TBSテレビ
日曜21:00~
【出演】
役所広司、山﨑賢人、竹内涼真、上白石萌音、風間俊介ほか
【原作】
池井戸潤
【脚本】
八津弘幸
【演出】
福澤克雄、田中健太
【音楽】
服部隆之
あり得ない。寝てしまった。しかも終わるまで目が覚めなかった。池井戸潤の原作ドラマで、である。あの『半沢直樹』や『下町ロケット』の池井戸潤、しかも主演は役所広司だ。設定は『下町ロケット』に似て、経営が思わしくない、しかし高い技術を持つ中小企業だ。そこがランニングシューズを開発するのに、資金繰りに苦労する。眠くなる要素などない、はずだ。
『陸王』と呼ばれるランニングシューズを開発するのに資金繰りに悩み、従業員に支えられ、苦労の工夫を積み重ねてゆく。しかしそれに本当に共感し、我が事のようにストーリーを追っていくのは、どういう視聴者だろう。多かれ少なかれ人は苦労を抱え、目標に向かって工夫し、周囲の励ましを受ける。その意味ではリアリティがあるが、身につまされるというだけでは観ていられない。
ドラマとは何か、ドラマチックとはどういうことかという考察にとっては、これ以上の題材はない。これまで非常にドラマチックに映った池井戸潤原作ドラマとの最大の違いは、敵の姿がはっきり見えにくい、ということにあろうか。もちろん裏切りもあり、金融機関や大企業との対立の構図はある。しかしそれは我々が日常目にしたり、経験したりするものと変わらない。
我々が画面の中に見出したいものは、そのような対立から生じる我々の苦労が何のためのものなのか、という納得である。そこに大義があれば、苦労は報われると感じる。大義は万人を納得させるから大義なので、ドラマをドラマ足らしめるものだ。たまたま同じ経験をした者を共感させたり、逆に目を背けさせたりするだけでは、その他の者は退屈して寝てしまう。
大義は、池井戸潤原作ドラマについて期待されてきたものとしては、巨悪と呼ばれるものや世界のスケールを感じさせるものだったろう。巨悪に挑むだけの理由があり、そこで相手を右往左往させるだけで中高年を惹きつけた『半沢直樹』、小さな町工場が宇宙ロケットの部品を供給する『下町ロケット』、いずれも彼我の「大きさの差」がドラマをドラマチックにしていた。
すなわちドラマを評価する基準は、よく言われる「要素」だけでは不十分だ。大ヒットしたドラマと同じ要素、それに加えて豪華なキャストを張り込んでも、うまくいかないことはある。『陸王』は数字はとれているようだから、うまくいってない、というのは世間的には言い過ぎかもしれないが、やはりあまりうまくいってない感じがする。そういう感じを与えるものは、リズムの悪さだ。
リズムの悪さが、つまりは直接的な眠気の原因である。リズムが悪いというのは、ドラマの見どころとして仕込まれた要素と要素の間を移動してゆくときのスピード感、タイミングに問題があるので、要素の一つずつを吟味しても原因が見えてこない。要素の関係性をとらえること、その構造のバランスを図らなくてはならない。この場合には、主人公側と相手側の「大きさの差」が小さすぎる。
主人公側にとっては大きな敵であっても、視聴者一般から見れば「同じくランニングシューズやなんかを作っているどっかの会社」に過ぎなかったりする。売上高とか、そういう数字を比較しなくても把握できる圧倒的な落差が、古典的で悲劇的なドラマチックな感動を呼ぶ。構造的な平板さを「人情」で埋めていこうとしても、設計の問題がある機械にセロテープを貼るようなものだろう。
田山了一
■ 池井戸潤さんの本 ■
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