カンナさーん
TBSテレビ
火曜 22:00~
テレビドラマの楽勝パターンだ。特に頑張ってないのに、なんとなくハマった、という。これは今だと、小説原作より漫画原作で発生しやすい。なんと言っても小説原作では解釈がものをいう。何も文学的な解釈は必要なくて、ただキャスティングや映像化の際に、どういう解釈をしたのか露わになる。尖った言い方だが、制作者の知性がもろに試されるところがある。
漫画原作では、イメージまでもが提示されているのだから、それを壊さなければよい。壊さないことを前提として、キャスティングなどのオリジナル部分は好感度の足し算がきく。足し算がきくのは、すでに揺るがないものがあるからだ。それをあえて壊さなければ、すべて好転のうちに、今度は視聴者が解釈する。いや厳密に言えば解釈しない。漫画の解釈を維持する。
テレビは受動メディアであるから、判断停止の美学を持つ。知的な解釈の美学がすべてではないから、これは存在する余地がある。判断停止の作品は、量が意味を持つ。類するものが大量に、しかも距離感を持って眺められたとき、時代の、あるいはその国や地域の無意識が語られることがある。
そのように観られると決まったものならば、しかしそれに意識的であればなお美しい。たとえばそこにあるのが型なのだ、型でしかないと認識するとき、画面は自ずと意味を失い、リズムだけが残る。それはそこでの口実として展開されている社会的意味を無化し、原作の存在からも放たれる。
だから渡辺直美には、いつも弾んでいてもらいたい。自転車でお尻を振り、軽快にステップを踏むべきである。画面におけるボリューム感は素晴らしい。画面分割が行われているかのごときマッスは、観る者を画面から引き離し、その意識をかたちと色彩の動きのリズムへと誘う。
リアルタイムの動き、実際に聴覚を刺激する音楽は、漫画にはない。テレビはそこにおいて漫画を圧倒する可能性があるし、漫画のすべてを前提とするならば、そこにおいてのみ可能性がある。そしてそれは何も裏切らない。視聴者は受け身のままでよいし、解釈や新解釈を強いられない。
そのとき物語は、できるだけありきたりがいいのだ。きれいごとでいいのだ。個性はいらないし、面白い登場人物もいらない。視聴者が共感しているから数字が高い、などというのは後付けの理屈だろう。共感すらする必要のない、物理的なリズムと画面分割、それがそこにあることを妨げることがない。妨げるものがなければ、テレビはついたまま、チャンネルを変えられることもない。
ただ、少しだけ観察と解釈を加えれば、そしてそういう掟破りはいつだって楽しいわけだが、このドラマの意味が無意味さにあることについて、一番意識しているのは、女主人公の姑を演じる斉藤由貴ではないか。祖母なり姑なりの役にはまだ若すぎるイメージではあるが、女主人公の夫の母親と言われれば、理屈ではあり得る。そういうなにやらハマらない感じのままに、とぼけた苛立ちのリズムだけを体現するのは、素晴らしい解釈である。
田山了一
■ 原作・深谷かほるさんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■