ルーマニアは正教の国であり森の国であり、ちょっと神秘を感じさせる物語の国でもある。ドイナ・チェルニカ氏は作家で翻訳家、ジャーナリストだが、小説ではなく〝物語〟作家を自任しておられる。彼女の清新な物語文学を、能楽の研究者であり演劇批評家でもあるラモーナ・ツァラヌさんの本邦初翻訳でお届けします。
by ドイナ・チェルニカ Doina Cernica著
ラモーナ・ツァラヌ Ramona Taranu訳
第8章 むらさき色のアリのかみきずがいたむ
王子たちと子馬たちは、時間のながれも、旅のくろうもかんじませんでしたが、少女はゆうぐれになると、つかれて足がおもくなっていました。つかれてはいましたが、一匹のむらさき色のアリがえさのつんであったかごをおとしたのを見て、しゃがんでいっしょうけんめいに、アリのあたまにかごをもどそうとしました。しかしつかれでゆびがふるえ、かごにあったケシの実がばらばらにちらかってしまいました。たいしたことではないはずでした。しかしアリたちは、少女のせいでゆうぐれまでに仕事を終わらせることができなくなったと思いました。それで怒りだし、少女にばつをあたえることにしました。どんどん少女の手足をのぼっていって、おもいきり彼女のからだをかんだのです。アリたちは王子たちと子馬もかもうとしたのですが、なぜかかれらの小さい足はすべってしまい、みんなすぐにあきらめてしまいました。
少女のからだはかみ傷でいっぱいです。おこったアリたちが、つかれはてるまで、おもうぞんぶん少女をかんだのです。もちろん少女も自分の身をまもろうとしました。しかしアリたちをつぶさないよう気をつかってふりはらおうとしたので、こうかがありません。アイレとイルも、少女のからだからアリたちをつまみとろうとしたのですが、うまくいきません。子馬たちもたてがみをふるわせて、アリたちをおどかそうとしました。でもむらさき色のちいさな生きものたちは、けっきょく彼らがおもいついたばつを、さいごまでおこなってしまったのです。
アリたちがいなくなると、少女は草のうえにたおれました。あまりのくるしみといたみで涙もでません。
「ながい夜になりそうだわ」アイレが心ぼそくつぶやきました。「少女をたすけることができるのは、彼女のきずを治せるのは、朝のつゆしかないわ。朝までわたしたちはなにもできない」
「でも女王バチにいただいた杯のハチミツを、きずの上にそそいでみたらどうだろう」イルがいもうとにききました。「ハリネズミの目がなおったんだから、きっと少女にもやくにたつと思うよ」
しかしそれをきくと、少女はむりをして小さな声でことわりました。
「ダメよ、杯をむだに使ってはダメ。これからさき、もっと大変なことがあるかもしれないわ・・・。その杯のまほうが、ほんとうに必要になるときがくるかもしれない。だからがまんするわ! 心配しないで、わたしはだいじょうぶだから。からだのことより、わたしはただ助けてあげたかったの。でもアリたちがわかってくれなくて、心がいたいわ。地上では、たまにこんなことがあるの…」
そう言うと少女はいしきをうしないました。夜なかに月がのはらを黄色い明かりでてらしていたころ、少女のねむりを見まもっていたアイレとイルは、少女のためいきとちいさな泣きごえをききました。馬たちはとなりにいて、たてがみをゆっくりなびかせて、少女のいたみをやわらげるように、ここちよさそうなそよ風をたてていました。少女のとじたまぶたの下から、涙がほほにしのびよるように流れていました。
「ねぇイル」アイレが言いました。「少女と同じからだだったらよかったのに。わたしもアリのかみきずのいたみ、感じられればよかったわ」
「それで少女のくるしみがへるわけじゃないよ」イルがためいきまじりにこたえました。
「わかってるわ。でもそしたらわたし、こんなに悲しい思い、しなくてすんだと思うの。少女だけくるしむなんて、ふこうへいよ。わたしたちが向こうの世界の人じゃなかったら、アリたちのいかりはもしかして、三分の一、ううん、五分の一になったかもしれないわ。おにいちゃん、こんなむねのいたみ、はじめてだわ」
イルは考えこんで顔をふせました。彼もアレイとおなじ気持ちだったのです。いもうととおなじように、友だちのくるしみにたいしてなにもできません。ああとさけびそうになるのをこらえながら、だまって少女のそばにいました。きぼうの朝とつゆを待つしかなかったのです。
第9章 水のようせいに会ってむかしばなしをする
ひとりになった銀狐は、目のまえに広がるみずうみのおおきさを、目ではかろうとしました。
いつからここにあったのでしょう? むかしはここに、スミレがきれいに咲いていた谷しかなかったのです。このあいだの雨でできたのでしょうか? それともコウモリが言ったように、ゴン・ドラゴンのしわざなのでしょうか? あいつはかんたんにひきさがらないから、こんどはこのみずうみで、足どめさせようとしているのでしょうか? みずうみの深さとはてしない広さで、およげない銀狐をころしてしまおうとしているのでしょうか?
