西村賢太氏が「或る不遜」というエッセイを書いている。すでに刊行が決まっている短篇集の刊行を先延ばしにしてもらったらしい。理由は「ここ何年かで私は何やら随分と厚顔になった」ことにある。西村氏が最も正統な私小説作家であるのは言うまでもない。藤澤淸造に関してはどんな研究者も及ばない日本屈指の権威である。ただ最近の小説でしばしば書いているが、西村氏は社会的名士になることを嫌がっている。氏は「現代における〝私小説〟が孕むところの不条理と不合理」についても書いておられるが、私小説作家には超えてはならない一線がある。その原点を一歩も動くまいとする姿勢は立派である。
また「十年前に最初の創作集を出してもらってから、今日までに単独の著作は四十四冊を数える」という記述にはちょっと驚いた。そうか、そんなに仕事してるのか、一年四冊超のペースだなと遠い目になってしまった。もちろん本は出せばいいというものではない。質が問題なのだとは言える。しかし西村作品を読みたいという読者ニーズがなければ、一年四冊ペースが成り立たないのは言うまでもない。西村氏は質量ともに膨大な作品数で読者を圧倒している。このくらい働かなければ働いたという充実感は得られないだろうな。そのくせ氏は忙しいという愚痴はあまりこぼさない。やっぱり立派である。
「わたくし、この町の町長をやっとりますNというものです。いや、まったく気づかずに申し訳ありません。この町にくるバスは一週間に一本だというのに。さあさ、中をご案内しますので、是非ついてきてください」
Kは狼狽した。無論のこと、バスの時刻について、である。
一転、そんなばかな運行があるものか、と頭の片隅はどこか冷静だった。案外人は常に正反対の考えを頭に同居させているものなのかもしれない。
「あの、大変申し上げにくいのですが、今日は日帰りで来ただけですので」(中略)
Nという男は小さな目を見開いた。
「それは難しいですなあ。車でお出ででないとなると・・・・・・」
「タクシーもありませんか」
(砂川文次「熊狩り――文學界新人賞受賞第一作――」)
砂川文次氏の「熊狩り」は、東京からX県T町出張所に出向を命じられた高級官僚のKが主人公である。T町で最初に出会うのが町長のNだが、彼は「この町にくるバスは一週間に一本」だと言う。つまり「熊狩り」は、NがT町に閉じ込められ抜け出せない物語である。主人公の名前が「K」であることはわたしたちにカフカの『城』を想起させる。測量士のヨーゼフ・Kがいつまでも城にたどり着けない物語だ。言うまでもなくカフカ的な法が主題の小説である。また「熊狩り」のドメスティックな雰囲気から安部公房の『砂の女』を思い出す読者もいるだろう。
もちろん先行テキストが思い浮かんでも問題はない。現代のポスト・モダン社会、あるいは高度情報化社会はプレテキストの網目状世界のようなものだ。ポスト・モダン社会初期の、遠いものを連結する一種のシュルレアリスムのような知の交錯は、一瞬の面白さを残して既に過去のものとなっている。成熟したポスト・モダン社会では網目状世界の根にまで届かなければならない。西村賢太が無意識的私小説作家ではなく、高い知性を総動員した意識的私小説作家であるように、先行作家たちが無意識的に切り開いた文化や思想の根を明らかにしなければならない。
「この町の生い立ちみたいなもの、誰かから聞いたかい」
生い立ち、が熊狩りを指しているのは言うまでもなかった。Kは、どこかあきらめたような面持ちのIを想起しつつ、あいまいにうなずいた。課長は、まあ、町を守るためだからさ、と切り出す。
「少なくなったが、今も時々町を出たがるやつがいるんだよ」
返事に困り、出汁だけが残るどんぶりにKは視線を落とす。
「いや、人と違う考えを持つことは悪いことじゃないんだがね、その場所場所にはそこにあった流れというものがあるだろう?」
Kはそういうものか、と想像し、視線を器から課長に移した。
(同)
