エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第三章 天路歴程
食事の物音で目が覚めた。我が護衛役二人は、ナイフを手に、肉とパンを食い尽くさんとし、合間に水筒を天高く傾けてその口からほとばしるか細い水流を飲み下していた。俺はチョコレートをひと齧りしてみた。紳士方も飲み食いに勤しんでいた。先輩憲兵がチョコレートをもぐもぐしている俺を見て、こう命じた、「パンを食わんか」。これにはぶったまげたよ、まじさ、これまでの出来事なんか目じゃなかった。俺は返す言葉もなく彼を見つめた、フランス政府はこの人から分別まで奪い取っちまったんじゃないかと思った。彼はおどろくほどくつろいでいた、脱いだ制帽は傍に置き、上着のボタンもはずされ、猫背に丸まった姿勢がまったくだらしない––––その顔つきも化けの皮を剥がせばただのどん百姓かと思うほどで、まるで表情が開けっぴろげだし完全に気を許していた。俺は差し出された片割れのパンを引っ掴んで勢いよく噛りついた。パンはパンだ。先輩憲兵は俺に食欲のあるのが気に入ったらしく、顔つきが一段と優しくなって、「ワイン無しじゃ味気ないよな」と言って水筒まで差し出した。俺は遠慮なく飲んで礼を言った、『最高です』。ワインは頭にガツンときた、心が甘い温もりに抱き寄せられるような気がして、考え巡らしていたことなども大いなる満足感に覆い包まれてしまった。汽車が停った、すると後輩くんが空っぽの水筒を自分のと先輩の分も抱えて飛び出して行った。水筒と彼が戻ってくるなり、俺は飲み直しに興じた。その時分から八時前後になってようやく目的の駅に到着するまでの間に先輩憲兵と俺とはすっかり打ち解けた仲になった。例の紳士たちが降車駅に降り立った頃には彼はもうだいぶ親しげになってきていた。俺もたいそう上機嫌だった、かなり酔ってもいたし、くたくたに疲れ切っていたんだ。車室に残るのは守護者二人と俺ばかりとなったので、それまでは職務規定と拘引役の面子にかけて抑え込まれていた好奇心がたちまち露わとなった。それにしても、俺がこうなる羽目になったのはどういうわけだ? 二人には俺がよほどいいやつに見えるらしい。––––親友の送った手紙がいけなくて、と俺はわけを話した。––––なら俺自身はなにもしちゃいなんだろう?––––始終一緒にいましたからね、自分とあいつとは、自分の知るかぎり理由といえるのはそれだけですと俺は説明した。この説明で今度は俺の状況ががらっと好転したのだからまったくおかしな話だ。先輩憲兵はことのほか安堵したようだった。俺はきっと、と彼は言った、到着し次第晴れて自由の身となるだろうよ。フランス政府も俺のような男を牢にぶち込んだままにはしやしない。––––二人はアメリカについて俺を質問攻めにし、俺は想像力豊かに回答した。たしか後輩くんにはアメリカの建物は平均で地上九百メートルくらいはあるんだと教えてあげたな。彼は目を丸くしてとても信じられんと首を振っていたが、最後には納得させてみせた。今度は俺が質問をする番で、まず第一に、親友はどこにいるんです?––––彼はクレイユ(じゃなきゃ、まぁどこでもいいんだけど)を俺が収監された当日の朝に発ったそうだ。––––二人は親友の行方をご存知で?––––二人は答えなかった。二人は彼がかなり危険な人物だと聞かされていた。 ––––そんな調子で俺たちはずっとしゃべっていた。俺はどれくらいの間フランス語を勉強した? 俺はずいぶん流暢だが。英語を学ぶのは大変か?––––
しかしそれでも俺が線路端に小便をしようと外にでたときには一人見張りが付いてきた。
とうとう時計が見合わされ、上着のボタンも閉じられ、制帽が着用された。俺もぶっきらぼうな声で支度しろと命じられた、ということは俺たちの旅も終わりに差し掛かっていたわけだ。先だっての話し相手に目を遣ると、ほとんど見知らぬ人かと思われた。二人が制帽をかぶるとその振る舞いも明からさまに残忍さを帯びた。これまでの数時間の出来事はみな夢だったのかとも思われた。
