俳句は基本、文語体で書く。いわゆる「けり」「かな」「や」である。同じ日本古来の詩である短歌では口語短歌が生まれ、若手を中心に多くの実践者を生んでいる。もちろん短歌が口語一辺倒になることはないが、口語短歌は短歌史に大きな足跡を残すムーブメントとなるだろう。翻って俳句界を見ると口語俳句の意識的実践者は少ない。黛まどか氏のヘップバーン俳句など集団的試みもあったが、今ひとつ市民権を得られなかった。角川俳句の特集は例によって例のごとく、俳句は文語体で書く以外あり得ず、〝俳句は文語体だ〟という大前提でその技巧を極めましょうというものである。
日常的に文語体を使うことのなくなった現代においても、俳句は文語で作られることが一般的です。その理由とされるところを箇条書きにしてみます。
● 俳句の母体となった連歌の発句から現代の俳句まで、伝統的に文語て作られてきたから。
● 「や」「かな」等の切字が文語なので、「や」「かな」を使うためには文語で作るべきだから。
● 音数の関係からも、文語は五七五の定型との親和性が高いから。
● 文語を使うと簡潔で力強い調子が得られるから。
● 文語を使うと重厚感・緊張感がでるから。
さて、いかがでしょう。納得のいく理由があったでしょうか。
「どうも、ピンと来ない」という方のために、文語だからこその名句と言われる作品をあげてみます。
(白濱一羊「文語文法に使われないために」)
特集総論を白濱一羊氏が書いておられるのだが、申し訳ないが本質的説明になっていない。なぜ文語体なのかは、俳句作品を主観で選んでその特徴を、これも主観的に並べてみせれば十分らしい。白濱氏の主張は「純粋に正しい文語だけを使って作句できている俳人はどの程度いるのでしょうか。このような現状を理解した上で、可能な限り文語文法に従う努力をするというのが妥当と思われます」という言葉に尽きる。グチャグチャ思い悩まずに文語体で書きなさいということである。江戸時代以前はもちろんのこと、御維新から現代まで書かれた名句のほとんどが文語体なのだから、帰納的に俳句は文語体であり、飛躍して演繹的にも俳句は文語体だということだ。俳句は五七五に季語しか認められないという、例によって例のごときいわゆる俳壇保守派の主張と同じである。
もし地球上の大陸が地続きになっていて、その気になれば歩いて世界一周できるとすれば、いつまでも地球が丸いことを認めない人がいるだろう。俳句の世界の人たちは、視点を上げれば俳句が文学の一部に過ぎないことなど考えてみたことがないらしい。俳句国がすべて。そこには五七五+季語+文語の不可侵の神様がいて、俳人たちは神に絶対帰依してのどかに暮らしている。遠出しないから、どこまでも自分たちの神の土地が続いていると思っている。もし国内で無季無韻や多行俳句、口語俳句などの新たな試みに踏み出すと、それは魔女にたぶらかされているのだと指弾され、宗教裁判で断頭台に送られかねない。若い創作者はある程度は血気盛んだと思うが、保守主義の牙城のような俳壇風土によく耐えられるものだ。そういえば重信に「身をそらす虹の/絶嶺/・・処刑台」がある。五七五+季語と文語体を離れれば、処刑されても致し方なしと覚悟しているということか。
ただまあ俳壇では幼稚なトートロジーが通用するのだろうが、話し言葉はもちろん書き言葉も口語体である現代において、なぜ俳句では文語体で書くのが一般的なのか、と問いを発したのなら、その原理を可能な限り考えてみるのがごくごく普通の知性のあり方だと思う。俳句の原理的基本形が五七五に季語+文語体であっても、それを金科玉条とすることと、その原理を考えてみることはぜんぜん違う。うつむいて地面ばかり見つめ、自分の家が建っている土地が世界だと思っていたのでは何をやっても思考は発展しない。必要な草まで刈りたくなる。多様性も、広く高い視点も失われてしまう。
