宇多喜代子さんの連載対談『今、会いたい人』のゲストは中牧弘允さんで、人類学者だが『カレンダーから世界を見る』などの著書のある暦の専門家でもある。言うまでもなく俳句には季語があり、季節にとてもうるさい。しかし暦的に言うと季節はそんなに単純な区切りではない。
中牧 (前略)例えば日本の春夏秋冬はいつか。四つの説があるのです(中略)。一つは俳句のように二十四節気に基づき、立春から立夏の前日までを春と考えるものです。これを「節切り」といいます。
二つ目は「月切り」です。旧暦の一月から三月までを春、四月から六月までを夏、七月から九月までを秋、十月から十二月までを冬とします。そのため旧暦の八月は真ん中の秋なので中秋と言います。それぞれの季節に初(春)、中(春)、晩(春)がある。(中略)
さらに新暦でも、天文学と気候学では春夏秋冬が異なります。これが三つ目、四つ目の分け方です。天文学は春分から夏至の前日までを春としていますが、気候学では三月ごろから五月ごろまでが春、とアバウトな区切りになっているのです。
こういう違いがあるので、少なくとも四種類の春夏秋冬を私たちは使い分けながら暮らしています。
宇多 俳句は節切りですね。これを今使っているのは俳人だけではないでしょうか。
中牧 いいえ。新聞、ラジオ、テレビなどマスコミでいわれる「暦の上では」は節切りの方です。(中略)
宇多 (前略)で、気候学というのは?
中牧 桜の開花や暖かくなってきたからという判断基準で、この時期が春だという決め方ですね。
宇多 それでは列島の各地によっても違いましょう。暦はなかなか一筋縄ではいかない。
(連載対談「宇多喜代子の「今、会いたい人」」第四回 ゲスト・中牧弘允)
中牧さんがおっしゃっているように、日本人の季節感は「節切り」「月切り」「天文学」「気候学」に大別できる。節切りは言うまでもなく中国伝来の二十四節気に基づくもので、冬至、小寒、大寒、立春etc.と俳人にはおなじみの季節名が二十四個並ぶ。月切りは旧暦(太陰太陽暦)の月ブロックで季節を表す方法である。七月から九月までが秋になるが、八月を「中秋」と呼んだりするので俳句と無関係ではない。天文学と気候学は新暦(グレゴリオ暦)に基づいている。天体の動きで季節を表すのが天文学で、気候学は実際の自然現象を参照して季節の区切りとする。どの暦を使っても実際の季節感とは微妙なズレがある。
またもっと大前提的なことを言えば、現在はグローバリズムの時代なので、たいていの国で暦(カレンダー)はグレゴリオ暦が採用されている。しかし日本で平成の元号が採用されているのと同様に、各国独自の暦が存在する。タイは仏暦だしイスラーム諸国は当然のことながらイスラーム暦である。ヒンドゥー暦もある。日本で季節感や記念日が旧暦に基づいているのと同様に、世界各国でも新暦に旧暦などが重ね合わされているわけだ。中村草田男の代表句「降る雪や明治は遠くなりにけり」の季語は「雪」だが、元号もまたある時間感覚を呼び起こす要素(言葉)である。
もちろん季節に敏感だとはいえ、俳人だって窓を開けて「風薫るなぁ」と実感して俳句を作っているわけではない。まず表現したい内容があって、それに合った季語を頭の中で探し、見つからなければ歳時記などを開くのが普通だろう。季語を選んでいるうちに、内容的には春より冬の方が合うように思えてきて、春に作った句が季語冬になってしまうことだってあるはずだ。それを考えると季語は言葉である。暦と実際の季節感にズレがあるのと同様に、俳句でも実際の季節と表現内容の間でズレが生じる。つまり季語は一つの決まり事である。
この決まり事が俳句では重要だ。むしろ俳句は決まり事そのものだと言ってもいいようなところがある。五七五に季語が〝俳句定型〟であり、ほとんどの俳人がこの俳句定型を守って句を詠んでいる。ただその根底は曖昧である。曖昧だからこそ、俳人は教条主義に傾きがちになるのだとも言える。余計なことは考えずに五七五に季語の決まり事を守って、その中で個人にできる工夫をこらせばよいのだということになる。しかし俳句人口が一千万人もいると言われるのに、ほとんど誰一人俳句の根底的原理を探ろうとしないのはいささか寂しい。
宇多さんと中牧さんの対談でも出てくるが、俳句は今や世界中で詠まれている。世界は広いから季節感も様々だ。雨期と乾期しかないエリアもある。日本と同じように四季があってもその捉え方は文化伝統によって様々だから、日本の歳時記をそのまま適用することはできない。「けり」「かな」の切れ字が外国語にないのは言うまでもない。そのため外国語で俳句を詠むときは、各国言語の単語数を五七五に合わせ、季語に相当する言葉を一つ入れるようにしたりする。どうしても五七五では座りが悪いときは、可能な限り季語的言葉を含めた短詩になることもある。こうなってくると決まり事とは何かが問題になってくる。
俳句の本質を考えないと俳句は単純明快な形式となり、それを海外俳句にも適用するわけだが、それでいいのだろうか。海外俳句の実態は日本の俳人たちが考えているのとは違う質を持っている。国によって俳句に魅力を感じる理由は様々だが、欧米ではパウンドらのイマジズムの時代から、自我意識文学(文化)の反措定として俳句が愛されている。つまり海外での俳句人気は、形式を超えた俳句文学の特徴を捉えている側面がある。それをフィードバックしない手はないだろう。何も考えずに本家の先生の座に安住していると、そのうちブラジル人あたりから俳句の本質を論じられて慌てることになりかねない。
俳句形式とその本質には微妙なズレがある。イデアリズム的に言えば本質が形式として現れているはずなのだが、日本文学の場合、事はそう簡単ではない。本質と形式の関係は相関的であり、形式という強靱な外皮によってのみ曖昧な本質がぼんやりと姿を現すという面もある。ただこの相関関係は揺すらなければその本質を把握できない。前衛と呼ぶ必要はないが、きっちりと俳句定型にはまった作品より、どうしてもそれを外れてしまうような作品の方が俳句本質と形式の関係をよく理解できる面がある。
完璧な闇を欲しがる巣箱かな
花篝ともされてより修羅となる
陽炎を味方にしたる猫であり
屋根替やひかり背負へるひと一人
筍のこれは飛び火と申すべく
(櫂未知子「ひかり」)
今号は「創刊65周年記念」として「豪華65名による特別寄稿!」の作品特集が組まれている。一人五句に四〇〇字ほどのエセーを添えた特集である。この作品数ではなかなかオリジナリティーを発揮するのは難しいが、櫂未知子さんの作品で手が止まった。「完璧な闇を欲しがる巣箱かな」や「屋根替やひかり背負へるひと一人」は無季俳句だが、季語は冬でも春でもいいだろう。
多行や奇矯な観念語で新し味を演出できる時代は終わったと思う。櫂さんのように作家の自我意識――表現意欲が素直に俳句形式に沿っていて、わずかだが既存の俳句を逸脱してゆくような作品の方が新しい。俳句王道をゆきながらそれを二重映しにしているような句であり、無理なく俳句文学の本質に接近している気配がある。俳句では自然を中心とした外界描写で人間の自我意識が表現されるのであり、その逆であってはいけないのである。
岡野隆
■ 中牧弘允さんの本 ■
■ 宇多喜代子さんの本 ■
■ 櫂未知子さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■