文芸誌にはしばしばネットメディアへの批判や懐疑が掲載される。「ネットでは読めない○○」といった特集などは、紙媒体なのだからそりゃそうでしょうと苦笑するほかないが、ネットで発表すると作品の質が落ちるといった主張には首を傾げざるを得ない。一九九〇年代にワープロが普及し始めた時はまだ原稿は手書きが主流だったが、手書きでなければいい作品は書けないという論調がけっこうあった。今でもときおりそういった主張がある。作家がそんな主張をするのはわからないでもないが、メディアが賛同することではないと思う。
総合格闘技ではボクシングやキックボクシング、柔術、レスリング、プロレス、果ては相撲取りまで様々なファイターがリングに登場する。格闘家としてそれぞれ高いプライドを持つファイターたちだから、「プロレス最強!」とか主張したりする。実際にそうなのかは別として、自分の仕事にプライドを持つのは基本的にいいことだ。いまだに手書きで原稿を書いている作家は、手書きでなくっちゃいい原稿は書けないと思っていて当然なのだ。ただメディアがそんな主張の尻馬に乗っても仕方がない。
あらゆるリアルな商品と同様、文学システムの外郭は昔も今も変わっていない。生産者がいて流通があり消費者がいる。ただ真ん中の流通が大きく変わり始めている。宅配で自宅に商品が届くネット流通は今後さらに伸びることはあっても萎むことはない。音楽業界ではダウンロードができるようになって、レコード店が恐ろしいほどの勢いで消滅したのは衆知の通りである。大きな街に何でも揃う実店舗が一つあればいいのであり、中小実店舗は特定ジャンルの専門店になり始めている。同じようなことが出版界でも起きるだろう。生鮮食料品と同じで足の短い情報誌は町の書店やキヨスク・コンビニで入手するのが一番だが、内容がある程度把握できる息の長い本はネットで購入する方が楽だ。前提として情報の開示が必要になるが、紙媒体よりネットの方がアドバンテージがある。
また新たな流通は国境を越え始めている。一昔前は航空便でも入手するのに一ヶ月以上かかった洋書が、早ければ一週間ほどで手元に宅配されるようになった。送料も昔に比べれば格段に安い。ネットによるニーズの掘り起こしが流通を変えたのだ。それは日本ドメスティックな版元の意識をもじょじょに変えてゆくだろう。日本語が読める人はまだ世界では少ないが、英語人口は多い。世界が市場になるなら、日本語の本を英訳して日本の出版社がネットで売る道筋も当然出て来る。特に純文学は初版二、三千部売れればよいという世界だ。英訳にコストがかかるにせよ、世界市場で国内の倍本が売れれば商売として十分成り立つ。もちろん翻訳の質が問題になるが、よほど凝った文章でない限り商品レベルにまで高められるだろう。座布団敷いて、英語圏の誰かが本を訳してくれるのを待つ必要がなくなるのだ。
言い添えておけば、ネットが素晴らしいと手放しで絶賛しているわけではない。ただ新しいテクノロジーは否応なくわたしたちの生活を変えてゆく。それに対応して新しいスキームを生み出してゆく必要がある。ネットというかデジタル・メディアは今後ますます複雑に進化してゆくわけだから、それに呼応してわたしたちの精神もアップデートしなければならないということである。なぜ紙の本や雑誌なのかも問い直されるだろう。漠然とであれネットを敵視する前にやらなければならないことはいくらでもある。
この反対に過剰にネットやデジタル・メディアの将来をバラ色に夢見るのも危険である。新しさは常に相対的なのだ。次の新しさが現れればすぐに色あせる。デジタル・ベンダーによるネット文芸誌や電子書籍が今ひとつうまくいかない理由である。テクノロジーの新しさは内容であれ読者への購買訴求力であれ、そのままでは文学の新たなウリにならない。人間の行為の基本は簡単には変わらない。文学で言えば作家が優れた作品を書き、読者がそれを享受するのが基本中の基本だ。この原則が守られれば中間がどんなに変わってもビジネスとして成り立つ。作品発表と流通システムが大きく変わりつつある時期には、変化に対して徒に反感を抱くのではなく、むしろ原理原則を見つめ直す必要があるということである。
同窓会の開かれる土曜の昼、陽太は珍しく頭痛と目眩を感じたが、家にいてもつまらないので薬をのんで出かけることにした。引き出しを開けると買ったつもりのない頭痛薬が入っていたので、舟子に電話して、どんな副作用のある薬なのか一応確かめてから飲もうと思ったが、携帯電話の調子が悪く、舟子の名前をプッシュしても反応がない。(中略)やっと正しい番号にかけられたかと思うと、「この電話番号は現在使われていません」という機械の音が聞こえた。やっぱり数字をどこかで押し間違えたのだろう。舟子に電話するのは諦めて、真っ白な錠剤を一粒、コップの水で飲み、同窓会にでかけた。
(多和田葉子「文通」)
多和田葉子氏「文通」の主人公は四十一歳の独身男・陽太である。陽太には舟子という娘を持つ恋人がいる。舟子は優れた記憶力を持つ女性だ。「鉛筆で字を書くことで記憶は刻まれる。それが彼女の記憶術だった」とある。書くことで記憶は生まれ保たれるということだ。ある土曜に陽太は同窓会に出かけようとするが、頭痛がして薬を飲むことにする。なんでも記憶している舟子にいちおう薬の副作用を確かめようとするが、どうやっても電話がつながらない。
「文通」というタイトルにあるように、この小説は主人公陽太と他者との交流を描いた作品である。それも〝文章による交流〟が焦点である。ただ舟子にかけた電話が、ケータイの登録を押しても電話帳を開いて数字をプッシュしてもつながらないように、ディスコミュニケーションがテーマである。小説の冒頭だけでそれは読み取れる。なぜディスコミュニケーションが起こるのかがこの作品のアポリアであり、本質的テーマ(のはず)だということである。
