『臨済禅師一一五〇年 白隠禅師二五〇年遠諱記念 禅-心をかたちに-』
於・東京国立博物館
会期=2016/10/18~11/27
入館料=1600円(一般)
カタログ=3000円
禅の展覧会ねぇ。うーんと思いながら見に行った。めったに開かれない種類の展覧会ではあるのだ。地味な展覧会だろうなと予想していたが、予想を裏切らず全体的に地味でした。もうずいぶん前に、これも東博で冷泉家の秘宝展を見たことがある。藤原定家直筆の、今は活版本の底本になっている『古今和歌集』や『更級日記』などの写本が展示されていたが、美術展ではガラス越しに大勢の人が作品を見る。ちっちゃい写本に迫力があるはずもない。実物を見たという目の経験は残るが、つくづく展覧会向きじゃないなぁと思った。質は違うが禅の展覧会も似たような感じだった。視覚に強く訴える展示物は少なかったですね。
ただ本物を見ると、なにかがわかるようになるのも確かである。仏教系の遺物は仏像が代表的だが、鎌倉時代になって動きのある像が造られるようになっても、それらには高い精神性を備えた崇高さがある。もちろん禅の像も崇高なのだがいわゆる仏像とはぜんぜん違う。生々しいのだ。優れた禅者は「禅に物は不要だ。ではなぜ像や墨書が大切に守り受け継がれてきたのかと言えば、必要のない無用物だからこそ大切なのだ」云々といった、例によって例のごとき逆説的説明をするだろう。それはまったく正しい解釈に違いない。禅は無と悟りを中心とする宗教だが、密教系の仏像の方がその姿だけ見れば遙かに悟っている。
『達磨坐像』
木造 彩色 玉眼 像高八三・三 鎌倉時代 十三~十四世紀 京都・円福寺蔵
今さらの説明だが、禅は釈迦が始めた仏教の流れの一つである。禅の教義の基礎を作ったのは菩提達磨とされる。南インドのタミル系の王族の一人と伝えられるが、六世紀初めに南北朝・宋の時代の中国に渡り、彼の地に禅宗を広めた。日本には十三世紀初めの鎌倉時代に伝わり、時の為政者らの庇護を得て主に貴族や武士らの支配者階層に広まった。京都・円福寺に伝わる『達磨坐像』は日本で最も古い達磨像の遺例の一つである。カッと両眼を開いて坐禅を組んでおられる。眼を強調するためにガラス(玉眼)が入れてある。
達磨と言えば坐禅で、面壁九年――壁に向かって九年間坐禅を組み身じろぎもしなかった――で手足が腐ってしまったという伝説があり、それが今も日本各地で作られているダルマさんの形になった。努力と辛抱と大願成就を祈念する縁起物である。実在の人物かどうかは疑問があるが、達磨を中心とする禅の教義集団がいたのだろう。
中国では文化は常に皇帝の周囲で華開く。達磨もまた梁の武帝に謁見して庇護と教義の普及を求めた。しかし武帝は肯わなかったと伝えられる。禅がキリスト教エッセネ派のような厳しい戒律を持つ禁欲教団だったことは確かで、慧可という僧侶が入門を求めたが達磨は許可しなかった。そのため慧可は自分の左肘を切り取って決意を示し、ようやく入門を許可されたのだという。祖師が手足が腐っても坐禅を続けた人なのだから、弟子もそのくらいの覚悟が必要だということかもしれない。慧可が中国禅宗の祖である。
『慧可断臂図』雪舟等楊筆
紙本墨画淡彩 縦一八三・八 横一一二・八 室町時代 明応五年(一四九六年) 愛知・齊年寺蔵
『慧可断臂図』は左下の款記から、雪舟晩年の七十七歳の作だとわかる。慧可が切り取った左肘を達磨に差し出しているところが描かれている。ベースは水墨画だが、達磨と慧可の顔、それに慧可の左肘だけ淡く彩色してある。雪舟は現存する真作が二十五点ほどということもあり、その全貌がなかなか把握しにくい。『慧可断臂図』は具象画と言っていいが、摩訶不思議だなと思い始めると、宗教画ということもあってとても奇妙な絵に見えてくる。
背景の岩や人物の顔は詳細に描いてあるが、達磨と慧可の衣は柔らかく淡い墨である。特に達磨の衣の白が目立つ。内面は柔らかく純白だが外面は峻厳だという解釈もできる。ただはっきりとした答えは導き出しようがない。その意味で色々と考えさせられる優品である。ただ雪舟は十歳で京都相国寺に入山して春林周藤に師事した禅者である。守護大名・大内氏の庇護を受け、遣明船で明時代の中国に渡って絵を勉強したエリート中のエリートでもあった。雪舟は禅の修行を行いながら絵を描いた画僧であり、彼の絵が禅の思想を体現してることは間違いない。
また雪舟は日本の水墨画の始祖的位置づけである。禅宗系の画僧は盛んに雪舟を模写し、その画風を学ぶようになった。ただもちろん禅宗から墨で絵を描く水墨画が生まれたわけではない。中国では古くから水墨画が盛んだった。紙に筆で文字や絵を描いていたのだから当たり前の話である。中国では禅の伝播以前から、世捨て人的な隠者画家が水墨画を好む傾向があった。それが室町時代の日本で禅と水墨画が結びつく機縁になった。
実際、室町時代は水墨画全盛期である。絵画から色が失われるのは異常と言っていい事態だが、それを当然とするような精神風土があったのである。世界を殺伐とした無常観で捉える心性である。その無常観は鎌倉末期の吉田兼好の『徒然草』によく表現されている。また室町前期には観阿弥・世阿弥親子によって能が確立される。幽鬼が現れてその晴れることのない怨念を繰り言のように語る幽玄劇である。室町時代になると禅の思想が消化されて、日本独自の形態に発展していったということでもある。