作家の砂川氏は官僚組織に馴染みがある気配がある。ただその官僚組織の法は、主人公にとって外在的なものとして設定されている。主人公は元々そこに深く取り込められた人であるはずだが、法は、つまり「その場所場所にはそこにあった流れというもの」は、他者で町の住人である課長の口から語られる。法に抗う人なら元々はそれとは無縁の人でなければならない。また法の怖ろしさを知っている人ならば、その絶対の内部を彷徨い続けるはずである。
「怪我してるじゃないか」
Kは思わず大声をあげ、近寄った。小男は、明かりで二人の存在に気が付いていたであろうが、なおも歩き続けている。Kが駆け寄ろうとすると、Iがその肩に手をかけて静止する。
小男はついに両膝を地面につくと、肩で息をし始めた。ライトに照らし出された背中は、しかしどこか大きく見えた。小男を中心にして、赤い楕円が徐々に広がっていく。Kは言葉を失い、ただそれを見ることしかできなかった。
「これが熊狩りだよ。この町の伝統行事だ」
Iの言葉に、Kは返す言葉が見つからなかった。
(同)
KはT町に着いてすぐに、町長から前任者の役人が熊に襲われ行方不明になっていると聞かされていた。不可解な話だが、町で暮らし始めてしばらくして〝熊狩り〟の実体を知ることになる。町長に腰巾着のようにへばりついていた小男の秘書が、町から逃げだそうとしたのだ。町の人たちは猟銃などの武器を持って山狩りをし、小男を殺してしまう。その現場をKと警察官のIは目撃した。
この物語展開は「熊狩り」という小説の主題を見えにくくしてしまっている。時代を過去や未来に設定するならともかく、現代日本のどこを探しても、一度入ったら二度と抜け出せない町など存在しない。つまり「熊狩り」は最初からある〝喩〟の物語である。喩の物語であればあるほど、現実の枠組みは強固でなければならない。なんら普通の社会と変わりのない日常が、喩の観念性を消す効果を持つのである。暴力や殺人といった取り返しのつかない事件は、かえって現実離れした小説の観念性を際立たせてしまう。
「どっちの方向にいきました?」
「峠のほうさ。すぐ見つかっちゃうだろうなあ」
課長の声音は、やはりどこか残念そうだった。Kがあいまいに返事をすると、課長は峠のほうへと足取り軽く向かっていった。(中略)
右手を腰に回して銃を取り出した。銃把を握りしめ、撃鉄を起こす。自分でも一切わからなかった。この町にいつしかすべて溶け込んでしまったのかもしれない。やはりこの町は生き物だ。そしてこれは免疫だ。反射といってもいいかもしれない。そんな反応に善悪などないし、それについて言う言葉を持ち合わせてもいない。どこにいてもそれは同じだ。(中略)
Kはそう確信すると、峠へと駆け出した。
(同)
小男の秘書に続いて、警官のIも〝熊狩り〟にあって殺される。Kは逃げるつもりでIと計画を練っていたのだが、Iは単独行動を起こして殺されたのだった。そしてまた逃亡者が出る。Kと同棲していたMという女性だ。しかしKはいつのまにか町の一員となっている。町の人たちといっしょに、警官のIが残した拳銃を手にして山狩りに加わるのだった。
「どこにいてもそれは同じだ」という言葉に表れているように、Kは生きている人間なら決して逃れられない法や規則を意識して、自ら町の住人になったのだと言っていい。しかしその説得力は低い。枚数的にも内容描写的に不十分だ。法(規則)はそれが絶対だと認識した者にとってのみ実体あるものとして立ち現れる。法を破る者の殺害は主題ではない。抽象的だが実在する不可解な法の力をこそ描かなければならない。
砂川氏は文学の世界にとって〝奇貨〟のような作家なのではないかと思う。この作家はこの人にしか書けない知見を有しているのではなかろうか。ただまだ主題の追い詰め方が足りないと思う。リアリズム小説であれ喩的な観念小説であれ、作家自身が囚われている息苦しい世界の本質を描けば優れた作品が出来上がるだろうと思う。
大篠夏彦
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