坪内 (前略)子規がぼくや宇多さんと大きく違うところは、ぼくらが表現しているのは俳句と文章くらいでしょう。ところが子規は漢詩、新体詩、短歌、写生文、水彩画。次々と変わってゆくんです。俳句をやったのは、最近のぼくの考えだと、だいたい明治の三十一年までくらい。
宇多 そのあとの最晩年は。
坪内 そのあとは短歌と写生文。俳句も作り続けるけれど俳句中心ではなくなる。正岡子規は、俳句は明治年間で終わるものだと思っていたので、今も続いているのは予想外のことでしょうね。自分たちは最後の俳人だから自由にやってもいい、と思っていたんですね。
宇多 何をもって最後と思っていたんですか。
坪内 子規の時代は俳句に対して風当たりが強くて、(中略)俳句は時代から取り残されようとしていた文芸だったんです。時代は小説になろうとしている。そうした時代で俳句はどういう文芸なのか、俳句の特色を発揮すればそれはそれで大事なものなのだ、自分が生きている間はこれをやろうと、というのが子規の考えだった。それで、明治三十一年くらいまでに、俳句の仕事をほとんどしてしまっているんですね。芭蕉、蕪村についても書いた。それ以降は俳句については新しいことに挑んでいない。
(「第三回 宇多喜代子の今、会いたい人 正岡子規の日々」坪内稔典×宇多喜代子)
宇多喜代子氏の連載「今、会いたい人」のゲストは坪内稔典氏で、正岡子規について語っておられる。坪内氏がおっしゃっているように、子規は漢詩、新体詩、俳句、短歌、写生文を書くマルチジャンル作家だった。また「俳句は明治年間で終わるものだ」と考えていた。この両者は密接に関係している。子規は俳人としての高い資質を持つ作家だったが、俳句のみを書き、俳人として生涯を終えようとは考えていなかった。子規の時代認識が短歌や写生文に誘ったのである。写生文は言うまでもなく小説を書くための手始めの試行だった。
子規派から夏目漱石という〝近代的自我意識作家〟が出現したことからもわかるように、ヨーロッパ文学を規範とした明治文学は、人間の強い自我意識を表現の基盤に据えたものだった。しかし子規は俳句が近・現代文学に逆行する非自我意識文学だと気づいていた。それが「俳句は明治年間で終わる」だろうという認識になっている。子規は俳句革新によって日本文学固有の特性に気づき、それは漱石の写生文小説に受け継がれることになるが、平行して短歌・写生文を書きティピカルな近代的自我意識文学のあり方を模索した。
歌人から小説家になった作家が多いことからわかるように、短歌文学は維新以降の自我意識文学にかなりの程度、対応可能だった。これに対して俳人から小説家になった作家はほぼいない。現在の俳壇風土ではこれからも出ないだろう。なぜ好んで思考停止の硬直状態に留まろうとするのか理解できない。はっきり言えば、たいていの俳人は頭が悪い。
よく知られているように、子規文学は高弟の高濱虚子と河東碧梧桐に継承された。虚子は非自我意識文学としての俳句を受け継ぎ、碧梧桐は自我意識文学としての俳句(の可能性)を受け継ぎ模索したのだと言える。その結果は一目瞭然であり、大局的に見れば現在まで虚子俳句が俳壇の主流だ。ほらみろと大喜びしても意味がない。なぜなのかを考えなければ俳句の本質的深化と発展はない。
俳句が近代的自我意識文学である現代に遅れ、表記方法としても現代に遅れる文語体を採用していることには理由がある。ただ伝統墨守一辺倒の俳人にそれを説明しても理解できないだろうし、理解する気もまったくないだろう。徒労だ。少なくとも角川俳句のノウハウ主義には不要な議論である。この場合のノウハウとは小手先のテクニックのことである。興味のある俳人はご自分で考えてごらんになるといいと思う。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■