新年号にずらりと作品が並ぶのは詩誌の特徴である。当たり前だが小説ではこうはいかない。詩は出来不出来は別にして、書こうと思えば一定数を比較的簡単に書くことができる。特に短歌・俳句はそうだ。この二つの日本伝統詩は、形式が作品を書かせている面が確実にある。多作によって作家性が露わになるのである。その意味で寡作な作家はなんらかの問題を抱えている。
文学は内容と形式の相関関係で構成されるので、書きたい内容があっても形式を把握していなければ多作は不可能である。その逆もまた真だが、短歌俳句で寡作になってしまうのは、作家が短歌・俳句形式に対する確信(断念と言ってもいい)を持ちきれていないことを示唆している。作家はどこかの時点で内容と形式の関係に折り合いをつけなければならない。それは基本的に、比較的自由な内容・形式である小説や自由詩でも同じである。書き悩むということは、内容ではなく形式把握能力に問題があることが多いのである。
では多作するとどうなるのか。短歌俳句の場合は偏差が露わになる。広大なダーツの面に無数の矢を突き刺してゆくようなものだ。刺さった矢の粗密によって作家性が自ずから露わになる。そしてこの偏差は作家の生が終わらない限り他者が俯瞰して把握することができない。生きている作家は様々な作品を書いているように見えるのが普通だ。
ただ優れた作家には必ず偏差が、偏愛がある。作家自身が生きたまま、その偏りを俯瞰して捉えられるようになればプロ作家だと言える。自らの死後の生をも捉えられるような冷たい視線が作家には求められるのだ。文学者は言葉の人であり、言葉は人間の生より長生きするからである。
今号では特集「投稿欄選者新春競詠 雑詠」が組まれている。俳句界に限らず歌誌・句誌は投稿に力を入れていて、入選作を集めた別冊が添付されるのも珍しくない。それだけ投稿数が多いわけで、選ぶ方も大変だ。特集は投稿欄選者の新春詠を集めたものである。役得と言えばそれまでだが、毎月数千句を読み選評を書くのは大変である。ほんとうにささやかな役得であり、後進を育てようという使命感がなければなかなかできない。またどんな俳人でも結社誌や商業誌の投稿欄で腕試しをして、じょじょに自己の表現を確立してゆくのが普通だろう。
長江を越えてにはかに春近し
萬葉の世の朝粥や春の雪
白鳳の銀天平の金雪降れり
有馬朗人「福達磨」連作より
有馬氏は構えの大きな句を好む作家である。引用句にも「長江」「萬葉」「白鳳」と、場所と時代は違うが文学的奥行きのある言葉が使われている。比較的俳風がはっきりしている(はっきりしてきたと言うべきか)俳人なので、有馬氏が選者の時はうんと大きな構えの句が選ばれやすいかもしれない。ただ選者におもねっていたのでは独自の作風を確立できないでしょうね。
秋日和草津の出湯に癒されて
石蕗の黄を灯し虚子館人集ふ
散るといふ山茶花終の大舞台
稲畑廣太郎「季節を跨ぐ旅」連作より
稲畑氏は言うまでもなく歴史ある「ホトトギス」主宰である。しかし有季定型のホトトギス的規範を平気で逸脱したりする。基本的にスコーンと抜けたような爽やかな句が多い。あまり句作で迷った気配がない。山茶花散ってもそれは滅びではなく、晴れ舞台というところが稲畑氏らしい。
山路ゆく冬木のことば聞くごとく
岩肌の落葉かき分け水奔る
蛇穴に入りて寺宝の白蛇座す
大串章「歯塚」連作より
大串氏の句は端正だが、自然の微細な現象がお好きなようだ。山路に入り込み、葉かき分け、蛇穴に入ってゆく。俳句だから行き着いた先で、見るか聞くかどちらかの体験をする。あるいはそれを擬人的に表現する。稲畑氏よりもホトトギス的な句かもしれない。
スーパーのまん中に居て風邪心地
養生や冬の雀は元気なり
太箸や遠方の山ありありと
大牧広「緑・白」連作より
新年詠では日常を詠んでおられるが、大牧氏は社会性意識の強い作家だ。人事に興味があり、社会の中での孤独にも敏感だ。「太箸」と「遠方の山」を併置するなど、無理があるようでいていかにも大牧氏らしい。
