一条さやかは姉で刑事のあやかのたってのお願いで、渋谷のラブホテル街のど真ん中にある種山教授の家を訪ねる。そこはラブホテル風の建物だが奇妙な博物館で、種山教授は奇妙に高い知性の持ち主で、さやかは姉が担当する奇妙な事件に巻き込まれ・・・。
純文学からホラー小説、文明批評も手がけるマルチジャンル作家による、かる~くて重いラノベ小説!
by 遠藤徹
(四)象の耳(中編)
そうなのだ。わたしの姉貴ときたら、利用できるだけわたしを利用しようっていう魂胆見え見えなのだ。昨日だって、
「あのね、お姉ちゃん。突然だけどタイに行ってくるわ」
ってわたしが切り出した時だって、
「あっ、そう」
って、スマホいじりながら興味なさげにやり過ごそうとするから、
「えっ、なにそれ。なにが、『あっ、そう』よ。阿蘇に行くんじゃないんだよ。タイだよ、タイ。それもあの」
種山氏といっしょっすよ、と言おうとしたのを遮って、
「先生と一緒なんでしょ?」
ときた。先生っていうか、むしろ〝もじゃ〟ですけどね、とわたしは若干言葉の響きに違和感を感じつつうなずいた。
「じゃあ、いいじゃない。なんの心配もないわ。『あっ、そう』が最適の受け答えだとわたしは思いますけどね」
「ねえ」
思い切って聞いてみた。
「どうして、お姉ちゃんはそんなにあのもじゃ、じゃなくって先生を信頼してるわけ?」
「そりゃあ」
って、姉は口元に手を当ててくすりと笑った。
「ずいぶん助けていただいたからよ」
「事件がらみで?」
「そうよ、たとえば」
で始まった話は確かにすごいものだった。この世にこんな天才がテレビや映画のなか以外に存在するのかという驚きを与えるに充分なものだった。
そして、旅費だといって幾ばくかのお金を手渡してくれた。
「おおっ、こりゃあ」
さすがは姉貴。どうでもいいような顔しながら、ちゃんと気い使ってくれてんじゃん。と感謝めいた気持ちをいだいたのがそもそもの過ち。
「ちゃんと領収書取ってくるのよ。お土産もいっぱい買っておいで。適当に用途でっちあげて申請しとくし」
って、あれですか。公費ですか。国民の血税ってやつですか。もしかしてあれじゃないっすよね。自分が行ったことにしてとか、そういう魂胆じゃあ。
「とにかくあれよ。種山先生の足手まといにだけはならないようにね」
ふふふっと笑う姉であった。
そしてわたしは見たのだ。
姉のスマホに、二泊三日美食&エステの旅へようこそ! という表示が出ているのを。間違いなかった。あの女は、わたしに働かせて、その間、ひとり休暇としゃれこむ魂胆でいやがったのだ。
そんな悔し涙な回想を遮って、
「そうですか」
種山もまた、なんの感慨もないといった感じであっけなく事態を受け止めるのであった。だめだ、この世界にわたしの味方なんていないんだ。ひとりぼっちなんだわたしは。うえーん、と泣こうかと思ったのだったが、状況がそれを許さなかった。それでは、とシャンパン・グラスを持ち上げて、まずは乾杯と促してきたからだ。これはまあ、乗らない手はないわなってわけで、チャラーンとグラスをぶつけたりするうちに、憤懣がなんだったのかを忘れてしまった。
「実り多き旅を祈念して」
軽く口に含むと弾ける芳香。うわっ、これかなりうまかったりするんですけど。どうしましょう。
「ではまず第一問です」
「はい」
「誰なんですか?」
「って誰がです?」
当惑した種山がもじゃもじゃ頭に指を突っ込んでもじゃもじゃするさまをひとしきり楽しんだ後、
「先生のことですよ。種山龍宏という人物がです」
と切り出す。
「わたし、ですか」
「ええ、だって先生ってわけがわからないじゃないですか。姉は先生のことを、大学教授だと言ってました。それなのに訪ねていけといわれたのは、渋谷のあんなところだったんです」
「つまり、ラブホテルで博物館開いてることですか、あるいは円山町でということでしょうか、それともこのすばらしいわが」
秘技、快刀乱麻!