俺たちはちゃちで小汚い駅に降り立ったが、そこにはフランス政府という酒樽の口がうっかり緩んでちょびっとこぼした痕みたいな雰囲気があった。先輩憲兵が駅長はどこかと探すと、暇を持て余したその人は小型仕立ての待合室で午睡の最中だった。駅全体の有様にはおそろしく気が滅入るものの、どうせここはただの乗り換え地点なんだからと考えることで俺は気を落とさないようにした、ここからマルセイユ行きの便に乗り込むんだろう。駅はブリウーズといったが、その名の響きにもどこか荒涼とした感じがした。そこへ先輩憲兵が俺たちの乗る汽車が本日運休だという報せを持って戻ってきた、次の便は明日の早朝まで来ない、それなら歩くか? 大きなほうの荷袋と外套は駅で積荷として預かってもらえた。小袋の方は持ち歩くことになる––––まあ、たかだか歩けるぐらいの距離だ。
ブリウーズの人気のない侘しさを一瞥して俺はぶらつくのに同意した。ちょっと出歩くにはいい夜だった。涼しすぎなくて、夜空にぴたっと張りついた月が道行きを保証してくれる。荷袋と外套の預け入れは先輩憲兵に任せてしかるべく手配してもらった。駅長は見下した目つきでちらと俺を見てぶつくさと文句を垂れた(俺がアメリカ人だと聞いたんだ)。こうして護衛二人と俺は駅を発った。
最初に見つけたカフェに入って一杯やりましょうよ奢りますからと俺は二人にせがんだ。案内役の二人もこの提案に賛成し、俺には十歩先を歩かせて、バーの店先でもまず俺を先に通してそれから入店した––––べつに礼儀作法に則ってのことじゃない、実際はね、なぜかというと(俺もすぐに察したよ)憲兵たちはこの辺境じゃちっとも評判が良くないんだ、囚人ひとり憲兵ふたりの御一行なんて格好で現れた日にはバーに入り浸る客が色めき立って俺の身柄の奪還なんて企てかねない。さらには、そのカフェ(閑古鳥が鳴くというのはまさにあの店さ、おっかない女将さんがぽつんといてね)を出たときには二人から離れずしかし何があっても間に割って入ってくるなときつく言いつけられた、マルセイユへの一本道に出る前にどんな有象無象の村人に出くわすかしれない。二人の先見の明と俺の忠順さのおかげで身柄奪還の騒ぎにはならなかった、それどころか我々一行の存在は疎ましき町ブリウーズのやっと見かけたくたびれた住人の好奇心をさえくすぐらなかったんだ。
至マルセイユの一本道は我々の占領下に置かれ、三人とも心底からほっとした。肩に担いだ怪しい手紙で一杯の荷袋は思っていたほど軽くなかったが、ブリウーズの安ワインの勢いを借りて俺の足取りは上々だった。道の上には動く影一つなく、夜の帳がだらりと一帯を包みこんでいる、どこもかしこも月光に切り刻まれてずたずただった。道がでこぼこだったり、足場の悪い所に差し掛かるとややうら悲しくなったものの、この先に広がる未知なる冒険と、爽やかな夜の静寂(話し声がまるで天鵞絨裏地付きのおもちゃ箱に入ったブリキの兵隊みたいにカラカラとへんてこに響くんだ)とが俺の気分をわけもわからず浮き浮きさせた。俺たち、というか先輩憲兵と俺は、普段あまりしないような話をした。薄々気づいていたけれど、彼は根っからの憲兵ってわけじゃなかった。かつてはアラブ人の軍隊に従軍していた。昔から語学好きでアラビア語はわけもなく自然と身についた––––これが彼の大きな自慢だった。たとえば––––アラビア語で「食べられるをくれ」と言いたときはこんな風に言うんだ、はたまたワインが欲しいときはあぁだとか、「いい天気」はこうだとか。彼は俺がフランス語を見事にものにしているもんだからアラビア語だってできるだろうと思っているんだ。そして彼は英語はフランス語よりはるかに簡単だと信じきっていて、頑として譲らなかった。ところでアメリカ語ってのはどんな感じだ? 俺は俗イギリス語みたいなものだと説明した。決まり文句をいくつか教えると彼はびっくりしていた––––「まるで英語みてえだ!」と声を上げ、俺を唸らせようと受け売りの英語の文句を披露した。彼のアラビア語の抑揚を習得するのは大変だった、難しい発音では手助けをしてもらった。アメリカってのはおかしな国だ、と彼は思ったことだろう…。
風采の立派な太った紳士二人と、憲兵二人と、あとは俺、この五人で車室はいっぱいになった。紳士二人は立板に水にしゃべりつづけ、護送役二人と俺は黙りこくっていた。俺は水のように流れ去って行く車窓の風景を眺めながら気持ちよくうとうとした。憲兵達もそれぞれ車室の扉に寄りかかってうたた寝していた。汽車はのろのろと大地を駆け抜けて行った、農家と農家の間を抜け、田畑を突き抜け、森を巡って……日の光がその色彩によって俺の目をびんたし、眠たげな心を張り倒した。
(第12回 了)
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