京都国立博物館開館120周年記念 特別展覧会『海北友松』展
於・京都国立博物館
会期=2017/04/11~05/21
入館料=1500円(一般)
カタログ=2500円
『浜松図屏風』海北友松筆 六曲一双 慶長十年(一六〇五年)
紙本金地着色 各一六一・五×一三五四センチ 東京 宮内庁三の丸尚蔵館蔵
『寒山拾得・三酸図屏風』海北友松筆 六曲一双
紙本金地着色 各一七八・一×一三五九・五センチ 京都 妙心寺蔵
友松は墨画だけでなく、もちろん桃山絵画の華である金地彩色画も描いている。『浜松図屏風』は下張りから慶長十年(一六〇五年)、友松七十三歳の作であることがわかっている。八条宮智仁親王の依頼で描かれた作品である。『寒山拾得・三酸図屏風』の制作時期や依頼者は不明だが、やはり友松七十代の全盛期の作だと推定されている。寒山拾得は言うまでもなく中国の伝説的禅僧(世捨ての乞食坊主)だが、寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の化身だと言われる。三酸図も中国の画題で、儒教・仏教・道教の教えが一如であることを説いている。三人の人物が顔をしかめているのは桃花酸という酢を舐めたからである。
江戸期以前の絵師は、いわゆる画家の自我意識を全面に押し出して好き勝手な絵を描くことはまずない。依頼者の要望に応じた作品を作り上げる。もちろん得意とする画題はあり、友松の場合は雲龍図である。相当数の雲龍図が残っていることは、友松がこの画題の名手として広く知られていたことを示している。ただ『浜松図屏風』や『寒山拾得・三酸図屏風』も依頼に沿って描かれたわけで、画題だけから絵師の特徴を明らかにすることはできない。しかし余白を大きく残したスッキリとした画面構成は友松ならではのものである。
いわゆる日本画は、パッと見るとどれもこれも似ているはずである。時代が古くなればなるほどその傾向は強い。ほぼ同じ中国の本歌(粉本)で絵の修行をし、画題も限られているので半ば当然である。そのため室町から江戸の絵師たちの特徴は、同時代の作品との対比によって把握するしかない。友松の場合は狩野永徳、長谷川等伯らが代表的な同時代の絵師である。
友松は狩野永徳に師事し、天正十八年(一五九〇年)の永徳の死を契機に狩野派を離れたようだ。友松五十八歳の時である。そのため友松の初期作には永徳の画法の影響が色濃い。狩野派を離れるということは、信長、秀吉、家康といった天下人から与えられる、城郭などの大画面で数の多い障壁画の集団制作から手を引くということである。そのため変化はじょじょに表れる。友松の全盛期が七十歳頃からと言われるのはそれゆえだ。ただ徳川家の御用絵師となった永徳門であることは、友松の画家としての地位を高めることに役立ったはずである。時代は下るが元禄時代に活躍した久住守景も狩野探幽(永徳次男の孝信の長男)に師事してから狩野派を離れたが、加賀前田家に召し抱えられるなど生涯日の当たる場所で活躍した。
戦乱で焼失してしまったこともあり、永徳作品の残存数はあまり多くない。もちろん永徳も様々な画題を手がけているが、その代表作はなんと言っても絢爛豪華な障壁画である。最晩年の『檜図屏風』(元々は八条宮邸の襖絵)に典型的なように、地中から栄養分を吸い上げて肥大化してゆくような樹木の幹がドカンと描かれている。永徳の注文主は時の為政者たちであり、その権威を荘厳するような絵画を描くことを求められていた。それがくっきりとした色と堂々たる動植物の形状で、見る者を圧倒する永徳様式を生んでいったのである。水墨画でも永徳は、余白を埋めるように木の枝が伸びてゆくような作品が多い。
等伯作品の特徴は、代表作『松林図』に端的に表れているような高い精神性である。禅的な幽玄を表現しているとも解釈できるが、等伯の出自を考えればそれはやはり密教的仏教の影響だろう。等伯は熱心な日蓮宗の信者だった。もちろん宗教的心性だけから作品を解釈することはできないが、永徳と見紛うばかりの堂々たる障壁画を描いても、等伯のそれは遙かに煌びやかである。永徳作品が襖から飛び出してくるような迫力を持っているとすれば、等伯作品は、描き込みの多い豪華な障壁画でも、サラリとした水墨画でも、画面全体で一つの完結した調和世界を目指しているようなところがある。
『白鷺図』海山元珠賛 海北友松筆 一幅
紙本墨画 一〇八・二×五一
センチ 東京 根津美術館蔵
『香厳上樹図』叱牛翁賛 海北友松筆 一幅
紙本墨画 一〇五・七×四八・三センチ 東京 根津美術館蔵
『白鷺図』と『香厳上樹図』は、元は押絵だったものを軸に改装している。押絵は屏風の一種で、一面(一扇と言う)ごとに絵を貼った(押した)実用的美術品である。雲龍図に明らかなように友松は墨画の名手だった。ただ晩年にこれほどたくさんの押絵を描いていることは、今回の展覧会を見るまで知らなかった。押絵もまた注文制作だが、比較的気楽に依頼できる絵だったろう。ただそれだからこそ、依頼者と制作者の意図がはっきり伝わってくる。
『白鷺図』の賛は方広寺梵鐘銘事件の際に、五山僧の中でただ一人家康の言いがかりだと発言したことで知られる海山元珠である。『香厳上樹図』の賛を書いた叱牛翁は未詳だが、妙心寺系の僧侶だったようだ。また『香厳上樹図』は『無門関』の禅の公案を絵画化したものなのだという。有名な考案ではなく、友松が禅に精通していたことがわかる。また賛をしたためているのは同時代の貴人や高僧がほとんどである。友松の人となりがよく知られていなければ、多くの貴人・高僧に賛を頼むことはできなかっただろう。
友松は絢爛豪華な桃山絵画を代表する絵師の一人だが、その画風は禅的な心性を基盤にしているように思う。貴顕に交わり社会的栄達を求めるのではなく、竹林七賢人や寒山拾得のように、表舞台とは距離を置いて風雅を楽しみ、高い知性を育む生き方である。戦国の世でもそういった生き方を求める人々に、友松は愛されたのではなかろうか。もちろん友松の心性は骨太だった。それは彼の代表作である雲龍図などを見ればはっきりわかる。ただそれゆえ一種の成金バブルとも呼べる桃山時代において、友松の絵がおとなしく見えてしまうのも確かである。
さて友松展を見終えるとと昼過ぎだったので、河原町までゆっくり歩いて行って和食屋さんに入った。お腹が空いていたので「カツ丼」と言おうとしたが、メニューを見てキツネ丼(ケツネ丼か)に変えた。なぜかちょっと質素な昼ご飯にしたくなったのである。ケツネ丼は油揚げと青ネギを卵でとじて、ご飯にぶっかけた丼飯である。もう三十年くらい前に北白川の定食屋でケツネ丼を頼んだときは、ご飯の上に油揚げ一枚だけが乗っていた。あそこまでシンプルなケツネ丼はもう絶滅したかもしれない。値段は税抜き千百円。九百円くらいかなと思って店に入ると、予想よりちょっとだけ高いのが京都流である。でも決して高すぎたりはしない。京都はいい町です。(了)
鶴山裕司
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