「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
『ジーザスさん』その1
KJのいいとこは、太っていることにあった。
他に何か優れている点があるってわけじゃなかったけど、とりあえず彼はどんなこともそこそこ上手くやり遂げることができた。
何より、彼は太っていた。
だからよかった。
彼は皆既日食のたびに女の子を口説くことに決めた。今まで女の子を口説いた経験なんて1度もなかった。
KJは最初の女の子に「もっと上手く口説きなよ」と言われた。
それから毎年、彼は結局その「最初の女の子」にアタックを続けた。
口説き方はちっとも上手くならなかった。
彼は自分のいる世界では、皆既日食は毎年のように訪れるということに勝手に決めることにした。場合によっては、それは幸せなことだったのかもしれない。
KJは「最初の女の子」に挨拶した。
彼はそのとき、120キロあるかないかくらいの目方だった。
彼女はKJを一目見て、嫌そうな顔ひとつ見せずに(実際にどうだったかはわからないけど)、彼の目の奥の奥のほう、頭の中を覗き込むかのようにして笑いながら「よろしく」と言った。そんな反応をしてくれる女の子はKJにとってたぶん初めてだ。
目を白黒させながら彼女に頭をぺこりと下げた彼は、後で僕にこっそりと耳打ちした。
「あの子、趣味はボランティアかな」
「たぶんちがうよ」
「少なくとも相当な変わり者だぜ、俺、自信ないよ」
「何の?」
「うまくやっていく自信さ」
心配ないよ、と僕は返した。
あの子もお前も良い奴なだけだよ。良い奴は少ない、だから変わり者に見えるだけだよ。
僕の言葉で少しだけ安心したKJは、それでもおっかなびっくりという具合に彼女に近づいて、趣味について尋ねた。
「レシートを集めてるの」
「なんで」
「有名人の伝記を読むより、知らない人の歴史のほうがおもしろいから」
歴史?
レシートが?
彼女はうなずいた。
KJは僕のほうを振り返る。
(やっぱり、この子おかしいよ)
僕にはKJの目がそう言っているように見えたけど、気のせいだと思うことにした。世の中には気のせいにして済ませたほうが上手く物事が運ぶときだってある。大人になって僕が学んだことだ。
「最初の女の子」は、KJにいくつかのお気に入りのレシートを楽しそうに見せびらかしていた。薄い歴史書を前にしたKJの困惑した表情が、僕には愉快だった。
「もっと上手く口説きなよ」
2人に背中を向けたとき、僕の背後で女の子の声がした。
*
KJはシャツのボタンを止めることができない。
重すぎるのだ。もしくはシャツが軽すぎるのだ。
重さと軽さ。
いつだって問題はそこにあるように思える。
筋肉を付けすぎた自転車ロードレーサーが、山を以前と同じ速度で登れなくなるのだって重さが原因だ。彼は別に自転車ロードレーサーではないけれど、重すぎる身体については当然のように理解していた。
重さと軽さ。
駅前のスーパーのショッピングカートに1枚のレシートが巻き付いていた。風に吹かれてここにたどり着いたのかもしれない。
拾ってそれを読む。
ブリの切り身、2分の1カット白菜、1.5リットル入り炭酸水を3本。
そこに書かれていたのは見ず知らずの人の生活の名残りであるとともに、ある種の歴史書に近いとも言える。風に飛ばされて消えてしまうほどの、軽すぎる歴史書だ。
でもその軽さは、軽いからこその価値があると思う。
世界が大きなスーパーマーケットだとしよう。
僕らは各々が自分のショッピングカートを持って、始終何かを漁っている。必要だと思えばカートの中に入れて、不要だと思うものは売り飛ばすためにやっぱりカートの中に入れる。本を読むヒマなんてありはしない。もしも道ばたで寝ようものなら、大事な自分のショッピングカートを誰かに盗まれてしまうかもしれない。
その世界ではショッピングカートがすべてだ。
だから僕らは買った品や売った品の情報が記載されたレシートを、やっぱり道ばたに捨てる。そこに自分の生きた歴史を残す。大量のレシートは溢れて、車の通る隙間もない。ショッピングカートを押す程度の道幅しかない。
僕らはただひたすらレシートを捨て続けて、意味があるのかないのかもわからない歴史を誰かに読んでもらいたいと願って、でもたぶんそれは誰にも読まれないだろうとも想像する。
