アンディ・ウォーホール『キャンベル・スープⅠ』
一九六八年 紙・シルクスクリーン 各八八・九×五八・四センチ 富山県美術館蔵
現代絵画の基礎を作ったのは印象派の画家たちだが、彼らはまだ十九世紀的な絵画伝統を引きずっていた。アートが完全にわたしたちの〝現代〟に食い込んでくるのは、ダダイズムとシュルレアリスムの発生以降のことである。ダダとシュルレアリスムも一筋縄ではいかず、ピカソやモディリアニ、それに藤田嗣治らのエコール・ド・パリの画家たちは、微妙にシュルレアリスムなどの〝イズム〟からズレていた。彼らは本質的に従来通りの絵描きだった。
エコール・ド・パリの画家たちは、第一次世界大戦に代表される社会変革に大きく精神を揺さぶられた。その社会動揺をいち早く作品化したアンドレ・ブルトンらの文学者たちに影響を受け、次々に従来的概念を覆す作品を生み出していった。シュルレアリスムを代表する画家はサルバドール・ダリだろう。彼は古典的絵画技法を身につけた画家である。その上にシュルレアリスムがきっちり乗っかっている。それ以上でもそれ以下でもない。ダリ作品はもちろん今でも評価が高いが、ピカソやマティスらと比較すればその画風は狭い。ピカソ、マチス作品には、シュルレアリスムなどのイズムでは片付けられない広がりがある。
サルバドール・ダリ『アメリカのクリスマスのアレゴリー』
一九四三年 板・油彩 四〇・五×三〇・五センチ 富山県美術館蔵
ただ第一次世界大戦に続き、二次大戦でもヨーロッパはアメリカの参戦によって紛争を解決せざるを得なかった。その結果、ヨーロッパ諸国は多くの植民地を失い、世界の政治・経済の中心が決定的にアメリカに移った。この変化は中世から続く王制の瓦解をもたらした第一次世界大戦に勝るとも劣らぬ衝撃だった。その変革の嵐の中で生まれたダダイズムとシュルレアリスムが、様々に形を変えた〝前衛〟として作用し続けた。その影響力は一九八〇年代初頭まで半世紀を超えて残ったと思う。
第二次世界大戦後の初期前衛アートは、新しい社会を模索・構築する世界情勢に呼応して、ひたすらに未知の表現領域を求める楽天的で向日的なものだった。明るいポップ・アートがその典型だろう。複製芸術によるアートの大量生産はアートの常識を覆すものだったが、その巨大さも特筆に値する。ポップ・アーチストの代表作は大作が多く、大きな壁のある広いアメリカンハウスにしか飾ることができない。大量消費社会の拡大主義は作品の大きさにも表れていた。
しかし戦後社会は急速に複雑化していった。当初の楽天的希望が、じょじょに失われていったのだと言ってもいい。それに合わせて前衛アートも複雑で難解なものになっていった。二十世紀前衛アートの端緒であるシュルレアリスムが社会変革思想を持っていたように、一九六〇年代以降のアートもなんらかの思想をバックボーンにしようとした。しかし社会全体に共通する思想はなかなか見つからなくなった。七〇年代頃から盛んになるコンセプチュアルアートは、局所的社会思想か作家個人の執着を拠り所にするのが常だった。また複雑化する社会情勢はより多くの言葉(思想)を必要とするようになったが、それに反比例するように視覚芸術としてのアートの魅力は薄れていった。
ヨーゼフ・ボイスの、いつかは溶けてなくなる脂肪の塊の作品を見たときの衝撃は忘れられない。ボイスの思想は複雑で多岐に渡る。ただボイスあたりが二十世紀的現代アートの終着点だったのではないかと思う。初期のボイスはパフォーマンスという言葉を嫌い、アクションと呼ぶのを好んだ。ボイスのアクションは緊張感に満ちた殺伐としたものだった。片足に長い板をつけ、汗だくになり唇を舐めながら真っ直ぐに前を見つめ、数十秒に一度、九十度だけ方向を変えるようなアクションだった。その真摯なアクションは、もう動けないのだ、自由に動き出せる領域などないのだということを強く感じさせた。
