エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第三章 天路歴程
質問事項はまだあった。
「赤十字にいたって?」――「確かです、ノートン=ハージェス救急隊第二十一衛生分隊所属です」――「そこで友人ができたと」――「ふつうにですよ」――『そいつが、その貴様のお友達がだ、馬鹿なことをあれこれ手紙にしたためたと、そうだな?』――「そうらしいですね。知りませんが」――「お友達はどんなやつかな」――「器の大きな人間ですよ、いつだって本当に優しいんです」――(変に顔をしかめて剣士様がおっしゃったことには)「しかしおかげでいい迷惑をしたろう」――(にっこりと笑って俺が言い返したことには)「どんと来い、一蓮托生ってやつです」
ゥ–ァ ゥ–ァと洩らすばかりなのは返す言葉がないのか。剣士様乃至雄鶏君あるいはもうこの際なんでもいいのだけど、燭台と錠前を取り上げたのち、男は言った。『じゃあ、ついてきたまえキューマングズ君』俺が荷袋を担ぎ上げようとすると、そいつは事務所預かりだという(ということは俺たちは事務所にいるわけだ)。俺はブリウーズの駅で大袋と毛皮の外套を預けてきたことを伝えた、すると彼は鉄道便で届くから心配いらんと言った。憲兵たちもここでお役御免となった、二人はさっきの質疑の間もじっと聞き耳を立てていた。事務所から連れ出されるとき俺は単刀直入に訊いた、「いつまでここにいることになりますかね」――彼は答えて『さてなあ、明日か明後日か、わからんな』
憲兵の詰所なんて二日もいればたくさんだ、と思った。そうして事務所を後にした。
背後からは室内履きのままの雄鶏がゥ–ァ ゥ–ァ鳴きながらよたよたついてきた。正面では巨大な俺の偽物がぎくしゃく跳ね回っていた。偽物がぼろぼろにすり減った階段を降りた。右にぐるりと回り込んだところでふつと消えた……。
俺たちは礼拝堂の中に立っていた。
案内人の手にするしぼみかけの灯火が突然いっそうか細くなった、暗がりに充ちる濃密このうえない湿り気に対して、盲滅法にしゅっしゅっと空を切る拳を振り回していた。右に左に飛び散っているのは細長いステンドグラスから押し入った汚らわしい月光の賊徒。じめじめとべたつく間抜けな隔たりが朧げに生ぜしめるのはある怪奇的抗争――獣の如き陰翳は呻きも上げずに蹴散らされていた。殺到するねばっこい湿気は俺の肺にも襲いかかってきた。むかむかするほど芳しい香気を抱き込んだガス状ヘドロの化け物に鼻の穴が抗戦した。正面にじっと目を凝らしていると、青白く腐った闇の骸の正体が徐々にわかってきた--聖餐台だ、火の気のない蝋燭の無様な陣列に護衛され、台の上には聖体拝領の道具が一揃い頑として持ち場に踏みとどまっていた。
なるほど、おやすみの前に、後ろ暗い胸の内を懺悔しておけってことかな。これで明日の寝覚めや好しと
……落ち着き払った口ぶりで剣士様が言った。『ほれ貴様の敷布団だ』俺は振り向いた。礼拝堂の隅で全体像のよくわからない塊の前に屈みこんでいた。塊の頂点は天井まであと半分の高さに達している。敷布団大のものが積み重なってできていた。そのうちのひとつを引っ張り出した――ちくちくした藁を詰めた、目の粗い麻袋だった。肩に担ぎ上げる。『よし』そして剣士様の明かりを頼りに今さっき入ってきた戸口に向かった(そろそろ外に出たいなって思ってたんだ)。
引き返し、通路を通って、さらに階段を上る、やがて俺たちの正面に現れたのはこぢんまりとして傷だらけの両開きの扉で見たこともないほど巨大な南京錠が二つぶら下がっていた。そこで行き止まりとなり、立ち止まった。剣士様は鍵をじゃらじゃら下げたばかでかい金輪を取り出した。錠前を開けるのに手こずった。生き物の気配はない。鍵が錠の中でがちゃがちゃ鳴る音がぎょっとするほどけたたましく響いた。二つ目の鍵に観念させるには大苦戦を要した――ついに二枚のみすぼらしい扉がばたんと開いた。
担いだ藁布団によろめきながら俺は四角い闇の奥へと踏み混んだ。物音一つしない暗室ではその大きさを推し測る術もなかった。目の前に柱があった。「その柱の足元に下ろせ、今夜はそこで寝るんだ、明朝また来よう」と剣士様が命じた。「貴様に毛布はいらんな」と言い捨てると、扉ががちゃんと閉まり、明かりも剣士様も姿を消した。
眠りへの誘いは一度で十分だった。着の身着のまま、後にも先にも無いほどの疲労困憊で藁布団に倒れ込んだ。それでも眼は開けたままだった。俺をぐるりと取り囲んで異様極まる物音が波のように湧き起こってきたんだ……さっきまで空っぽで狭苦しかった部屋が突如として巨大に広がった、奇怪な雄叫びが、罵り言葉が、高笑いが、部屋の空間を横に奥にと引き延ばし、想像もつかない無辺の深さと広さに押し拡げ、ぞっとするほどの至近距離にまで圧し縮めた。四方八方から聞こえてくる、少なくとも十一の言語が飛び交う三十の声色(横になったまま聞き分けられたのはオランダ語、ベルギー語、スペイン語、トルコ語、アラビア語、ポーランド語、ロシア語、スウェーデン語、ドイツ語、フランス語――あと英語)声の近さも七十フィートから数インチまでばらばらで、俺はその中で二十分間に渡って集中砲火を浴びた。この錯乱状態は聴覚だけで済まされるものじゃあなかった。横になってから五分ほど経ったとき(それまで気がつきもしなかったほんの微かな灯が入り口の扉のすぐ側にともっていたおかげで)俺は異様な体つきの二人の人影を目にしたんだ――ひとりはがっちりと体格のいい、真っ黒な顎髭をもじゃもじゃ蓄えた男で、もうひとりは禿頭にげっそり痩せた口髭の肺病患者みたいなやつ、二人は膝丈までのスモックを一枚着ただけで、毛むくじゃらの脛はむき出し、足は無論裸足――のしのしと部屋を横切って俺の寝床から一番近い隅っこでじょぼじょぼと盛大に小便をした。用が済むと、二人はのしのしと引き返し、我が新しい宿舎のいまだ姿の見えない同居人たちがたまらず爆発させた悪たれ口の一斉射撃で迎えられ、そのまま闇に溶けて見えなくなった。
この詰所の憲兵諸君はずいぶんと語学に堪能なんだなと独り言をつぶやいて、俺はそのまま眠りについた。
(第14回 了)
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