ルーマニアは正教の国であり森の国であり、ちょっと神秘を感じさせる物語の国でもある。ドイナ・チェルニカ氏は作家で翻訳家、ジャーナリストだが、小説ではなく〝物語〟作家を自任しておられる。彼女の清新な物語文学を、能楽の研究者であり演劇批評家でもあるラモーナ・ツァラヌさんの本邦初翻訳でお届けします。
by ドイナ・チェルニカ Doina Cernica著
ラモーナ・ツァラヌ Ramona Taranu訳
第7章 ヘビが銀狐に大事なことを伝える
ひどいさむけのように、ひっきりなしにおそってくる弱さをもう一度のりこえて、銀狐は深い森にはいりました。野原をわたったところからずっと誰かがあとをおってきているのを感じていましたが、いっしゅんも足をとめるよゆうはなかったのです。しかし見たことのないみずうみがとつぜん目のまえにひろがって、やむをえず足をとめました。銀狐は少し考えてから、はじめて後ろをふりむきました。なんの音もたてず、草一本も動かさず、やわらかいコケのクッションにさえふれずに、ヘビが目のまえにあらわれました。けむりのようなまぼろしに見えますけど、銀狐はこの世界に住んでいたころから、その弱そうな見ためがどれほどうわべだけのものなのか、そしてその冷たくてまぶたのない黄色い目の向こうに、どれほどはげしい炎がもえているのかをよく知っていました。
「わたしにじゅうぶんいたずらをしてくれたでしょう? 今度はなんのようなの?」こわがらずに銀狐はたずねましたが、かすかな身ぶるいをおさえることができませんでした。
「なぜ虹を渡ってきたの?」ヘビはちゃんとこたえてくれません。「おれはね、あなたが星とならんで光かがやいていると思ってたよ。いちばんきれいで… なぞめいていて…」ヘビがねこなでごえで言いました。「ああ、わかった。もしかすると、あのすてきなヴズのことだろう…」
「ヴズがどうしたの? 彼がなにかしたの?」銀狐は不安になりました。
しかしヘビは、教えたくないことをぜったいに教えない生きものなのです。
「カメのところまで行ったんだね。世界一の賢者じゃないか!」
ヘビはからかうように話していましたが、銀狐はその口調のうらがわに、ゆううつそうな気持ちがあるのに気づきました。そしてはじめてヘビのふるまいにおどろき、彼の考えていることを理解しようとしました。
「わたしに会いたくて会いにきたんじゃないでしょう」銀狐の心にまたひとつ不安がめばえました。いったいなにが起こっているのでしょうか? いつもほこらしげにふるまうヘビが、どうして今は不安そうなのでしょう? 気のまよいにすぎないならいいんですが。銀狐はもやもやとした気持ちをふりはらって、もう一度きいてみました。
「どうしてわたしのあとをついてきたの?」
「ただ、あなたに会いたくて、あとをついてきたんだと思ってくれればいいのに」と、夢を見ているようにヘビがこたえました。
そして、その夢のハチミツのような甘いまどろみからさめて、いつもの自分に戻りました。
「虹をわたってきたのは、あなただけじゃないよ!」
「アイレ! イル!」銀狐はぞっとしました。
「どうやら母親にとりのこされた子どもたちが、なにを思っているか、おれのほうがあなたよりもよくわかっているみたいだね。本当に、彼らがあの天上界で、なんのしんぱいもなく、あそんでいられるとでも思ってたの?」
ヘビの言葉には、半分くらいしかひにくがこめられていませんでした。
きょうふが刃のように銀狐の心をつきさしましたが、彼女はヘビの思いやりに気づきました。思いがけないことですが、これもいつものいつわりでなかったら、ヘビは銀狐をまもろうとしていたのです! 銀狐はみとめたくありませんでしたが、今回はいつものヘビのうそではないようです。そこでますます不安になりました。
「カメも、しっていることの一部しかおしえてくれなかったし、あなたもきっとそうね。あなたたちはなにを心にひめているの? わたしからなにをかくしているの?」
「子どもたちはあなたのあと追ってるんだ。かれらは火にも、鉄にもきずつけられない。そして雨は、すこしずつたまっているけど、まだとおいよ。なにをおそれているのかだって? ゴン・ドラゴンさえもふたりをきずつけることはできない。ただ…」
「ただ?」
「ただ、ゴン・ドラゴンがあなたをきずつけないかぎり、子どもたちは安全だってことだよ。だから気をつけて。自分を大切にしてくれよ、子どもたちのために! 子どもたちをきずつけないでくださいよ、銀狐!」
「あなたにそんなことを言われるのは、へんな感じがするわ」
「あなたにさいしょにであった時からずっと、すべてがふしぎな感じじゃないのかね」とヘビがこまったようなほほえみをうかべました。「おねがいだから、人をかんたんに信用しないでくれよ。というか、あなたがむかし信用していた人をね。おぼえていてほしい。地上の生きものは、心がかわりやすいから…」
「わたしはカメのちえとやさしさを信じているし、ヴズのかわらない愛情を信じている。アキノキリンソウのじゅんすいさなども…」
銀狐のことばをききながら、ヘビの目はくらくなりました。それを見て銀狐は、のどになにかがつまったように、はなしをとちゅうでやめました。彼女とヘビとのあいだには、冷たいひにくや誇りのほかに、なにもなかったはずなのに…
銀狐はヘビが草のなかにきえるのを見おくりました。草にふれなくても花々をぞくぞくさせる、まがりくねるなぞめいた影でした。
絵 アンナ・コンスタンティネスク
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* 『少女と銀狐』は毎月11日に更新されます。
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