いつの時代でもアート界のスターはいたが、二十世紀的な未知の表現領域を求める前衛アートはじょじょに行き詰まっていった。もちろん今でも優れたコンセプチュアル・アーチストはいるが、かつてのような勢いはない。そのような状況の中で、また新たな絵画動向が生まれつつある。それはいっけん揺り戻しのようだがそうではない。絵画芸術の原点に戻って新たな作品を生み出そうとする根源的前衛動向である。
長谷川利行、靉光、松本竣介、寺田政明、麻生三郎、熊谷守一ら池袋モンパルナスの画家たち――言い換えれば具象抽象の画家たちの作品の評価が上がったのは、この三十年ほどでシュルレアリスムやフォービズムといったイズムの魔力が溶け、彼らの絵本来の魅力を感受できるようになったからである。またそれはどこかで九〇年代以降のバルテュスやベーコン、ジャコメッティらの高い評価とつながっている。
ジャコメッティは一時期アンドレ・ブルトン主宰のシュルレアリスト名簿に名前が記載されていたが、除名されシュルレアリスムから距離を取るようになった。バルテュスやベーコンもシュルレアリスム全盛期の人だが、最初から同時代最大の芸術運動に背を向けた。彼らは二十世紀的前衛運動のメインストリームにはいなかった。しかし未知の表現領域を追い求める前衛アートが頭打ちになるにつれ、彼らがアートのメインストリームと見なされるようになっていった。デュビュッフェらのアンフォルメルを含む具象抽象がクローズアップされ始めたのである。
サイ・トゥオンブリー『マグダでの十日の待機』
一九六三年 キャンバス・鉛筆、クレヨン、油彩 一〇〇×一〇四・一センチ 国立国際美術館蔵
それは二〇世紀的な前衛アートの伝統が残るにせよ、絵画が絵画本来の基盤に戻ってきたことを示唆している。絵の原理は色と線と形である。確かにアートは文学などに比べ、なんでもできるより自由な表現ジャンルだ。ただいつだって人間が引いた一本の線が、ある画家にしか出せない色がわたしたちを魅了する。サイ・トゥオンブリーは作品を所有してみたい画家の一人だ。この画家の落書きのような作品が、なぜ魅力的なのかは正確に説明できない。しかし何点見てもサイ・トゥオンブリーは素晴らしい。絵画ギリギリの作品なのだ。
人間の営みの常として、今後もアートの世界では、原点回帰と未知の前衛を求める時代が交互に到来するだろう。ただどんなに小品でも、どんなに単純でも、人間が生み出した色と線と形がアートの基盤であることは変わらない。ピカソは生まれながらの高い絵画伎倆を持った天才と言わざるを得ない面があったが、マチスが引く一本の線に激しく嫉妬した。マチスの線は神業なのだ。晩年のマチスは病気と体力の衰えで絵筆が握れなくなった。しかし色紙を切ってジャズ・シリーズなどを作った。やってみればわかるが、ハサミで色紙を切っでもあんなにシャープな線は出ない。マチスは線一本だけでも美術史に君臨している。
マルセル・デュシャン『トランクの箱』(特装版)
一九四六年 デュシャンの主要作品の複製写真およびレプリカ、箱 四一・二×三八・六×九・六センチ 富山県美術館蔵
ご多分に漏れず大学生の僕の知恵熱出発点はマルセル・デュシャンだった。東野芳明さんの大著『マルセル・デュシャン』を読み、当時見ることができる限りのデュシャン作品を探して美術館を回ったりした。富山近代美術館にはリチャード・ハミルトンの『大ガラス』のレプリカが開館当初からあった。デュシャン兄のジャック・ヴィヨン彫刻も所蔵されていた。別の兄レーモン・デュシャン=ヴィヨンも画家で、妹のシュザンヌも作品を残している。
マルセル・デュシャンは一八八七年(明治二十年)生まれのフランス人で、アメリカ国籍を取得して、一九六八年(昭和四十三年)にニューヨークで八十一歳で没したアーチストである。第一次世界大戦の騒乱を嫌ってアメリカに移住し、第二次世界大戦前後からニューヨークに定住するようになった。ただデュシャンの作品は二次大戦前に作られたものがほとんどだった。アート界での評価はどんどん上がっていったが、二次大戦後は作品を発表しなくなった。しかしデュシャンは秘かに作品を制作し続けており、死後に遺作の立体作品『(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ』がフィラデフィア美術館に収蔵された。
