文学者の団体として一番規模が大きいのは日本文藝家協会である。長いあいだ社団法人だったが平成二十三年から公益社団法人になった。小説家、劇作家、評論家、詩人を問わず、会員の推薦があれば文学者なら誰でも加入できる団体である。初代会長は文藝春秋社創業社主の菊池寛で、現在の理事長は出久根達郎さんである。
日本文藝家協会の特徴は単なる親睦団体ではなく、実利的に機能していることにある。加入した文学者は希望すれば国民健康保険に加入できるし、これも希望すれば会員用の共同墓地に入ることもできる。物故作家の著作権管理を始め、入試などに使用する文学テキストの著作権管理、引用などで発生する著作権のガイド、あるいは文学者の無料法律相談なども行っている。文学者の現実的な福利厚生をサポートし、文学著作権保護を目的として様々な外部組織と折衝を行う業界団体でもある。
公益社団法人だが、日本文藝家協会がオフィスを構えるのは東京紀尾井町の文藝春秋ビル新館五階である。これはまー実に微妙なところで、文藝春秋社と関係がないかというと、うーんうーん、です。日に陰に文藝家協会にお世話になっている文学者は多いわけで、それが文藝春秋ビル内にあることは、影響皆無とは言えない面がある。保険とかの問題は切実ですからねぇ。あ、文藝家協会が補助してくれる健康診断もあります。
これは暗黙の了解としか言いようがないのだが、日本の小説文壇は文藝春秋社を中心に回っている。芥川賞と直木賞が文壇頂点の賞であり、一般社会で最も知られた賞であるのは言うまでもない。「文學界」や「オール讀物」以外の文芸誌に掲載された作品や、文藝春秋社以外の版元から出版された本が芥川・直木賞の候補になると、担当編集者と作家が固唾を飲んで他社の賞である芥川・直木賞の発表を待つという光景が繰り広げられたりする。
特に純文学作品の場合、芥川賞でも受賞しなければ本が売れないし、作家も一般社会で作家として認められない面がある。それは文藝春秋社の純文学小説誌「文學界」と大衆文芸誌「オール讀物」が長年の努力で築き上げてきた権威には違いないのだが、文藝家協会とまったくリンクしていないかというと、そうでもないよーな。
あ、芥川・直木賞も正確に言うと公益財団法人日本文学振興会が出している賞です。この財団法人の所在地も文藝春秋ビル内ですね。実質的に文藝家協会や日本文学振興会(芥川賞・直木賞)は文藝春秋社の延長線上にあるわけで、文藝春秋社の意向がこれも日に陰に反映される。まーもし自分が同じ立場だったらそうなりますよね。完全透明公平無私な組織なんて世界のどこを探したってありゃしません。
実際問題、文学者の中でも、特に純文学系の作家は文筆では食えない。それを補完するシステムはいろいろあるわけで、地方出身の作家だと、芥川賞受賞後に○○地方文学記念館の館長さんになったり、大学の先生に呼ばれたりする。文藝春秋ビル内にある社団・財団法人もその補完システムの一環としてあり、様々な役職があるわけです。スタッフはいるが、理事など表に出る役職は文学者の中から選ばれる。ん~文藝春秋社には楯突けないですなぁ。
もちろんこんなことを書くのは、文藝家協会や日本文学振興会(芥川賞・直木賞)が利権の巣窟だと言いたいからではない。世の中そんなもんだと言いたいわけです。どこに行ったってちょっとやそっとでは動かしがたい歴史がある。またどんな組織にも功罪があり、社会的貢献の方が大きければそれで良しということでもある。
ただ現代は情報化社会であり、従来よりもさらに情報公開が求められる。またどんな組織でも、それを始めた際の最初の理念は変えられない。文学者の団体も賞も原理原則は文学の発展のためにある。文学の発展という目的に沿って筋が通っていれば、誰も文句を言ったり批判したりしないのである。
で、本題。今号では創刊65周年記念特集「戦後俳壇100年に向けて」が組まれている。座談会「俳句のいまとこれから」が組まれていて宮坂静生、大串章、西村和子、津島康子、野口る理さんが参加しておられる。宮坂さんは現代俳句協会の会長で、大串章さんは俳人協会の会長である。
現代俳句協会は昭和二十二年(一九四七年)に石田波郷、西東三鬼らによって設立されたが、運営方針の対立などから昭和三十六年(一九六一年)に中村草田男らが中心になって新たに俳人協会が設立された。俳句の二大団体の現会長を中心に、設立と分裂の経緯を検証した座談会である。