核輝君は自分が酒や車の話しかできないビジネスマンになったと思われたくないのか、「そのカクテルは流行っているのか」という陽太の質問は無視して、「俺も高校の時は実はセリーヌとかを読んでいたんだぜ」と唐突に言い出した。(中略)「会社の・・・修理で・・・爆破・・・ランボー(あるいは「乱暴」)・・・制裁(あるいは「正妻」)・・・クレジット・・・・ル・クレジオ・・・軍備・・・タレント・・・レンタル(中略)云々」と核輝君のおしゃべりは尽きない。そのうち暑くなったのか上着をざばっと脱いだ。(中略)陽太の目はボタンに釘付けになった。そうだ、僕は高校生の頃からそうだった。目の前に立った人間を丸ごととらえることができなくて、ホクロとかボタンとかシミしか見えなくなって、つながりのない細部から細部へと視線が目移りする。これらの部品をうまく組み合わせたら一人の人間ができるんだろうか。
(同)
同窓会で陽太は同窓生たちと次々におしゃべりする。その描写は基本的にブレーンストーミングである。「核輝君」が「カクテル君」であるのは言うまでもない。核輝が話す言葉も意味とイメージがズレてゆく。「文通」はリアリズム小説ではないということだ。リアリズム小説では基本的に一つの意味しか伝えない言葉から裏の意味を探り、言葉の背後にある話者の欲動や意図を読み取る。「文通」という小説で日常コミュニケーションに必要な一義的意味が揺らいでいる以上、「細部」を「うまく組み合わせ」て日常とは違う新たな全体像を模索する方向に進むのは当然のことだ。日常的文脈から微妙にズレる個々の言葉から全体を模索するという意味で、「文通」は一種の言語小説だということである。
隣にすぐ浮子が来て、「本当にあなたが書いたんじゃないの」と訊いてきた。「違うに決まっているだろう。一体どんなことが書いてあったんだい。」「舟子さんというひとには娘さんが一人いるとか、舟子さんは何でも知っている人(中略)とか。でもね、その人、あなたの妄想に過ぎないんじゃない? 実際にはいないんでしょう、そんな人。なんとなく、あなたのフィクションのにおいがするんだけど、違う?」(中略)「つくったんじゃない。舟子は実際に存在する。ターメリックとかシナモンとかそういうディテールがちゃんとあるじゃないか。」「それじゃあ、手紙を書いたことは認めるのね。」「手紙なんか一通も書いてない。」
(同)
小説の大団円である。陽太には高校時代に文通していた従姉妹の浮子がいた。親戚以上、恋人未満の女の子だった。浮子は早く実家から出たいという希望もあって、陽太に強い好意を寄せてきた。陽太もそれに応じてしまう。ただ家が遠かったので、二人の交際とも言えない交際は文通を通したものだった。浮子は恋人らしく会いたい、結婚したい、いっしょに暮らしたいと書き送ってきたが、そんな決心がつかない陽太はもっともらしい嘘(フィクション)を書き送って浮子の情熱をはぐらかし続けたのだった。
その浮子が同窓会の二次会の店に偶然来ていた。「久しぶり」と声をかけてくる。浮子は陽太からたくさん手紙をもらったと言うが、陽太は書いた覚えがない。言い争ううちに、浮子は陽太が手紙で書き送った(らしい)「その人(舟子のこと)、あなたの妄想に過ぎないんじゃない? 実際にはいないんでしょう」と言い放つ。「浮子」と「舟子」が一体であるのは明らかだ。言葉は海の上に浮いている舟のように頼りない。彼女らを作り出したのは陽太だとは言えるが、舟子の記憶を頼みに生活し、浮子に秘密を暴かれている以上、陽太は自分で書いた文字(フィクション)と現実との間で宙ぶらりんになった存在である。
また浮子との文通が絶えたのは、彼女の愛の要求が重くなった陽太が、輪田という男の同級生のことが好きだと書き送ったからだった。しかしこの過去については、「という筋の小説を書いて陽太は全国学生小説コンクールの恋愛小説部門に応募し、佳作に入った」ともある。浮子との文通話しもフィクションの可能性がある。
さらに輪田も同窓会に来ていたのだが、陽太はなかなか名前を思い出せない。ようやく思い出すと、「「輪田」と陽太は大声で叫んだ。店内が瞬時しんとなり、まわりの人たちが一斉に陽太の方を見たが、輪田の姿はすでにそこにはなかった」とある。ここまで作品を入れ子構造にしてしまうと、もう収拾はつかない。収拾がつかない理由は、作家に明確な思想がないからである。輪田の名前は円を描いて小説を最初に引き戻してしまう符牒だということだ。〝輪を描く〟。単純なオチだ。もちろん直前まで話していた浮子も店から消えている。
多和田氏は詩人としても知られるが、〝詩的〟と〝詩〟の境目を捉え切れていないように思う。なるほど彼女の小説には詩的アトモスフィア(雰囲気)が溢れている。しかし優れた詩にあるような直観がない。言葉遊びが言葉遊びのままで終わってしまっている。純文学作品としてはきっちり成立しているが、要するに絶望が足りない。
言葉も現実も信じ切れないというのは一つの認識であり、作品の強力なテーマになり得る。しかしそこに切迫した絶望(思想)がなければ作品は本当の強さを持ち得ない。一番の問題は、小説は詩的アトモスフィアで良いという手慣れがずいぶん前からこの作家には見られることである。詩的アトモスフィアで良いならいつまでたっても変化のない、弛緩したカフカのような作品を書き続けることになる。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■