みずべにところどころ木が立っていました。むこうがわは森かもしれませんが、いちばんちかい木の枝にとびついても、その木をのぼり、つぎからつぎへととびうつれそうにありません。銀狐は土のうえでしばらくよこになりました。つかれていましたが、あきらめてはいませんでした。どうしても、このみずうみをわたらなければならなかったのです。
とにかく、いちばん手前の木までとんでみたらどうだろう? こんなきょりを、こんな高さまでとんだことなんて、一度もないけど・・・。でもしかたない。銀狐は立ちあがりました。旅の時間がしんぱいで、不安で、銀狐はいまやむかしの自分の影にすぎませんでした。
力がたりないのはわかっていました。はんぶんもとべずに、みずうみにしずんでしまうにちがいありません。そしたらアイレとイルは… 。いいえ、ダメよ、そんなこと考えちゃ。あのふたりのことを思うのは、このしれんをのりこえるためです。息をすって、かまえました。あせでひふについていたかみの毛が、ふさふさとたっていました。すいしょうの塔のそばにいるヴズのことを思いだし、銀狐のじょうみゃくに若い血のなみがもりあがりました。子どもたちは、ははおやとさいかいして、やさしくだきあうために、ひとつの世界だけでなく、いくつもの世界をこえるけっしんをしたのです。かれらが地上で旅をつづけていることを思い、弓のようにからだをしならせた銀狐は、みずうみにむかってすばやくとびあがりました。
いしきがもどり、自分がキツネで、にくたいをもつ生きものであることを思いだしました。しかし木の枝のうえにいるわけではなく、みずうみのそこでおぼれているわけでもないのでした。銀狐はやわらかくてふわふわで、とうめいなコケのようなみなもの上にたっていました。そしていがいなことに、彼女ひとりではなかったのです。となりにむらさき色のみじかい毛をした、自分にそっくりな、いもうとのようなカワウソがかがやいていました。
「あなたなの?」
「はい、わたしよ」カワウソがなかばうれしそうに、なかばかなしそうにほほえんで言いました。「あなたをあきらめさせたくて、流水のとば口からいずみをときはなったのよ」カワウソはためいきをつきました。「あなたの性格をよく知ってるのにね。でも、とにかくとめなきゃって思ったの」
「どうしてなの? この世界にのこしてきたしんぞうがあやうくて、このままじゃ、子どもたちを守ってあげられないの。このままじゃ、生まれてきたことにかんしゃしながら、いつもとかわらず生きゆくことができないって、しってるでしょ。どうしてわたしをとめようとするの? ざんこくなゴン・ドラゴンがそうするのはわかるわ。はっきりしない気もちをかかえている、あのコウモリやヘビだったら、わかるんだけど。でもあなたは、水のようせいのあなたはちがうでしょ? わたしの友だちでしょ?」
カワウソはひとことも言葉をはっしませんでした。ただ目をそむけようともしません。
「もしかしたら、これいじょうの危険からわたしをまもろうとしたの?」銀狐はつぶやきました。
カワウソは目をそらさず、だまってそばにたっていました。
銀狐もなにもきかず、なつかしい思い出に心をあそばせて、やさしく言いました。
「あのころ、わたしたちはわかかったわね。あなたはたのしい話をするために、いっしょにゆめを見るために、流水のとば口からよく会いにきてくれたわね」
「そうよ」とカワウソのきれいな声がひびきました。「水のなかに半分沈んでいた幹のうえにすわって、たいようの光をあびていたじゃない。あなたは、わたしの知らない香りのオーラをはなっていたわ。つぎからつぎに、世界の色々なことについて勉強させてもらったわ。朝の花をきれいにするつゆについて、じまんのぼうしをかぶっているキノコが、たまに毒をひそめていることについて、ろうそくの明かりをかかげて夜をじゆうにとびまわるホタルについて、そして影と光について…。でもいまのあなたは、けっしてうしろをふりむいちゃいけないの。過去からは、よい眠りをもたらしてくれる思い出だけとればいいのよ。元気をつけてくれる子どもたちの、ぬくもりだけをよりどころにして…」
「それと、ヴズの誠実でいさましい目も」銀狐はいい思い出にほほえみながらつけくわえました。それからやさしいカワウソにむかって、
「もうじゅうぶんよ、すっかり元気がでたわ。じゃあ水の精さん、もういくわね!」
「いってらっしゃい」
銀狐はさってゆきました。むこうの木々のあいだを、銀の光の一筋になって消えてゆくまで、カワウソは見おくりました。みずうみがその光をうつさなくなると、カワウソは泣きだしました。涙のおもさでまず水のひょうめんが、それから水のそこが割れ、カワウソじしんも無数のとうめいなつぶになりました。呼吸が香りをすいこむように、土はそのつぶつぶをすいこんでしまいました。深い土のなかから、ひそかな流水のとば口のあたりから、むせび泣きがずっと聞こえました。あまりにもあわれをさそう泣き声だったので、スミレたちは夜じゅうたがいにだきついて、顔をうつむかせたまま眠っていました。
絵 アンナ・コンスタンティネスク
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* 『少女と銀狐』は毎月11日に更新されます。
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