ふー。
KJは大きく息を吐いてショッピングカートを押した。
重さと軽さ。
それこそが問題だった。
*
夜と軟膏は相性がいい。
そこには何のつながりもないから、いい。
何のつながりもない2つのものが結ばれているとこが、いい。
2つの間にある橋の原材料は言語ではなく、ましてや亜鉛メッキ鋼でもない。それ以外の何かであり、それはなんていうか、KJと「最初の女の子」の間にある何かと、イコールで結ばれるような気がした。
そんな気がしただけだから、僕の気のせいかもしれない。もちろん、ここは僕の社会勉強の成果を発揮する場面で、そっとしておくに限る。
僕はショッピングカートの必要ない世界で生きていたい。
*
星型ドライバー、というものがあるらしい。
とてもすてきだ。
それはたぶん星々の歪みを直すような、そんな道具にちがいない。
近所にある名前のわからない店(不思議だけど、そういうお店は確かに存在する)のレシートにそれが書かれていた。値段は300円だった。他には軍手を2組、合計締めて525円だ。それだけあれば、星の歪みを直すことができるのだろうかと考えると、とてもすてきだ。
よく見ると、レシートの隅っこに「ジーザスさん」と書かれている。ひょっとして、これが店名だろうか。もしくはこのレシートの本来の持ち主の名前だろうか。
わざわざレシートに自分の名前を書き残す人なんているとは思えないけど、そんなの所詮自分のものさしでしかない。
こういうときは自分に都合のいい展開にもっていくに限る。
たぶん、ジーザスさんは星を直すための修理道具をこのお店で買って、ただ納税に関しては意識が薄いからレシートを手放してしまったのだと思うことにする。
とてもすてきだ。
納税を気にしない星の修理屋、というところが特に好きだ。
*
ジーザス。
自分を呼ぶ声が聞こえて後ろを振り返ると、彼の同僚が笑顔でそこに立っていた。ヘルプに来てくれたらしい。
「順調か」
「ああ」
宇宙空間でも会話はできる。
会話はできるし息だって吸える。
ひとつ、やってはいけないことがあるとすれば、それは接続詞をつけて会話をすることだった。ここでの作業中に接続詞を使うことは厳禁とされている。
ジーザスは慎重に星型ドライバーを回して、月の表面にいくつかあるうちのひとつのネジを外す。
「慎重だな」
「ああ」
頬をひとすじの汗が垂れる。ここでは地球にいるときと変わりなく汗も垂れる。
「もうすこし雑に片付けてもいいんじゃないか」
同僚の提案に彼は首を振る。
もしかしたら、この月の位置によって、地球上にあるひとつの恋が左右されてしまうかもしれないじゃないか。
同僚は笑った。
「仮にそうだとしても、その恋が成就すれば良いのか悪いのかすら、俺たちにはわからない」
そのとおりだ。彼にできることがあるとすれば、月にはあるべき位置にいてもらうことだけだ。
この世界に「〜たら」「〜れば」は通用しない。
すべてはあるべき位置に。
よし。
「もっと上手く口説きなよ」
誰かの声が聞こえた気がしたけど、きっと気のせいだ。
つづく
『ジーザスさん』その2
KJは世界の中心を目指して、ショッピングカートを押していた。
汗は体全体から噴き出すものだから、シャツの色を濃くして元の色を忘れさせた。
カートの中にはサコッシュと呼ばれる携帯食料袋と、飲み水の入ったボトルが何本か入っている以外には、何冊ものクリアファイルが積み重ねられているのみだ。下手にバランスを崩せば崩れ落ちそうなそのファイルの山は、カートの揺れになんとか耐えている状況ではあるものの、押し手の器用な力配分によってなんとか崩れずにその高さを保持していた。こういうとこにKJの器用さは表れる。
彼はとにかく急いでいた。手を休めて額に流れる汗をふく間も惜しいとでもいうかのように、流れるままの汗と一緒にかつ慎重にショッピングカートを押して、やがて広い横断歩道に出くわした。歩行者用の信号機が青になるまで、ようやくつかのまの休息を得ることができたKJは、カートの中からボトルをひとつ取り出して水分を補給した。
「あんた、ずいぶん急いでるね」
横にはKJと同じくカートを携えた女の子がいた。
彼女は本来であればKJの「2番目の女の子」になるはずだった女の子だったけれど、そんなことKJが知る由もなかった。