大串 (前略)三十六年の現代俳句協会賞の選考会を、石原八束さんは「喧嘩みたいだった」とおっしゃっていました。石原さんは現代俳句協会で、草田男、秋櫻子、林火は俳人協会のほうに分かれた。その原因は、赤尾兜子の第一句集『蛇』(昭34)を推す人と石川桂郎を推す人に分かれたこと。俳人協会を立てたほうは、俳句は有季定型だという考えが強かったが、赤尾兜子の『蛇』には無季俳句がたくさんあったんです。その年の現代俳句協会賞(第九回)は赤尾兜子の句集『蛇』が受賞しました。(中略)
八束さんは有季か無季かについては触れたくなかった。ただ、後にいろんな人に聞いたことによると、有季か無季かはかなり議論の対象になったそうですね。
宮坂 そのことに関しては、(角川)『俳句』の同じ号に中村草田男と金子兜太の往復書簡が出ています。これはどうも角川源義が仕組んだというか。兜太さんが強く赤尾兜子を推したので、中心人物とみられた兜太さんにその立場を短時間で書かせた。それを中村草田男に回し、反論を書いてもらい、さらにまた兜太さんに回すということの議論に展開しました。その中で、いま大串さんが言われた有季、無季ということがかなり大きく問題になっている。(後略)
大串 同じ号の往復書簡で草田男が倍以上書いたのは非常に印象的で、繰り返し季語のこととか、いろいろ書いて、最後に「私は終生を賭けて護りつづけてゆく」とありました。
西村 このことで草田男は精神的にすごく参ってしまったと、お嬢さんの中村弓子さんがずっと後までおっしゃっていますね。
(座談会「俳句のいまとこれから」宮坂静生、大串章、西村和子、津島康子、野口る理)
有名な話だが、第九回現代俳句協会賞受賞の赤尾兜子句集『蛇』を巡って選考委員の間で対立と亀裂が深まり、中村草田男を中心とした俳人協会の分裂になった。またその余波で、当時は社会性俳句の旗手で前衛とみなされていた金子兜太と草田男の間で季語を巡る論争が起こった。兜太-草田男論争を読めばそれぞれに言い分があり、俳句文学にとって重要なことも述べられているのだが、今になるとなぜ協会分裂に至るような決定的対立となったのかはわかりにくい。草田男のことだから、誰とは言わないが、かなり乱暴に人間を見切ったことが分裂につながったのかもしれない。
ただ現代俳句協会と俳人協会の分裂騒動の背後に、時代の大きなうねりがあったのは確かだろう。宮坂さんは「現代俳句協会から俳人協会が分裂した背景には、一九六〇年のいわゆる「六〇年安保」の後、俳壇全体が保守的な傾向になってきたこと、つまり有季定型の重視があったんじゃないか。戦後の俳壇は、(昭和)二十年代の山口誓子の俳句の根源探求、三十年代は、まず俳句の社会性への取り組みであり、造形俳句論が出て、前衛俳句が論じられた。四十年代になって古典への伝統回帰が始まる。昭和三十五年六月十九日に日米安保条約の改定が自然成立しましたね。あの後、急速に世の中全体が保守的になってきます」とおっしゃっている。
俳壇勢力争いという面もあっただろうが、現代俳句協会と俳人協会の分裂契機は季語を巡る議論として白熱し、その背景には社会全体の保守化傾向があったということだ。この分裂騒動では保守派とみなされた草田男が、有季定型墨守のつまらない花鳥諷詠俳人で終わらなかったのは言うまでもない。また前衛とされた金子兜太がずっと前衛であり続けたのかというと、これも違うだろう。ただ協会分裂は、勃発当時は原則として文学の問題だった。それが将来に引き継ぐべき一番大事な遺産である。
今草田男や兜太と同じくらい、俳人たちが熱くなれる俳句のアポリアがあるのかというと、心もとない。前衛の時代は終わり、有季定型の保守的作家の中からも、頭抜けた作家は現れてこない。会員が減り続けている協会や団体の維持を云々する前に、俳人たちの多くが関心を持つ思考と実践パラダイムを喚起する必要があるだろう。目先の新しさではなく、じっくりと俳句文学の原理を問い直さなければ俳句の世界は泡立たないかもしれない。
岡野隆
■ 宮坂静生さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■