今月号は「特集 おかげさまで250号」である。雑誌運営はとても大変なので、素晴らしい偉業である。角川俳句も毎月読んでいるが、言いにくいが角川俳句よりも月刊俳句界の方が面白い。角川俳句は初心者啓蒙にほぼ専念している。俳壇の実情を考えれば決して悪いことではない。だが俳句に対する熱っぽさが伝わってこない。初心者啓蒙などこんなもの、といったやっつけ仕事の感がある。
もちろん商業句誌である以上、俳句界も初心者を主な読者層としている。ただ角川俳句よりも俳句への愛情と熱気が伝わってくる。雑誌で取り上げる俳句、俳人も角川さんより幅広い。俳句は俳句であり、有季定型も無季無韻も多行も前衛もすべて俳句だが、角川さんの締めつけはきつい。それも雑誌の伝統かもしれないが、俳壇センター雑誌が俳句界全体を公平に見渡していないのだからその弊害もある。そう、これも言いにくいが、俳句界さんは健闘しておられるが、俳壇センター雑誌が角川俳句であるのは当面揺るがないと思う。
角川俳句が俳壇のセンター雑誌である理由は単純で複雑でもある。単純な方から言えば、俳壇ではいまだ虚子「ホトトギス」の有季定型派が主流である。大結社はすべからく「ホトトギス」系だと言っていいので、それらを束ねる角川俳句が総合誌としてセンターに立つのは当然のことだ。主宰の先生が頻繁に誌面に登場するのはもちろん、大結社は多くの読者を抱えている。複雑な方の理由は、俳句は結局のところ、虚子が言ったように「花鳥風月」だということにある。
俳句は「花鳥風月」だと言うと、無季無韻や前衛指向の俳人から大きな異論が出るだろう。しかし本当のことだ。俳句は原理として五七五に季語にならざるを得ない。いわゆる人事ではなく、自然描写が表現の中心になる。何をやっても必ずそこに戻ってくる。そこから超脱しようとする試みはすべからく〝必敗〟になる。ただこの俳句を巡る原理問題が本当に複雑なのは、花鳥風月に安住すれば俳句は必ず淀み、停滞することにある。様々な形で俳句原理を揺さぶり、泡立たせなければならない。
つまり花鳥風月で表される俳句原理はそこに安住するためものではない。離反し激しく反発する地点から原理を確認し、原理を確認したら再び混沌と迷妄の俳句的試行錯誤に立ち戻るのが理想だ。優れた俳人たちは原理に忠実でありながら、必ずそこに激しく揺さぶりをかけている。絶対に原理で止まってはいけないのだ。現代に近いところで言えば、永田耕衣を始めとする前衛であり、かつ伝統的だった優れた俳人は常にそうしてきた。有季定型花鳥風月俳句を脅かす勢力を失った角川俳句がつまらなくなった理由でもある。
だがもし有季定型花鳥風月俳句を揺るがすような前衛的俳人(俳句)を中心に据えた雑誌を創刊すれば、読者の支持を集められるのか。過去の数々の前衛系雑誌の無残がはっきりそれは不可能だと語っている。今から何度試みてもそれは同じだろう。だから俳壇のマジョリティが--簡単に言えば俳壇の総意が有季定型花鳥風月俳句にある以上、総合誌はそれを中心にせざるを得ない。かつ月刊俳句界のような後発雑誌が、角川俳句の翼賛的雑誌になることなく、独自カラーを主張しようとすれば、俳句原理を中心に据えて幅広い俳句の試みを取り上げてゆくほかない。つまり主流派から見ても前衛派から見ても中途半端なカラーになる。舵取りは非常に難しいだろう。ただ俳句界さんは健闘しておられる。
今号の特集で酒井佐忠さんが「これからの文芸雑誌が生き残りを図ること自体が、並大抵ではない時代を迎えている」「戦後の苦闘を乗り越えて、新たな未来の実りを目指す俳句ではあるが、いま大きな岐路にさしかかっている」(「ポピュリズムとアナクロニズム」)と書いておられる。おめでたい祝賀号ではあるが、この際だから俳壇の特殊性をストレートに書いてもいいだろう。酒井さんにならって普段なら書きにくいことを書いてみよう。
こんなことを書く人はいないだろうから書いてしまうと、俳壇外の人間が俳句雑誌を開いてまず強烈な違和感を抱くのは写真がやたらと多いことである。〇〇結社の創立〇〇周年記念、〇〇賞の授賞式と、俳人たちの顔が相当な数、掲載されている。小説文芸誌などではまずないことだ。ではずらりと並んだ俳人たちの顔に魅力があるのか。言いにくいがほとんどない。乱暴だが物書きには物書き顔といったものがある。中村草田男くらい厳しい顔をしているのが物書きだ。しかし俳句雑誌にはごく普通の善男善女の写真が並んでいる。はっきり言えば、趣味の文芸と言われても仕方のないぬるい風土がお顔から透けて見える。昔から同じだが作家の顔も情報の一つであり、目にすれば必ず何かがわかってしまう。たくさん目にすればなおさらだ。顔を露出して読者の興味を惹くことは俳句雑誌ではない。むしろ逆効果だ。
