今号には秦夕美さんが「別の世を」二十一句を寄せておられる。一九三八年生まれで水原秋櫻子主宰の「馬酔木」で句業を始め、現在も馬酔木会員のようだ。その後同人誌から藤田湘子主宰誌となった「鷹」に創刊同人として加わり、赤尾兜子の「渦」に参加なさった。現在は「豈」同人で個人誌「GA」を刊行しておられる。句歴は長く作品のレベルも高いが、言ってみれば俳壇のメインストリームから外れた作家である。ただそれはいっときのことであり、秦さんの作品は長い時間をかけて現在俳壇で名の知れた俳人たちよりも高い支持を集めてゆくだろう。俳人の評価は結局のところ作品の質が決める。
つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを 在原業平
「別の世を」連作にはエピグラフとして在原業平の歌が掲げられている。言うまでもなく『伊勢物語』最終第百二十五段の歌である。在原業平辞世の歌と言われる。『伊勢物語』は平安中期、西暦で言うと九〇〇年頃に成立した日本最古の歌物語文学だ。約百年後に紫式部の『源氏物語』が書かれ平安物語文学は最高潮に達するが、その基礎となったのが『伊勢物語』である。ただ『伊勢物語』はわたしたちが〝物語〟と言って思い浮かべるような作品ではない。まさしく物語文学の初源が言葉で表現された希有の書である。
第百二十四段
むかし、男、いかなりけることを思ひけるをりにか、よめる。
思ふことは言はでぞただにやみぬべき
われとひとしき人しなければ
第百二十五段
むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、
つひに行く道とはかねて聞きしかど
昨日今日とは思はざりしを
(『伊勢物語』石田穣二訳注)
『伊勢物語』最終の二段だが、各段は「むかし」あるいは「むかし、男」で始まり、長い段でも文庫本で三十行前後である。ただ平安中期の人々はこのような短い記述から想像力を膨らませ、〝むかし男〟である在原業平の行動と心の微細な動きを読み取ることができた。また「思ふことは」の歌にあるように、『伊勢物語』は短歌文学の特徴を如何なく伝えている。「思っていることは言わないでおくことにしよう自分と同じ心の人などいないのだから」という意味の歌は、短歌文学が人間の内面表現であることを明確に示している。
秦さんが業平辞世の歌を引用なさったのは、「別の世を」連作が死を主題にしているからである。ただそれだけではない。『伊勢物語』の短く、だが含みの多い表現を俳句文学に援用しておられる気配がある。俳句は短歌のような自我意識表現ではない。作家の思想や感情を言い尽くしてしまえば表現は平板になる。言い足りなければ作家以外は何を表現したい作品なのか、ちっともわからなくなってしまう。その絶妙なバランスが秦さんの句にはある。
つひに会う冥王薔薇をむしりゐる
道草のはじめは黄泉の蓬餅
とある日の鮎のにごせる川面かな
どこやらに雨の香とどめ沙羅の花
(秦夕美「別の世を」連作より)
生者にとって厭うべき死は現世の華麗と混じり合い、俗と混じり合う。初めてまみえた冥王は生の盛りとも言うべき赤い薔薇をむしっており、黄泉への道には俗な蓬餅が現れる。清流に棲む鮎は清らかな流れを濁し、沙羅の花は雨に打たれるのではなく、その香りを発している。生への執着も死への恐怖も表現されることなく、その両極の間をダイナミックに往還する連作である。
前の世を踊りいでたる人馬かな
朧なり白猫ふつと消ゆるなり
遺影には遺影の月日金魚玉
秦夕美
秦さんには「海市あり別れて匂ふ男あり」の艶っぽい句もある。ただ印象に残る代表句にはそこはかとなく死の影が漂っているものが多い。しかし絶唱ではない。言い過ぎず言い足りず、現世の強さと儚さ、生の意志と諦念がスラリと表現されている。肝の据わった句だ。
きまづさや六文銭をなくす蛇
のいばらは遠つ世のいろ風あそぶ
はばかりに人の声する業平忌
(秦夕美「別の世を」連作より)
ちょっといいなと思えるような句を詠む俳人はたくさんいる。ただ二十句も連作すればどこかで綻びが出てしまうのが常だ。ただある一定の世界観を破綻させないように、用語と表現方法を厳しく限定して禁欲的作品を書く俳人が魅力的なのかと言えば、そうとは言えない。それは〝俳風〟の問題であって〝表現〟の問題ではない。定型文学では定型を守りながらどれだけ自由な表現を為せるのかがポイントになる。五七五に季語の定型を壊すのが俳句の自由ではない。秦さんの俳句は本質的に自由だ。こういった表現ができる俳人は名人である。
花茣蓙の冷たさもまた郷里かな
唐へ行く大きな船や籠枕
冷麦や少しの力少し出す
いつまでも死なぬ金魚と思ひしが
(西村麒麟 第一句集『鶉』より)
今月号では「如月真菜の未来対談」に西村麒麟さんが登場しておられる。如月さんが対談中で取り上げた句から四句選んだ。西村さんは相馬垣瓜人さんの句について「ゆるゆると、和歌みたいな感じがある」と述べておられる。また八田木枯さんの句が好きで「木枯さんから学んだのは、「わかる」だけじゃない、微妙なラインの句がある」ことだと話しておられる。
西村さんの句には〝微妙な味わい〟がある。秦さんのようにくっきりと生と死の間を往還するような作品ではなく、曖昧で捉えどころのない生の中間に漂っているような雰囲だ。ただその表現は、先行する俳句定型表現に飲み込まれたありきたりなものではない。独自性を感じる。長谷川櫂さんの「古志」から現れた期待の新人である。
岡野隆
■ 秦夕美さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■