エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第三章 天路歴程
二時間ほど歩いたところで先輩憲兵が止まれの号令をかけ、休息を取るように命じた。三人とも道ばたの芝生の上に大の字になった。月と雲の闘いはまだ続いていた。道の右も左も一面の真っ暗闇だった。俺はちょろちょろと清らかな水の音がする方へと両手両膝で這い寄って湧き水のせせらぎを探り当てた。腹ばいで、両肘で体を支えて、その濁りなき闇黒を掬ってがぶがぶ飲んだ。氷のように冷たくて、舌が踊るようで、微かに生き物のようだった。
間もなく先輩憲兵からやる気のない『さあて』の掛け声があり、みな立ち上がった。我が疑惑の発言録を肩に担ぎ上げると、神経痛がびりびりと走って新たな戦いのはじまりを実感した。俺はだんだんとむくみ上がっていく足をばったばったと踏みならして前進した。鳥が一羽、怖気をふるって、顔面すれすれに急降下してきた。時折夜の物音がしっとりと濡れた闇夜の大緞帳にぷつりと無意味な針孔を明けた。ここにきて上り坂。全身の筋肉という筋肉がずきずき痛むし、頭はぐるぐる回るし、もう言うことをきかない体を半分起こしているのがやっとの、その俺が飛び上がった。潅木の茂みにぽつんと釣り下がった小さな木偶人形と目があったんだ。
――苦痛に凝り固まった木偶の胴体からがりがりに痩せた腿と脛が生えていてばかでかい足首の先で爪先がおもしろいねじれ方をしていた。硬くこわばったみじかい両腕は苦しいにちがいない急角度を路面に対して等角に保っていた。発育不良の尻の周りにはウケ狙いで破いたような重たげな腰布がしがみついていた。ぼろっと崩壊しそうな肩の片一方には首のない頭のどことなく笑える塊がふざけた格好で鎮座していた。そしてこの沈黙を貫く木偶人形の内奥には本能というものの身の毛がよだつような真実というか、人智を超えた愁嘆場の成就というか、長方形の感情のこの世のものならぬ惨たらしさのようなものがあった。
およそ一分間あまりほとんど顔貌のわからなくなった人形と俺は互いに顔を突き合わせ堪えがたい秋の夜の底にただ黙って見つめ合っていた。
この木偶人形は誰なんだ? 海綿状有機体のような陰鬱のうちに機械的に発した鋭く暗澹たる叫び声にも似た有様でぶら下がっているかの拷問を模した粗末な俄づくりの木像、その受難の肉体の語るぎくしゃくした生の言語を大きく開いた夜の口が念入りにまくし立てていた。俺は以前ある中世の聖人の夢の中で彼を見たことがあった、左右では盗人が打ち萎れていて、凛とした天使たちに囲まれていた。今夜は彼もひとりぼっちだ、俺と、ぱっくり割れた雲の厚板の隙間に咲いた小さな月の花を別にすれば。
ちがった、月と俺と彼だけじゃない……坂の上に目をやるとじっとしている二つの影法師があった。憲兵たちが待っていた。はやく追いつかないと道草のせいで不信を招く。俺は足を早め、最後に一度肩越しに振り返ってみた……木偶人形が俺たちを見つめていた。
二人に追いついたとき、俺はボロクソに言われるのを覚悟していたものだから、「もういくらもないからな」という先輩憲兵の静かなはげましには呆気にとられてしまった、そうして俺は冷静沈着に夜の只中へと突撃した。
暗闇にうずくまった形の物影がいくつか眼前に現れたのは三十分も歩かないうちだった。家だ。俺は家が好きになれないなと思った――なんせその瞬間に我が守護者たちの様子ががらっと変わるんだ、再び上着のボタンが掛けられ、ホルスターが締め直され、俺は二人の間を歩いて一時も離れないように命じられた。道はもう隙間なく居並ぶ家々にぎゅうぎゅうと抑えつけられていた、しかしその家々は俺がマルセイユの幻想に思い描いていたものほど大きくもなければ賑やかでもなかった。というか俺たち三人は小さいにも程がある実に気に食わない町に差し掛かっているらしい。俺は思いきってこの町の名を訊いた。「マァーセイ」という答えが返ってきた。これを聞いて俺はすっかり困惑した。道は俺たちを広場へと連れていった、空へと伸びる教会の尖塔が見えた、その塔と塔の間に黄色い丸い大きな月が無限に輝き穏やかに目を覚ましているかのようで……細い路地には人影ひとつなく、すべての家々が月の秘密を隠し通していた。
俺たちは歩き続けた。
疲れ切って頭が回らなかった。ただ俺にはこの町が一種独特な非現実世界のように感じられた。なにそれ。わかった――月の描いた町の絵だ。家々の立ち並ぶ街路なんて実在しない、そんなのほんとうは月の絢爛豪華な性格のでたらめな投射にすぎない。ここは偽装の都、月光の催眠術で作られたんだ。――しかも月に目を凝らして見るとそいつもどうやら絵に描いた月のようだし、月の輝く夜空なんてつかの間の絵の具の谺だし。俺が強く息を吹けばこんなおっかなびっくりの仕掛けは整然と音もなく砕かれて丸ごと緩やかに潰え去る。だめだめ、何もかも失うぞ。