句会だ結社パーティだ星の数ほどある俳句賞の授賞式だと、俳人たちはしょっちゅうより集まっている。そこで交わされるのは誰々がどこに書いている、何の賞をもらった、誰々と誰々は仲がいい、悪い、〇〇雑誌はひどい、誰が誰を誉めて誰が誰をけなしたといった俳壇噂話だ。そうやって俳人たちの日常は十年一日の如くに過ぎてゆく。たとえばそういったヒマ話を小説界の人間はしないのか。まずしない。忙しいのだ。寄り集まること自体がイレギュラーなのであり、それなりに活動している作家は原稿を書くことで手一杯だ。噂話などたまに聞く楽しい冗談に過ぎない。毎月百枚くらい書けばそれがわかる。月産百枚、たいした枚数ではない。だが確実に忙しくなる。
では俳人はヒマなのか。他者のお世話をする大結社の主宰や編集人以外、大半の結社所属員はもちろん、インディペンデントを自称する尖った俳人に至るまでヒマだと思う。年に数回雑誌を出し、そのつど数十句を書き、たまに評論を書いて一年が終わる。評論と言っても、結社や同人誌の仲間を誉めたり批判したりする文章がほとんどで、商業誌に書いても似たようなものだ。友達優先だということは読めばすぐわかる。つまり書けば書くほど結社や同人誌、交友関係独特のカラーがつき、一般読者が読めるような文章からかけ離れてゆく。視線が徹底してインサイダーだ。実際一般読書界でたまに売れる俳句本は、俳句アウトサイダーの小説作家などが書いたものがほとんどなのだ。俳人は初心者啓蒙本と評釈を書くくらいしかできない。これをやっている限り十年経っても二十年経っても進歩はない。結社の長にでもおさまらなければ、俳壇内で「ああいるね、そういう人」という群小俳人で終わるのは当然のことだ。
俳人は勉強不足であり、研究意欲も薄いと思う。名句と呼ばれる先行作品をつまみ読みしながら、自分の俳句だけ書いていればいいと思いこんでいる。俳句に取り憑かれています、一心不乱ですと口では言うが、芭蕉や蕪村、子規全集を頭から尻尾まで読んだ俳人がどれだけいるのか。虚子をやたらと持ち上げるが、ちゃんと全集を読んだのか。新興俳句であれ社会性俳句、前衛俳句であれ、過去の俳句動向について生半可な知識でいい加減な言説をまき散らすだけでなく、本腰を入れて調べてみた俳人がいるのか。ほぼいない。
俳句を書くことに一生懸命だと言うのなら、毎年三千句くらい作って毎年句集を出し、自費出版だろうと質と量で俳句への情熱を示してみたのか。五年に一度くらい句集を出し、達成感いっぱいでホクホクしながら腹の底では反感を覚えている先輩俳人から認められ、なにかの賞が落ちてくることを期待していたのでは埒が明かない。そんなだから、新人賞などを与える側が、賞とバーターに結社所属を強く期待するのは当然のことだ。似たもの夫婦のようなものだ。また賞をもらっても俵万智のように一般読書界の支持を得られなければ、大新聞や有名文芸誌の埋め草エセー仕事がチラホラ舞い込むくらいで、次の受賞者が決まるまでのプチバブルで終わる。メディアと顔つなぎできても、しょせんは何を頼んでも気軽に書いてくれる便利な埋め草ライターだ。メインライターになれることはまずない。
政治の世界と同様に、俳壇では実質的権力を握った俳人たちは沈黙を守って粛々と賞や大新聞、テレビの選者などを独占し、主流から外れた俳人たちは、口を開けば主流派を攻撃する。うんざりするほどその繰り返しだ。要はどちらも志が低い。俳句が文学だと言うのなら、俳壇を飛び越えて一般読書界に打って出るような句集や散文集を企図すればよい。新しい試みを自分で創り出し、自分の読者を創り出す努力をすればよい。俳壇内インサイダーでありながら主流派に中途半端に刃向かい、その上認められようなど甘い。自分の立ち位置すら決められない書き手に何ができる。文学が個の表現だと言うならブレてはならない。俳壇が停滞している責任は伝統派前衛派を含むすべての俳人にある。
ただ俳壇ドメスティックの仕事ではなく、広く世の中にアピールできるような新しい仕事を始めれば、角川俳句ではなく、きっと月刊俳句界の方が先に注目してくれるだろう。総合誌に限らずメディアは〝優れた作家〟が現れなければ、結局のところ打つ手を持たない。最後のところ、メディアの盛衰は著者次第なのだ。そして優れた作家は、そうなろうと強く志し、実際に試行錯誤を重ねて努力しなければ絶対になれない。月刊俳句界に限らないが、メディアの将来は優れた作家が現れるかどうかにかかっている。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■