与謝蕪村に「お手討ちの夫婦なりしを更衣」という有名な句がある。「なんらかの理由でお手討ちになるはずだった夫婦が許されて、今は仲良く衣更えをしている」という意味である。パッと読むと何のことやらという句だが、意味が腑に落ちると魅力的に思われてくる作品の代表だろう。
俳句はうんと短い表現だから、読者をうーんと考えさせてしまうような句は基本的に嫌われる。特に現代は膨大な量の句集や俳誌が刊行されている。読んですぐ理解できない句はスルーされてしまうのが普通だ。しかしそんなことばかりしていたのでは、サラリとした平明俳句ばかりになってしまう。意味を詰め込むのが難しい器だからこそ、詰め込めるだけ詰め込んでみるのも大事だ。ただ意味と修辞の関係は微妙で、難解な表現を読み解いて意味がわかったとしても、必ずしも秀作になるとは限らない。種明かしのあっけなさでかえって駄作になることも多い。
蕪村には「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな」の作もある。「お手討ち」とは別のレベルで複雑な意味を持つ。鳥羽殿は平安時代後期の鳥羽上皇のことで、強権的な院政を敷いたことで知られる。後白河天皇を即位させたことから崇徳上皇との間で確執が生じ、鳥羽上皇崩御直後に保元の乱が勃発した。蕪村句はこの動乱を下敷きにしている。「台風の中、鳥羽上皇の離宮に五、六騎の武者が急いで馬を走らせている」という意味だが、歴史モノ俳句であり、かつ今目の前で起こっているような切迫感がある。
こういった様々なレベルで複雑な意味を持つ句が蕪村にはけっこうある。やってみればわかるが複雑な句を作るのは難しい。技術だけでなく俳句の読解力も問われる。
応へねばならぬ扇をつかひけり 山尾玉藻
こういう句を読むと、関西の芸の奥行きを思う。鮮やかに切り取られた景と、そこに流れている時間、とりわけ「間合い」というものが描かれているからだ。「応へねばならぬ」のは前に相手がいて、何事かを問いただされており、適当に応じることが出来ない状況だからである。使っているのが団扇でなく扇子でもあることも、改まった場面を思わせる。「応へねばならぬ」ことが、言いたくないことなのか、決断しなければならないことなのか、汗ばむ季節が追い打ちをかける。盛んに鳴く蟬の声までが聞こえてきそうだ。その、やや息苦しいような空気を緩めてくれるのが「扇」である。扇を使えば視線を外すことができる。風を送りつつ、相手との距離を保っているような趣もある。
(井上弘美「題材の力を引き出す」)
蕪村俳句とはまた異なる、状況説明を極限まで切り詰めた作品である。井上氏の読解も鮮やかで、この句で効いているのは「扇」だ。一つの物だけで状況と心理を表現している。複雑な俳句を作る際にまず必要なのは、こういった正確で知的な読解である。
茶封筒また取り出せる生身魂 山尾玉藻
盆は先祖の霊を迎えるとともに、生きている父母、祖父母など目上の人を「生身魂」として尊ぶ風習がある。歳時記によれば室町時代以降、文献にも見えているというから伝統ある習わしである。其角に〈生霊魂酒のさがらぬ祖父かな〉という句がある。老いて酒量の落ちない、矍鑠たる祖父を讃えているのだろう。其角の表記は当て字かと思われるが、歳時記の傍題には「生御魂」「生見魂」「生盆」がある。
(同)
井上氏の読解をもう一つ。玉藻と其角の類句を検討しておられるが、玉藻の方は物故した近親者を偲ぶ句で、其角は存命の酒豪の祖父を詠んでいる。「生霊魂」を使った句は少ないので、いかにもペダンティックな其角である。また厳粛な言葉に「祖父」を組み合わせているのも其角らしい。いずれにせよ「生身魂」や「生霊魂」という言葉の来歴を知らなければこういった句は作れない。また表記を「生御魂」「生見魂」「生盆」とすれば、自ずから表現する意味内容が違ってくる。
で、今月号の特集は「人を癒やし、己を癒やす「鎮魂の想い」の詠い方」である。例によって例のごとく、実例をあげながら俳句初心者に鎮魂句を書くヒントを与えるための特集である。特集に掲載された句は引用しないが、東日本大震災や熊本大震災を題材に詠まれた句がけっこうある。なんにも言いようがない。上手くても下手でもそれらは批評の外にある作品群だ。先の大戦での戦没者遺句も同様である。
ただ批評の範疇外にあるのは素人の俳句だけだという線は引けると思う。プロの物書きは、俳句であれ短歌、自由詩、散文であれ、鎮魂の意図を込めた作品にどうしようもなく自己顕示欲が混じってしまうことを知っている。物言わぬ死者に生者が語りかけるとき、作品は実際には生者だけの世界に向かっているからである。そこに偽善と葛藤を感じなければ本物の表現は始まらない。つまりこの微妙な敷居をどう超えるのかが、真のプロフェッショナル作家の力量である。
夢に杜国が事をいひ出して、涕泣して覚ム。
心神相交時は夢をなす。陰尽テ火を夢見、陽衰テ水を夢ミル。飛鳥髪をふくむ時は飛るを夢見、帯を敷寝にする時は虵を夢見るといへり。睡枕記・槐安国・荘周夢蝶、皆其理有テ妙をつくさず。我夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想散乱の気、夜陰の夢又しかり。誠に此ものを夢見ること、所謂念夢也。我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労をともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、其志我心裏に染て、忘るゝ事なければなるべし。覚て又袂をしぼる。
(芭蕉『嵯峨日記』)
特集巻頭に高橋睦郎氏が「死者への返礼-人を悼むということ」という特別寄稿を寄せておられ、その中で芭蕉にの『嵯峨日記』を引用しておられる。芭蕉晩年の作で唯一残された日記である。引用は芭蕉が寵愛した弟子・杜国の死を悼んだ箇所である。杜国は『笈の小文』の旅に同行した人として知られる。
芭蕉には「塚も動け我泣声は秋の風」といった追悼句もあるが、杜国追悼句はない。『嵯峨日記』の記述のみである。ただ追悼句は詠めないことがよくわかる散文である。この文章、同時代の西鶴らのそれと比較すればすぐわかるが、ほとんど哲学である。荻生徂徠らによってようやく儒学は武士らに普及し始めていたが、俳諧師で芭蕉ほど漢籍に精通していた者はいない。当時としては超難解な漢文体の和文である。
杜国の死の悲みは、芭蕉が彼の全知性を駆使したかのような漢文体の哲学的文章で表現されている。様々に思い惑い、考え抜いたのでそれが哲学的文章の形を取った、取らざるを得なかったのである。芭蕉俳句の深みはその漢籍の教養によって支えられている。うんと高い知性を持っていたがゆえに、平明な俳句を詠むことができたのである。平明俳句をお手本にその表現を真似ていたのでは優れた表現は生み出せない。
蕪村もまた漢籍に精通した人だった。漢籍の知識がなければ南画は描けないのである。また彼は目の人だった。「ほととぎす平安城を筋違に」にしても優れた目の体験がなければ作れない。漢籍の知識と画家の目が蕪村俳句を複雑にし、単純にもしている。角川俳句の特集はいつも簡単さをウリにして、先行する名作・秀作をなぞればあなたにも名句が出来るといったアプローチである。しかしそんなことで先人たちに比肩できるはずもない。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■