説明しよう。たったいま、わたしは、快刀乱麻の鋭さで、種山のセリフを途中で切り裂き、中断させたのである。
「どれかというわけではありません。そのすべてですよ。さあ、教えてください。あなたはいったい何者なんですか?」
「わたしは、種山龍宏です」
「それはわかってます。では、ご職業は?」
「明応大学の大学院教授をやっています」
な、なんとおっ、とわたしは胸の内でのけぞった。
「明応、ですか」
「ええ、そうですけど、それがなにか?」
明応といえば、だれでも知っている私学の雄である。このもじゃもじゃがそんなところで教えているとは驚きだった。そして、わたしの親友、いやいや知人の一人に加えてやってもいいと思わないでもない雪枝とかいう女の彼氏がたしか、その明応であったような、あれ、それとも実験動物だったっけか・・・。
「何を教えておられるんですか?」
「大学院の横断的汎知学系というところで」
「横断歩道でパンチ?」
「ええ、文理、さらには基礎と応用、実学と芸術、その他のあらゆる境目を越えた新しい知のあり方を模索する方法論の探求、およびその方法論の実践といった」
秘技、快刀乱麻! 再び。
「ああ、そうでしたか。よくわかりました」
「ほんとうに? まだほとんど説明していませんが」
「いいんです。いずれにせよ、というかどう転んだってわたしには関係ない世界ですから」
「いや、そういわずに少し聞いてもらえませんかね。せっかくお尋ねいただいたんだし。わたしの持論を展開させてもらいたいんですけど」
うう、しつこい。そして押しが強い。そして眼が怖い。つぶらな瞳が、わたしをじぃぃぃぃぃっと見つめている。話した~い、話した~い、話した~い、話したああい、そんな叫びがボレロのようにボリュームを上げながらあふれ出してくる。どこからって、その瞳からだ。だめだ、かなわない。
「わかりました。ではわかりやすく、かつ手短におねがいします。そうですね、小学生に聞かせているつもりで」
「承知しました」
こほんと咳払いをひとつして、種山が語り始め、同時に、わたしの後悔も始まった。なんで、許しちゃったかなあ、ほんとまずった。
「現代の〈知〉の現状をあなたはどう思われますか」
「〈知〉とおっしゃられても」
わたしには、そういう親戚はいないような気がするんですけど。
「あまりにも専門化しすぎ、分化しすぎているとは思われませんか」
だから、なんでわたしにそんなことを問いかけるかなあ。わたしは純粋にのほほんとたるみきった典型的な日本の女子大生なんですよ。のびのびですよ。のびきった餅ですよわたしの脳味噌は。ねえ、もうやめません、この話題?
「対するに近代以前の学問はどうだったでしょう」
「さあ」
まったくわかりまセンザンコウとなって戸惑うわたし。あれ、ところでセンザンコウってどんな動物だっけ。
そんな<知>の難民なわたしを見るに見かねたのか、種山が頭をもじゃらせたまま助け船を出してくれた。
「わかりやすい例をいくつか出しましょうか」
「お願いします」
「サイエンス、ってなんですか」
「科学じゃないですか」
それなら分かる。でも、種山はにっこりとほほ笑んだ。わが意を得たりという奴だ。
「いまはそうですね。でも、語源的にはもっと広いんですよ。ギリシャ語のスケーレ(scere)という言葉が元になっていて、これは〈知る〉という意味の動詞でした。つまり、何かを知ろうとすること、あるいは〈知〉の全体がサイエンスだったのです。実際、十八世紀の終わりまでサイエンスという言葉は、学問全般を指していたんですよ」
「へえ」
なるほど単語にも歴史があるのか、とわたしは初めて気がついた。
「ですから、当時の学者は、理系とか文系とかいう区別を知らなかった。ゲーテがそのよい例です。彼は、ドイツロマン派の代表選手としてすぐれた詩や小説をものしただけでなく、人体解剖学、植物学、地質学、光学などに関する論文をも同時に書いていたのです」
「ああ、ダ・ヴィンチみたいな感じですね」
そういうのは聞いたことあるぞ。ルネッサンス的なんちゃらっていうやつじゃなかったっけ。
「そうそう。彼もまた芸術家にして科学者という二つの顔を無理なく共存させていましたね。イギリスのレオナルドという異称で呼ばれたロバート・フックという人もいました。彼は、自然哲学者であり」
「ん、自然哲学?なんですか、それ」
「そうですね、その頃は化学とか、物理とかいった分類がまだなかったから、自然というか身の回りの世界について思索したり研究したりすることを広くくくって自然哲学って呼んだわけです。実際、哲学的な側面、神学や倫理学のような側面も含んでいたんですよ」
「つまり、未分化?」
「そう、祝福すべき未分化とぼくなんかは考えますけどね」
どうやら、種山は未分化礼賛者であるようだった。
「そうそう、フックの話でしたよね」
「ええ」
「だから、フックは、自然哲学者でした。たとえばバネにぶら下げた重りの重さと、バネの伸びの関係が正比例することをつきとめたし、顕微鏡でミクロの世界を探求した人でもあったんです。生物の最小単位に細胞という名を与えたのも彼だった。でも、同時に博物学者であり、また建築家でもあったんです」
「なるほど」
確かになんか凄い。
「でもね」