『臨済義玄像』
絹本着色 縦一五六・二 横七二・七 室町時代 十五世紀 京都・大徳寺蔵
臨済宗を始めたのは時代も下って唐時代の禅僧・臨済義玄である。図の『臨済義玄像』は日本の室町時代に作られたもので、大徳寺に伝来した。椅子に座り履床が表されていることからわかるように、中国の本歌を写している。よく見ると鼻毛と耳毛が伸びている。古い時代には身だしなみを気にしなかったということではなく、禅の修行者は身なりにかまわないという意匠である。
唐時代は古代中国全盛期で、首都長安は当時世界最大の都市だった。ペルシャなどから頻繁に商人が往来する国際都市でもあり、空前の文化・経済的繁栄を誇った。唐時代になると中国の仏像はふっくらする。焼物も同様で、内側から膨張してゆくような丸味を帯びた形のものが多い。それは当時の外へ外へと膨らんでゆくような時代精神を表している。ただそういったバブル的な時代には、必ずと言っていいほど裏面で反動的精神が動く。臨済義玄の苛烈な禅がそうである。質素を旨とし、ひたすら修行に励むことを奨励した。臨済の言行録『臨済録』が禅の基本図書であるのは言うまでもない。
『明庵栄西像 絶海中津賛』
絹本着色 縦九三〇 横三八・五 南北朝~室町時代 十四~十五世紀 京都・両足院蔵
この臨済宗を日本に初めて伝えたのが鎌倉時代末の禅僧・明庵栄西である。比叡山延暦寺で得度して天台密教を修めたが、二度宋に留学して禅を学ぶことになった。帰国後京都だけでなく鎌倉にも下向し、北条政子建立の寿福寺の住職にもなっている。後に鎌倉二代将軍・頼家の庇護で京都に建仁寺を建立した。日本の臨済宗の開祖であり、建仁寺開山である。『喫茶養生記』を表して茶の普及の寄与した禅僧としても知られる。日本の茶道が禅宗と強い結びつきを持っているのは栄西が機縁である。
臨済宗を始めとする禅宗は為政者たちの厚い庇護を受け、鎌倉・室町時代には学問と修業の中心になってゆく。その理由は平安時代末の源平合戦と、室町時代前期の南北朝時代の争乱にある。南北朝時代に続く戦国時代が、日本に決定的に禅宗的心性を根付かせたのだと言っていい。
平安時代の仏教は神秘主義的な密教が中心だった。薄暗いお堂の中で濛々とお香を炊き込め、僧侶たちが大音声で経典を唱えるのを聞きながら、まざまざと仏の来迎を幻視するような宗教である。一種のトランス状態で浄土を垣間見る宗教だった。しかし凄惨を極めた源平合戦は人々の心に大きな傷を与えた。
鎌倉時代初期に成立した『平家物語』は無常観に貫かれているが、まだまだ平安王朝的な雅の物語である。壇ノ浦で二位尼(平清盛の正室)は安徳幼帝を抱いて入水した。尼は「浪のしたにも都のさぶらうぞ」と幼帝に話したと『平家物語』は伝える。しかしそんなことがあろうはずもない。凍るような冷たい海の底に沈んだのだ。また今上天皇が入水して果てるなど前代未聞だった。後にも先にもこの時しかない。
時の為政者鎌倉府をはばかってか『平家物語』は雅の意匠でまとめられたが、実際はどんなに残酷な戦いが繰り広げられたのか当時の人たちは知っていた。浄土など信じられるものではなくなっていたのだ。また鎌倉追討の院宣を出し、承久の乱に敗れて隠岐の島で崩御された後鳥羽上皇は『新古今和歌集』を編んだ。『新古今』には板東武者に対する京都の文化的優位を誇る意図がある。『平家物語』にもそういった含みがあるだろう。
平家の横暴は都の貴族を悩ませたが彼らは宮廷武士だった。板東武者の世になってそれがはっきりしたのだとも言える。兼好は『徒然草』で『平家』の著者は信濃前司行長だと書いている。行長は九条兼実に仕えた貴族という説がある。兼実は鎌倉初期を代表する大知識人だった。鎌倉府との折衝に苦労し、最後は失脚した貴族でもある。
この『平家物語』的無常観は、室町前期の南北朝時代にさらに深化する。室町時代は雅な平安文化と勇壮な戦国・桃山時代に挟まれて、日本史の中ではちょっとくすんで見えるようなところがある。しかし近代にまで続く日本文化の骨格は室町時代に形成された。奇妙な時代なのだ。『太平記』とは皮肉な表題だが、それを読めば南朝、北朝に分かれて戦った武士たちが、その時々の利害によって簡単に味方を裏切り、また和合して昨日までの味方と戦ったことがよくわかる。約十一年間続いた室町末の応仁の乱にも同じことが言える。なんのために戦っているのか、戦いそのものの大義が見失われるような戦乱だった。
この時代の為政者たちの心性は能楽によく現れている。死者が出て来て怨念を語る劇を為政者たちは好んで見ていたのだ。さすがに『平家物語』などから採られた過去の死者ばかりだが、為政者がそこに昨日自分が滅ぼした死者たちの声を聞いていたのは疑いない。もちろん倒錯したマゾヒスティックな心性ではない。能の死者は自分であったかもしれないという無常観が為政者たちの心にあった。殺伐とした現実を見すえながら、なおもその彼方にある救済を得ようとする心性だとも言える。世阿弥の娘婿・金春禅竹は禅に傾倒したが、当時の人々の心にピタリと合っていたのが禅だった。あらゆる宗教と同様に禅も心の救済を求めるが、その基盤は現世にある。(後編に続く)
鶴山裕司
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