「中心に、はあ、行かなきゃならないんです、はあ」(彼はそのとき、はじめて自分の息が乱れていることを知った)。
そりゃ難儀だよ、と女の子は顔をしかめた。
「なんでわざわざそんな遠くまで行かなきゃならないかな。そんなとこ行ったって良い物資があるわけでもない。スーパーマーケットの中心に行って、あんたは良い想いをしたことがあるのならば別だけどね」
その通りだ、とKJは思った。
「2番目の女の子」の言うことはとても正しい。けどKJに行かなければならない理由があることもまた然りだった。
「来るはずの皆既日食が、まだ来ないんです」
「え」
「僕は皆既日食を待っているんです。もう来てもいい頃なのに、ぜんぜん来ない。それが来ないと僕は」
僕は。
口をつぐんだ彼を前に、彼女は「何か理由があるんだね」と同情の声をかけながら、彼のカートの中に入っている荷物を眺めた。水と食料以外に大量のクリアファイル、そのファイルの中にはそれこそ大量のレシートが収められていることを彼女は知らなかった。
「皆既日食が来ないっていうことは、何かがおかしくなってるはずなんです」
「で、中心に行けばそのおかしな何かが判明すると」
「はい」
中心。
果たしてこの世界にそんなものがあるのだろうか、と「2番目の女の子」は考えた。あるようには思えなかった。
スーパーマーケットに中心はないし、どの棚もある意味では中心だ。
目の前の身体の大きな彼がそのことに気づいているようには見えなかったけど、かといってただの通行人であるはずの自分の考えを押しつけるには、彼は真剣すぎるようにも思えた。
「よくわからないけど、うまくいくことを祈ってるよ」
ありがとう、と言ってKJはボトルを自分のカートの中に戻した。
信号機が青に変わった。
2番目の女の子は、自分が2番目の女の子だということをとうとう知ることもなく、KJと別れた。KJは重さと軽さの問題に加えて、中心という概念とも向き合うようになっていた。
「最初の女の子」について考える時間は、次第に減っていった。
*
山椒魚はすてきだ。
魯山人の文献によると、お腹を切って開けば山椒の香りが家中に立ちこめたらしい。なんでも深い山奥のきれいな水辺に住む山椒魚であれば、そんな風になるとか。
山椒魚自体を見たことはないし、そういえばテレビとかネット上でも見たことはない。もっというと、見ようしたことがなかった。今も別に改めて調べようとかそういう気になったわけではないけど、お腹をさばいた後にするであろう山椒の香りは1度味わってみたい。
そういえば最近、KJと会っていない。
彼は今、何をしているのだろうか。
僕が言うことではないのかもしれないけど、彼は少しものを考えすぎる癖があるような気がする。世の中にはびこる全ての問題に対してケリをつけるべきだというような姿勢が見てとれる。あまり想像したくはないけど、彼のお腹をさばいてみたらどんな匂いがするのだろうか。
太ったKJ。
今も太ったままでいてくれているだろうか。
*
家のポストが壊れた。
わたしはこの日を待っていた。
星型ドライバーを道具箱の中から取り出して、そのドライバーでネジを回す。星型の穴が空いているポストを固定するネジが緩む。
うーんすばらしい。
わざわざ家のポストを取り付けてあるネジを星型にしてくれと業者さんに頼んた成果が、今出た。星型ドライバーを例の(たぶん)「ジーザスさん」で買ったはいいものの、家中のどこを探しても星型のネジ穴がなかったので、仕方なく外部に発注することにしたのだ。
ものというものは、必要だから存在するわけでは決してないことを、わたしは自分の経験で知ることができた。星型ドライバーはわたしの人生を少しだけ厚くしてくれたということだ。
ポストの修理が終わる頃、郵便物が届いた。
使い古された1冊のクリアファイルだった。
「なんだろう」
身に覚えがないけど、とりあえず中を開いてみると、そこにはたくさんの、そしていろいろな種類のレシートが挟まっていた。
「なんだろう」
もう一度、建前としてつぶやいたけどわたしにはそれが何かわかっていた。
それはKJがわたしのために集めてくれた、たくさんの歴史書だ。
隙間がないほどレシートで埋められた1冊のファイルからは、なんていうか、手慣れた感じが伝わってきた。そういう種類の温もりがファイルの汚れ加減と、埋め尽くされ具合にはあった。