元日や三毛猫つつがなく老いて
まもるべきちちはは持たず三日かな
目も口もどこかに忘れ福笑
櫂未知子「すぐ」連作より
櫂氏は今最も勢いのある俳人かもしれない。櫂氏の俳句の特徴は自在さにある。ささやかな日常からどうしようもない無情や絶望まで、さらりと詠む。それでいて俳句の骨格はしっかりしていて黙読しても音読しても無理がない。文字表記も繊細で、父母はやはり「ちちはは」でなければならないだろう。
かりがねや月の窓辺に父の椅子
秋のこゑ父の書棚にある日暮
われを待つ月の駅あり源義忌
角川春樹「月の駅」連作より
春樹氏は、もうだいぶ前から彼にとっての切実な死者を詠むようになっている。その意味で歌人の福島泰樹氏の作風に通じるところがある。氏の表現の中心になっているのは源義氏で、一種のファザコン表現から死者の持つ力に接近しようとしているところがある。死者は絶対だから、春樹氏の作品はある絶対の境地を求めているのかもしれない。
身の先の湯の香失せたるとき湯冷め
飲み余す薬に暮れの風邪の癒ゆ
あぎとまで悴みをれば黙深し
古賀雪江「師走」連作より
古賀氏の俳句は平明に見えて意外なほど屈折が多い。「薬に・暮れの・風邪の・癒ゆ」と叩き込むようなリズム感もあり、テクニシャンである。難解に見える句でも平明に読み解き、平明な句でもその深みを感受できる作家である。
詩を書かむ真水とくとく初硯
ちよろぎは逃ぐる性らし箸逃ぐる
大拙の無心の一書読始
田島和生「詩を書かむ」連作より
田島氏の句は平明だがいつも魅力がある。これはなんなのだろう。意外と自己顕示欲の薄い作家なのかもしれない。「大拙」や「無心」といった言葉を並べると嫌味になりかねないが、田島氏にはそれがない。本当にそんな心持ちで読書始めをするんだなと思う。
暑き日や文覚像は目をむいて
夕立やそこに文覚てふ男
蠅歩むステンドクラス青深く
辻桃子「萩原碌山」連作より
辻氏は言うまでもなく「童子」主宰。だいぶ前からだがテーマを設定した作品が多い。今回は文覚のようだ。作風は端正、言うことなし。ということは、なにやら言いたくなるような作風でもあるということか。
滝の上の羊の王は眠らない
滝の上の羊の角は星のゆりかご
十字架を知らない滝の上の子羊
夏石番矢「滝の上の羊」連作より
夏石氏の俳句はよくわからない。新年詠でも「羊の王」が出てきてすぐに聖書を想起させるが、「十字架を知らない滝の上の子羊」とあっさりはぐらかされる。「羊の王」は夏石氏のことか。虐められているけど王様。むしろ王様の自己主張が強いか。そんなところかもしれない。
皿蕎麦をかさね綿虫増やしけり
身の芯の時雨じめりの旅にあり
膝に書く旅信へ冬日つづれ織
山尾玉藻「鸛鶴」連作より
山尾氏も屈折の多い句を書くテクニシャンである。「綿虫増やしけり」「時雨じめりの」「冬日つづれ織」という句には熟考の跡があると思う。描写を重層させて複雑な心理を描くのに長けておられる。
せりなずなはたととまどうほとけのざ
大年の太平洋が見たくなり
行く年のしっぽの先の花結び
岸本マチ子「冬景色」連作より
岸本氏の句はすっきりしている。平仮名の「せりなずなはたととまどうほとけのざ」など岸本氏らしい。すっぱりとした性格の方なのだろう、言い切って余韻のある句だ。
新年詠といっても何も特別なことはない。プロの俳人は俳句を詠み続け、ダメな句は詠み捨ててやがて一冊の句集にまとめてゆく。投稿して選ばれるのは最初のステップだが、句集をまとめるには投句とは比較にならないステップを上がらなければならない。二冊、三冊と句集が重なればさらに句作は困難になる。ダーツの面に刺さった矢が作家の偏差を表し、それが財産になると同時に表現の軛にもなる。そのジレンマを超えるには作家が変わり続けるしかない。変わり続けるとは、うんざりするほど作品を書き続けるということである。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■