マツコ&有吉の怒り新党
テレビ朝日系列 毎週水曜23時15分~
テレビにとってのツカミとは、まずヴィジュアルだろう。やっぱり。マツコ・デラックスは今、数字がとれる人だが、その最初の、そして最大の要因はヴィジュアルのインパクトにあった。
ボリュームがあること。それも極めて思い切りよくボリュームがあることはそれ自体、何かに対する異議申し立てとなり得る。ヴィジュアル表現にとって最もみっともないことは、太っていることではない。中途半端に太っていることである。
男の髪が長い、というのも異議申し立てのひとつだ。マツコ・デラックスの場合は性別に対する異議申し立てである。ならば女性性の象徴である脂肪を、これでもかと身にまとわなくてはならない。若者の長髪が社会に対する異議申し立てであるのとは訳が違う。その場合には、満足の象徴である脂肪を徹底して削らなくてはならない。
全身で異議申し立てをヴィジュアル表現することに成功したら、言語表現でもそれを裏切ってはならない。そこでも決して裏切られることはないという信頼があってこそ、安定的な数字が約束されることになる。
マツコ・デラックスと有吉弘行の異議申し立ては社会の「建前」に対するものと、大雑把には言える。マツコ・デラックスはヴィジュアル的にも立場的にも、建前のインチキに文句を言う権利がある。有吉弘行はかつて企画のおかげで波に乗り、好調すぎる一時期を経て地獄を見たという文脈を持っている。すなわち社会や他人への不信感を露わにする権利を有しているということだ。確かに、そういう「芸」は新しい。
「マツコ&有吉の怒り新党」は女性層の視聴率が高く、裏番組で同じく女性をターゲットとしていた「グータンヌーボ」を終了に追い込んだという。番組の造りからすると、そのような性差が出るのは、ちょっと意外に思える。もちろん女性もまた、社会に対して異議申し立てをする権利があるから、マツコの「あれ、キライなのよね」や有吉の「どいつもこいつも信じられない」的な表情には共感するだろうが。
一方で、多くの女性は社会に受け容れられる夢を捨て去っているわけではない。ガールズトークとは、女性が女性であることのメリットを保持しながら、社会にいかに巧みに受け容れられてゆくかという戦略会議、勉強会である。「グータンヌーボ」はまさにそういう番組として善戦していたのだろうが、その「ファッション雑誌の女性編集者」的な欲張りが「ダイっキライ」といったマツコの本音に、吹っ飛ばされた形だ。
しかしながら「怒り新党」の躍進は存外、攻撃性以外のところに理由があるのではないか。華奢でおとなしい雰囲気の夏目アナウンサーが加わっていることで、女性たちのいろいろな面をふんわり受けとめているようだ。「グータン」が不要となったのは、夏目三久の存在が大きいかもしれない。
そしてこれも存外だが、視聴者から寄せられる「怒り」のお題にエキサイトし、毒舌を披瀝するのが見どころではない気もする。そう期待される文脈で一瞬、空気がしんと静まり、「…アタシ、これ自分でやっちゃうかも」「オレも…」といった妙な気の弱さと正直さ。真の本音は子供っぽい純真さからしか現れず、それを失うと魔法は解ける。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■