ひとつ角を曲がり、また角を曲がった。案内役の二人はなにかの在処について話し合っていたが、俺にはなんの話だかわからなかった。やがて先輩憲兵が百ヤードもないところに長く横たわったどんよりとうす汚い物体のほうを見てうなずいた、(俺の見立てでは)教会か墓場にはうってつけというところだ。そこへ向けて道を曲がった。と、すぐにその陰気に満ち満ちた外観が見えてきた。灰色の長い石壁、道路に面した側はむらなくどんよりした色味の巨大なフェンスに囲まれていた。そこではっきりわかったんだ、俺たちが目指しているのが、灰色の長壁に挟まれた奇妙に手狭で近寄りがたい門であると。こんな廃墟に人が住んでいるとはとても思えないけど。
先輩憲兵が門の前で呼び鈴を鳴らした。リボルバーを携えた憲兵が出てきて、その場で先輩憲兵は迎え入れられ、後輩と俺を残して入っていった。俺はようやくここがこの町の憲兵詰所で、これから身柄保護のために中に通されて一泊する手筈なのだと気がついた。気落ちしたよ、正直言って、この世も地獄もひっくるめて右に出るものはないほど嫌悪している人種に混ざって枕並べて眠ることを思うとね。そうこうしている間に門番が先輩憲兵を連れて戻ってきて、俺は荷物を持って歩けと乱暴に命じられた。案内役の後について通路を渡り、階段を登って、通されたのは蝋燭が一本燃えているだけの暗く小さな部屋だった。蝋燭の火に目が眩んだうえに十マイルか十二マイルは歩き通した散歩の疲労でくらくらして、俺は荷物を放り出し、近くの壁にもたれかかり、つぎの拷問係はどんな奴かと見極めようとした。
机を挟んで正対していたほとんど俺とたっぱの変わらない男がすっと立ち上がった、俺の見立てでは四十前後というところだ。顔はみすぼらしく土気色をした面長。半円型のぼさぼさ眉毛がぐいぐいと垂れ下がって目がもはやしばたたく肉の割れ目のようにつぶれている。頬には内側に凹むほどの深い溝が走っている。鼻はついていない、厳密に言えば、意味がわからないほど幅薄な猛禽の嘴のようなものがついていて、そのおかげで顔全体の印象が階段を上から落っこちてきたような感じで、取るに足らない顎をすっかり隠してしまっていた。口元にはぴくぴくと神経質に引きつった細長く不明瞭な唇。刈り込んだ黒髪はくしゃくしゃに乱れ、軍服の上着は、戦功十字章を吊り下げて、ボタンを掛けずに開いていた。ゲートルを脱いだ脛の終極は寝巻きの室内履きに突っ込まれていた。その身なりを見て俺はイカボド・クレイン先生のことをちょっと思い出した。首なんか雌鶏そっくりだ。なにか飲もうと思ったら絶対首を仰け反らせるにきまってる雌鶏が喉に水を流し込むときみたいにさ。しかし彼のしゃきっと起立した様は、明らかに痙攣したように縮こまった指先やはっきり打たなかったコンマみたいにたどたどしい口ぶりに句読を入れる神経質な「ゥ–ァ ゥ–ァ」という口癖と相まって、むしろ雄鶏を連想させた。しかも虫に食われてぼろぼろになったやつ、おそろしく自意識過剰で自意識の背景のどこかに集まっているちやほやしてくれる雌鶏の幻影群に向けていつも自分を見せびらかしているようなやつ。
『貴様はゥ–ァアメリカ人なのか』
『アメリカ人です』と俺は白状した。
「なるほどゥ–ァ ゥ–ァ待っとったぞ」と言って彼はじつに興味深げにじろじろと俺を眺め回した。
このみすぼらしく落ち着きのないお偉いさんの背後を見るや彼その人にちがいない肖像画が目についた、壁の一角を飾っているものだ。雄鶏の姿形が忠実にレンブラント風に描かれた士気を鼓する武者振りの剣士姿の半身像で、巨大な籠手をはめて刺突剣を構えている。この傑作の出来栄えは申し分ないとは言えないけれども、全体としてある種の気迫や情熱は伝わってきた、この絵のモデルの発揮したものなのだろうが、いま向き合っている人間にも備わっているのだと考えるのは困難だった。
『貴様はゥ–ァキューマングズだな?』
「はい?」と俺は返した、いまの耳慣れない二音節に度肝を抜かれたんだ。
『フランス語はできるか』
『多少は』
『よし。ではあらためて、貴様の名はキューマングズ、で合ってるな? エドアー・キューマングズ君』
「あっ」とつぶやき、ほっとした、「そうです」ほんと驚くよ、この男のグのあたりでのよじれ方ときたら。
『英語じゃどう発音するのかね』
手ほどきをした。
彼の返事は好意的だったが、多少困惑したようで『ゥ–ァ ゥ–ァ ゥ–ァ --ところで何故ここまで来たんだ、キューマングズ君』
この愚問に俺は一瞬生まれてこの方感じたことがないほど頭にきた。しかし身の置かれた状況の馬鹿馬鹿しさを悟って、笑って返した。--『さぁね』
(第13回 了)
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