『トランクの箱』は、デュシャン自身の手になる彼の作品のレプリカである。フランスからアメリカに移住した際に持っていったトランクをアイディアの源にして、大きな箱の中に自らの代表作のレプリカを詰め込んだのである。写真で見るとコンパクトだが、全作品を拡げるとかなり大きい。デュシャン好きにはお馴染みの作品ばかりだが、箱の中身すべてを見ることができる機会はめったにない。
晩年のデュシャンにピエール・カバンヌがインタビューしている。カバンヌの「まだ『トランクの箱』を制作していただけるのですか?」という質問に「時間はかかりますが作ります」と答えている。このインタビューでデュシャンは「お金はわたしの頭の上を通り過ぎていった」とも答えている。困窮した気配は一切ないが、デュシャンは生活のために作品を作らなかった作家である。
美術史はデュシャン以前と以後で変わると言われる。そのくらい巨大な存在だ。男性用小便器に『泉』とタイトルを付けて、世界で初めてレディ・メイド作品を展覧会に出品したことはあまりにも有名だ(主催者によって撤去されその後行方不明になった)。デュシャンはアートを油絵やブロンズ彫刻から解放した。アートを何でもアリの世界に解き放ったのはデュシャンなのだ。作品数は非常に少なく、晩年は表向きアートの世界から引退したと思われていたが、それでも多くの人がデュシャンの動向に注目していた。彼の高い知性、その美術を巡る認識そのものがアート界に影響を与え続けたのである。
僕がアートに興味を持ってから三十年以上が経ち、その間に様々な作家が新たな興味の対象になり、また一時は熱中した多くの作家が関心の外に去って行った。しかしデュシャンはいつも別格だった。一つ目の理由は彼が〝初めての人〟だからである。アートに限らないが、どの芸術ジャンルでも新たなことを始め、それが数十年、時には一世紀以上に渡ってあるジャンルの基礎となった作家がいる。デュシャンはそういう作家である。
二つ目の理由はデュシャン芸術の確信の強さである。デュシャンはダダイストである。第一次世界大戦の惨状を目の当たりにして、既存の美術制度を徹底的に破壊しようと決めた。少し乱暴な言い方をすれば彼は虚無主義者だ。多くの芸術家がデュシャンのように第一次世界大戦にショックを受け、ダダイストとなった。しかし破壊の虚無にずっと留まり続けるのは難しい。シュルレアリストはアートの超現実によって悲惨な現実世界を変えようとしたわけだが、その道筋は正しい。しかし原点にはダダがある。その原点に留まり続ける者も必要だ。結果としてデュシャンだけが原点に留まり続けた。彼は原理主義者である。
マルセル・デュシャン『自転車の車輪』
一九一三/一九六四年 木製スツール。自転車の車輪・手を加えたレディメイド 一二六・五×三一・五×六三・五センチ 京都国立近代美術館蔵
人間が生み出した悲惨はそう簡単に単純化できない。かつての圧制者を純な敵とみなし高々と希望を掲げることは、必要だが原点から人間を遠ざけてゆく。その時々の社会・政治状況に飲み込まれてゆく。虚無主義的ダダイストの心もまた怒りで沸騰している。しかし複雑な人間の力の総合である虚無の底を見た者は、単純な批判にも希望にも赴くことができない。その純粋とも矛盾しているとも言える人間精神から、わずかに作品が生み出される。それがデュシャンが残した少数の作品だ。
アートの感受の仕方は人それぞれだが、『自転車の車輪』という作品を厳粛な気持ちで見てはいけないと思う。笑うか泣くかどちらかだ。ベーコンの作品にも表現されているが、本物の虚無主義者は笑う。無をまざまざと見た禅の高僧もそうだ。『自転車の車輪』をシュルレアリスム的な「遠い物の連結」と呼ぶ者はいない。写真にあるように、車輪は回すためにある。回さなければならない、あるいは回りたがる。ただそれはカラカラと回るがどこにも行かない、どこにも届かない。それがダダイズムである。