KJの友人に、わたしは電話をすることにした。
*
異常なし。
ジーザスは月の点検を終えて、地球へ帰還する船に乗り込んだ。
先に乗船していた同僚が「お疲れ」と声をかけてきた。
「しばらくは月に来ることもなさそうだ」
「そうだな」
同僚は指定の座席で地球の雑誌を読んでいた。今年の秋流行するファッションを先取りコーデ、という見出しが目に入った。
ジーザスは地球にいる誰かしらのことを想ってみた。
ファッションについて頭を悩ませたり、フォークボールを打つための練習をしたり、山椒魚を食べたり、銃を磨いたりしている誰かしらがいる。
そいつらにとって俺たちは存在していないも同然なのかもしれない。
いや、もしかしたら本当に、俺たちは存在していないのかもしれない。
「ジーザス」
同僚がいつの間にか、雑誌から顔をあげてこっちを見ていた。
「気にするなよ」
彼はジーザスの心の中を読み取るようにして言った。
ジーザスはうなずいて、自分も座席に深く腰を落とした。
その座席はそう、なんていうか、ショッピングカートの形をしていた。
*
「なんて言えばいいか」
KJの友人に電話をして太った人の安否をたずねたところ、歯切れの悪い言葉がかえってきた。
「わたしのところに1冊だけ、レシートを保管したファイルが送られてきたの」
あいつらしい、と電話口の向こう側にいる人は言った。
彼はしばらく連絡の途絶えたKJを探して、そしてKJらしき人物を見つけることには成功したらしい。
「らしき?」
「うん、KJはその、KJじゃなくなってたんだ。ずいぶんと前より、痩せてた。見た感じ、あれは60キロもないと思う」
嘘だ。
あの人が痩せるなんて、だいいちそんなの、なんだかKJらしくないではないか。
「僕もそう思う。それに顔つきはKJなんだけど、僕らのことも覚えてないみたいだった。話しかけても首を傾げるばかりで」
嘘だ。
だってあの人はわたしにレシートを。
「たぶん、KJはいろいろ問題を抱えすぎたんだ」
「わたしのせいなの?」
しばらく沈黙があった。
「わからないけど、KJはたぶん、そう思ってほしくないはずなんだ。僕にはわかる。KJは君のことは忘れて、レシートを集める理由も忘れた。目的だけがKJを動かしてる」
「うん」
「世界のどこかで、今も君のためにKJがレシートを集めてる。なんでそうなってしまったのかはわからない」
「あなたの言葉だと、まるでKJはもう人じゃないような口ぶりだけど」
「もう、じゃない」
「え」
最初から、KJは人とかじゃなくて、そういう存在だったのかもしれない。
「どういうこと」
わたしは訊きながら、左手に握りしめた星型ドライバーに目線を送った。わたしにはジーザスさんがいて、KJがいる。もしかしたら、皆そうなのかもしれない。ひとりにつき、KJがひとりいるのかもしれない。
今も世界のどこかでKJはあなたのためにレシートを集めているのかもしれない。
「そういうことだよ」
たぶん。
そう言って電話は切れた。
おわり
参考及び引用文献
『最後の物たちの国で』著:ポール・オースター、翻訳:柴田元幸(白水社 1997年)
『魯山人味道』著:北大路魯山人、編集:平野雅章(中央公論社 1995年)
『ジーザス・サン』著:デニス・ジョンソン、翻訳:柴田元幸(白水社 2009年)
理由の死
その昼は夜より暗く、その夜はその昼より暗かった。
それらの昼と夜が存在する日には、夕方はそれら昼と夜よりも暗かった。その夕方が存在する日の朝は、その夕方よりも暗く、それら昼と夜よりも暗かった。その朝が来る手前にある夜明けは、昼と夜と夕方よりも暗くなくて、その朝よりは暗かった。
それら昼と夜と夕方と朝と夜明けが1日のうちに存在すると仮定した場合、どの時間がいちばん暗いか。
「夜明けでしょう」
あっさりと彼女は答えた。
「理由は?」
「どうでもいいよ、そんなこと」
彼女はたぶん、わかっていたのに言わなかったんだと思う。
理由?
どうでもいいよ、そんなこと。
僕らは、その理由の中に潜んでいたイグアナを飼うことにした。
10年生きて、死んだ。
たぶん僕らは。
ほんとはどうでもよくなかったんだと思う。
おわり
(第42回 了)
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