテーマに据えれば落とし所は限られる。子供たちの残酷を描いたのちにヒューマニズムでまとめるか、最後まで絶望で押し通すのかのどちらかである。
しかし私純文学はありきたりな落とし所を嫌う。それが純文学のアイデンティティである。イジメと民族学という読者をひっぱる興味の焦点は設定されているが、それらを統合した形で、なおかつ既成概念ではないところに小説を落とす必要がある。
目と鼻の先には、血液に汚れて鈍く光る円盤状の刃がある。晃の身代わりになって殺されるなんて馬鹿げている。次の一打は、歩の耳のすぐ横に突き刺さった。乾いた口腔内でどうにか唾液を飲むと、稔を押し退けて叫んだ。
「僕は晃じゃない! 晃ならとっくに森の外へ逃げてるんだよ!」
稔は腫れ上がった瞼の奥の、細長い白目の中で瞳を動かし、
「わだっきゃ最初っから、おめぇが一番ムガついでだじゃ!」
(同)
卒業間近になった歩たち六人は、第三中学卒業生の青年たちに森に呼び出される。「おめえら第三最後の卒業生だ。なんたかたマストンさなって貰いて」と言われ、無理矢理強要される。マストンはかつて第三中学で行われていた遊び、というよりイジメだ。「演者は後ろ手に縛られた状態で球に乗り、右へ三メートル、左へ三メートル移動した後に、三回廻って、××マストン、と名乗る」まで許してもらえない。後ろ手に縛られたまま球から落ちると受け身ができず、演者は地面に叩きつけられ血まみれになってしまう。それを見て囃し立て、残酷な球乗りをいつまでも笑い楽しむリンチである。
燕雀で演者となったのはまたしても稔だった。果たして稔は血まみれになり、前歯を折るまで青年たちに小突かれ球乗りをさせられる。しかしふとした弾みに縄が解け、稔は隠し持っていた刃物で青年たちに切りかかったのだった。メチャクチャに刃物を振り回す稔はなぜか歩の方に向かってきた。クラスリーダーで稔をイジメていた晃は幼い子供のように泣き出し、叫びながら森から逃げてしまっていた。自分を晃だと間違えていると思った歩は「僕は晃じゃない!」と言うが、稔は「わだっきゃ最初っから、おめぇが一番ムガついでだじゃ!」と答える。稔の怒りの矛先は間違いなく歩に向けられていた。
この大団円は「送り火」という小説のテーマが〝自己処罰〟にあることを示唆している。思想的に読み解けばそうなる。歩は頭はいいかもしれないが、どこか狡い。どの学校に転校してもイジメられのけ者にされないよう、そそくさと力関係を読み取って自分の立ち位置を見つける。家族にとっても優等生だ。父が歩には反抗期がないねと話すと、歩は「今は半数の子供にしか反抗期はこないって、前の学校の先生が言っていたよ。反抗期がくる子供は、年々減ってるんだって」と答えた。
しかし歩はそんな自分に不満と虚偽を感じている。小説全体を通して歩は消極的な少年だ。学級副委員長というポジションに表れているように、矢面に立つことなく権力の側にいて、降りかかる火の粉を避ける。自分から能動的に行動できない歩の優等生ぶりは、弱く脆い自我意識の鎧のようなものなのだ。歩は稔に刃を向けられることで、初めていつか来るとはずだと怖れていた他者の厳しい視線に、自分の中の虚偽と狡さに直面することになる。
青年たちに強要されるマストンという遊び(リンチ)は、老婆が言った「舟子」とどこかでつながっているのかもしれない。大人になるための通過儀礼だということだ。イジメと民族学は、かろうじて最終テーマと繋がっているわけだ。ではイジメと民族学で読者を引っ張り、最後は自己処罰に落とし所を見出したこの作品は成功しているのだろうか。
成功しているとも失敗しているとも言えないと思う。なるほど「送り火」という作品は、基本的には文芸五誌の新人賞を受賞し、プロ作家と認知された新人作家の中の新人賞である芥川賞を受賞するだけの完成度を持っている。純文学的要件も満たしている。ただ本質的テーマが自己処罰だと作家がはっきり認識しているなら、別のプロットの立て方があっただろう。高橋弘希氏は戦争や自傷行為を題材にした小説も書いているが、表向きに立てられている社会的テーマに切迫感がない。思想の追いつめ方が甘いのではなかろうか。
言いにくいが芥川賞というカンバンがなければ「送り火」のようなタイプの小説は売れにくいと思う。一昔前の作家は純文学でデビューしても、中間小説と呼ばれたジャンルにシフトしていった。小説で飯を食おうとすれば当然だ。また胸躍る物語であってもそこに作家独自の思想があるなら、大衆文学と純文学という現世的区分は意味をなさない。プロットで楽しませる小説でも純文学になり得る。まだ朧かもしれないが高橋氏は思想的核を持った作家である。その気になればいろいろなタイプの小説を書けるだろう。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■