ジャン・デュビュッフェ『よく眠る女』
一九六〇年 キャンバス・油彩 九二×一三〇センチ 富山県美術館蔵
ジャン・デュビュッフェは一九〇一年(明治三十四年)生まれ、一九八五年(昭和六十年)に八十四歳で没したフランスの画家である。本格的な画業を開始したのは四十歳過ぎからである。アンフォルメル運動の主要作家の一人とみなされている。アンフォルメルはフランス語で「不定形」の意味で、画家の表現欲求に忠実に、シュルレアリスムよりもさらに抽象的な絵画を生み出した。『よく眠る女』のように具象抽象の絵も多い。ただ時代はポップ・アートやコセプチュアル・アート全盛期であり、デュビュッフェの評価が高まってきたのも比較的近年のことである。
またデュビュッフェはアール・ブリュットの提唱者としても知られる。アール・ブリュットはフランス語で「生の芸術」の意味で、「生」は日本語では「なま」か「き」と読む方がしっくりくる。アンフォルメルにも共通するが、デュビュッフェは作為のない人間の創造活動を重視した。アール・ブリュット運動では精神障害者の作品などをコレクションした。この活動はアメリカにも広がり「アウトサイダー・アート」と呼ばれるようになるが、その名が示している通り、デュビュッフェの探求とは微妙にズレている。
とても言いにくいが、デュビュッフェのアール・ブリュットが一般に知られるようになってから、日本でも多くの自治体が精神障害者らの作品展を開くようになった。ただその実態は福祉事業の一環という域を出ない。大手介護施設が出品した作品がまわりもちで大賞を受賞したりしているのが現実だ。アートに限らないが、作家の初発の動機はすぐに社会システムに組み込まれ変容してゆく。デュビュッフェが蒐集したアール・ブリュット作品は素晴らしい。アール・ブリュットはジャンルとして存在するわけではなく、それを選ぶ作家の目が優れていなければアートとしてはなんの意味も持たない。
デュビュッフェの『よく眠る女』も富山近代美術館のオープニングからあった。最初は当然、なんのことやらという絵だった。しかし優れた絵は目の記憶として残る。時間をかけてじょじょに精神の中で消化されてゆく。今回は富山県立美術館オープニング展覧会出品作の中で、具象抽象の画家たちの仕事を取り上げたが、その前には印象派からクリムトら世紀末ウイーン派につながる絵画動向があり、その後には戦後のポップ・アートやコンセプチュアル・アートの流れがある。その選りすぐりの作品を見ることができるのが美術館だ。特に富山県立美術館の所蔵作品は、失礼な言い方になるかもしれないが、地方美術館としては非常に優れている。常設展だけでも何度も通って見る価値がある。
富岩運河環水公園のスターバックス
最後にもう一つだけ富山の観光情報を紹介します。富岩運河環水公園には、運河に面した高台にスターバックスがある。知らなかったのだが、このスターバックスは「世界一美しいスタバ」と呼ばれているらしい。僕が行ったのは夕方で、テラスに人が鈴なりに座っているのが見えたので入るのを諦めたが、夜の十時半まで営業している。夜は環水公園がライトアップされるので遅い時間の方が楽しいかもしれない。富山駅から徒歩十分くらいである。
もう大昔、一九七〇年代に富山で最初にできたファストフード店はロッテリアで、バアさんが「裕司、シェィクちゅうもんを飲んでみたいねぇ」と言ったので、ハヒハヒ自転車を漕いで、溶けかかったシェイクを届けた思い出がある。富山県にある「世界一美しいスタバ」ねぇ。やっぱ時代は変わったのだ。改めて祝!富山県美術館開館であります。(了)
鶴山裕司
■鶴山裕司詩集『国書』■
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