ノッている。実に楽しそうだ。スノボかサーフィンをやってる若者のようにはしゃいで喋る種山は、ちょっとかわいくも見えた。もちろん、ほんの一瞬だし、ぜったい眼の錯覚だけど。
「ぼくが極め付けっていうか〈知〉の理想的な形態だと思うのは、錬金術なんですよ」
「錬金術?」
ずいぶん古めかしいものを引き合いにだすなあと、わたしは思った。
「なんか、インチキくさいあれですよね」
「ええ、錬金術ってのは、アルケミーといって、後の化学の語源にもなった言葉なんですけどね。この錬金術ってのはほんとうにすごかったんですよ」
「どこがです」
「総合〈知〉という部分がですよ。いいですか、、錬金術というのは表面上は、卑金属を化学的な手法で変性させて、貴金属にかえることを目指す学問というか実践ですよね」
「ああ、そうだったんですね」
「でも、本当は、西洋社会では異教の伝統につらなる日陰の哲学や宗教とつながっていた。ですから、その隠された知を伝えるのに、彼らは象徴や寓意を用いたのです。奇妙な図形や絵画、あるいは意味不明な警句や詩というかたちでね」
ああこういうの苦手。象徴とか寓意とかモー、わけわかんない。牛になっちゃう。
「それを、読み解くためには専用の知識が必要になる。でも、読み解けた時には一つの絵が饒舌な意味であふれるのです。そして、同時にこれはシュールレアリスムを先取りする芸術でもあった。また、『上のものは下にあり、下のものは上にある』というエメラルド板の言葉や、有名な『哲学者の卵』などといった表現は、後の象徴主義の詩を先取りするものだともいえる」
「ふんふん」
わかったわかった、とにかくすごいっと、そう思うことにいたしましょう。
「つまり、錬金術は、科学であり哲学であり、同時に思想であり哲学であった。また同時に芸術でさえあったと、こういうわけです。わたしは、このような《知》の再構築をこそ願ってやまないというわけなのです」
ぱちぱちぱち。わたしは拍手した。種山の話に感銘をうけたからではもちろんなく、ようやく長講釈が終わった事に対してであった。
「大変よくわかりました。すばらしい志ですね。どうぞ理想の実現に向けて頑張ってください。ところで、第二問です。ちなみに先生はおいくつですか?」
ちょっと唐突だったか? 種山は面食らったようだった。
「えーと、確か」
眉を寄せて、頭をもじゃる種山。おいおい、面食らったにしても時間かかりすぎじゃない? どうしてそこで不確かになるんだよ。自分の年でしょうが。
「三十五だったと思いますね」
若干自信なさげにそう答えた。
「三十五?」
わたしはしげしげと、そしてつぶさに、さらには疑いの眼でもって種山の顔をもう一度じっと見た。見つめた。凝視した。ふうむ、なるほど、これは若い顔だったのか。確かにまだ皺もなく、肌の艶もいい。髪の毛ももじゃってはいるが、キューティクルが傷んでいるようには見えないしな。
でも、疑問がわき起こった。暗室でわらわらと芽生えるもやしの群れのように。
「その年で、教授なんですか?」
「ええ、まあ」
いったいどうやってこんな人が、この年で、しかも明応の、それも大学院の教授なんだか。世の中ほんと不可解なことだらけだ。
「では、第三問です」
「はい」
「では、そんな大学の先生であるお方が、どうしてあんなところで、あんな得体のしれない博物館を開いておられるわけですか」
「よくぞ聞いてくれました」
この質問をこそ、彼は待っていたのだという食いつきの良さだった。お気をつけなさいな、先生。魚だったら、あっという間に釣りあげられているところですよ。
「さきほどの理想の〈知〉の実現ですよ。そのためにわたしがやりたかったことは、あの大航海時代に世界の各地から寄せ集められた文物を分類整理せんとして始まった博物学と時を同じくして、まずはイタリアの貴族たちが開設した諸物展示室に端を発し、十六世紀以降ドイツで王侯貴族、さらには学者や文人たちをも巻き込む形で発達したところの・・・」
秘技、快刀乱麻!
いらん、わからんそんな御託は!
「手短にお願いいたします!」
「だから、自然物・人工物の間に境目を設けることなく、ぼくたちの『当たり前』を打ち砕き、眠っていた思考力、感性、想像力さらには創造力をも解き放つきっかけとなる『驚異』を一堂に介することがぼくの夢だったわけですよ」
驚異ですか。むしろ、脅威でしたよ、わたしにとっては。ちなみに、わたしの胸囲は秘密です。あ、聞かれてないか。
「つまり、趣味ってことですか」
「ええ、ありていにいえば道楽です」
「でもなぜ、あんな場所に?」
「たまたま安く手に入る物件が、彼の地にあったからですよ。最初から小さな部屋に分かたれていて使い勝手も良かったし、管理システムも完璧だった。クリーニングだってこれまでこのホテルに入ってた業者にそのまま入ってもらってるくらいです」
「それにしても」
学者として、あるいは博物館のオーナーとしてでもいいけど、あんな場所でほんとうにいいと思っているのだろうか?
(第12回 了)
* 『ムネモシュネの地図』は毎月13日に更新されます。
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* 『ムネモシュネの地図』は毎月13日に更新されます。
■ 遠藤徹さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■