「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
コオロギと殺し屋 (3)
対象の男を、今日はじめて彼は見た。
これといって特徴のない外見、30代で美容整形の開業医を務める人間としてのごく平均的な容姿をしているように見えた。整えられた前髪、コートを掛けるスタンドか何かのようにまっすぐ伸びた背筋、ベルト部分の金具にあるキーホルダーにはシャネルのマークが見えた。30代で美容整形の開業医の、ちょうど平均値を測った見た目として、男は完璧なように見えた。そんな知り合いは彼にはいなかったけれど。
調査というには大げさかもしれない下調べを終えて、自分の住むマンションに戻ることにした。彼の部屋は5階にある。いつもはエレベーターで向かうが、その日はエレベーターがいつまで経ってもこなかった。
3分ほど、だったと思う。
エレベーターを待つ時間としてはちょっとした時間だ。
エレベーターの現在地を示す電光掲示板は、ずっと2階を指していた。
「む」
またしゃっくりが出そうになる。
何かの本か、ネットの情報で見たうろ覚えな知識だが、しゃっくりの根本的な原理というのは未だによくわかっていないらしい。彼にとってそれはとても不思議なことのように感じた。タンパク質の形状をも捉えることのできる現代医学において、しゃっくりの原理がわからないということに矛盾があるように思えるのだ。
エレベーターはまだ来ない。
諦めて、彼は階段で自分の部屋まで戻ることにした。そのついでに2階のエレベーター前を覗いてみると、数人の作業着姿の男たちがその周辺に集まっていた。
「どうかしたんですか」
彼の問いに数人の男たちは揃って彼を見た。しばらくの沈黙のあと、そのうちのひとりが「故障です」と答えた。
「ご迷惑おかけしてすみません」
「さっき故障という連絡を受けたばかりで」
「まだ皆さまへのお知らせもままならない状況なんです」
男たちはそれだけ言って、またエレベーターのほうに視線を戻してしまった。
「そうですか」
彼は頭を軽く下げて会釈をしてその場をあとにすることにした。男たちは作業着を着て、故障したエレベーターの前に集まってはいるが、何か作業をしているというよりもまだどういった作業をするかの相談なのだろうか、小声でぼそぼそと話し合っていた。
――まだしばらくかかりそうだな。
3階へ向かう階段に足をかけたところで振り返ると、男たちはまだ何やら相談をしている。世界の終わりのあと、自分ひとりだけが閉じこもる予定の電話ボックスを、彼らが直してくれているような気分になる。
「む」
まだしばらくはかかりそうだ。
*
佐藤さんの話によると、ハシモトさんはエンマコオロギである可能性が高いらしい。もちろん、ここでのハシモトさんとは取次先のではなく、コオロギのほうのハシモトさんのことだ。
「日本ではいちばんポピュラーなコオロギですよ」
ハシモトさんの容姿を伝えたところ、佐藤さんは迷うことなくそう言った。
さすがは歯医者だ。
いや、ミスチルを好きな先生なだけのことはある、と彼は思った。
「でも、ちょっと不思議ですね」
「何がですか」
「そんな一箇所にじっとしているような虫ではないんですけどね。コオロギそのものが」
「へえ」
*
成虫の体長は26—32mmほど。背面は一様に黒褐色、覆面は淡褐色だが、体側や前翅は赤みを帯びる。体つきは太短く、頭部から腹部までほぼ同じ幅でこれまた短く頑丈な脚がついている。(中略)
オス成虫は鳴き声を発して他個体との接触を図る。前翅を立ててこすり合わせ、「コロコロリー…」とも「キリリリー…」、「ヒヒヒヒヨヒヨ…」とも聞こえる鳴き声を出す。通常の鳴き声は長く伸ばすが、オス同士が遭遇し争う際は鳴き声が速く、短く切る「キリリリッ」という声になる。(以上、Wikipediaより引用)
*
全体に黒褐色、頭部はつやがある。大型のコオロギ。顔のマユ形の模様により、エゾエンマ、タイワンエンマなどを見分ける。8月頃出て、コロコロリーと鳴く。美しい鳴き声である。跳ぶ力が強い。また、夜かなりの距離を飛ぶ。雑食で草原や畑にふつうにみられる。体長20−25mm。(以上、『フィールド図鑑 昆虫』(東海大学出版会)より引用)
*
エンマコオロギは、コオロギ科、コオロギ亜科に属し、体長は20—25mm、体色は黒褐色で、みるからにガッチリした体形をしています。
わが国にいるコオロギのなかでは最も大型のものの一つで、はやいところでは八月はじめごろから、都会、農村をとわず、いたるところでその鳴き声を聞くことができます。
「コロコロ……」と連続的に美しい声で、すばらしい鳴き方をしますが、あまりにもありふれた虫であるため、鳴く虫としての評価は低いようです。(以上、『昆虫の飼い方Ⅱ』(文研出版)より引用)
*
電話が鳴った。
「ファックス送ったの、見た?」
天使からだった。
丁寧にもエンマコオロギについての資料を探して、彼宛に送ってくれていたのだ。おせっかいな天使。いや、天使とはそもそもおせっかいな生き物なのかもしれない。
「いま、見てる」
「ほんとはもっと送りたかったんだけど」
どれも似たような内容だったし、あんまり専門的に過ぎるとかえって読みにくいかなと思って、そのくらいにしたの、と彼女は電話口で言った。おせっかいな天使。
「書いてあるとおりなんだけど、基本は雑食で、まあこれはコオロギ全般に言えることらしいね。体の色はどの資料でも「黒褐色」って書いてた。不思議ね、みんなで示し合わせたみたい」
「たしかに」
「面白いのは鳴き声の部分かな。本によっていろんな書き方をしていて、けれど「コロ」っていう擬音はどこでも使われているのね」
「送ってもらったうちのひとつには「鳴き虫としての評価は低い」とまで書かれてるけど」
ああ、うん、そう。
「それはだいぶ昔、ええと1975年に出版されたやつだね」
「古い資料のなかには、そういう書き方をしているものもあるってこと?」
あくまでも目安として、だよ。
彼はソファーの上で資料を見比べる。
背中側にある本棚の隅には、今もハシモトさんがいる。2本の触覚が彼の知らないところで揺れている。
「ウィキペディアだけ、体長がひと回り大きく書かれているのはなんでだろう」
「そうなの。資料としてはウィキペディアがいちばん新しい。次に新しいのはポプラ社の2007年」
「どういうことだろう」
「もしかしたら」
「もしかしたら?」
「コオロギのサイズは、年々大きくなっているのかもしれない」
それはつまり。
「どういうことだろう」
天使はもう一度言った。
コオロギのサイズは、年々大きくなっているのかもしれない。
つづく
コオロギと殺し屋 (4)
男は自宅から勤め先の建物まで車で移動する。
4ドアタイプのBMWは、昨日洗車されたばかりかのように艶(つや)がある。彼は男の乗っているそれのテールランプが交差点の向こうに消えるのを確認して、その場を立ち去ることにした。
男に不審な点は特に見当たらない。
独身の開業医という立場にふさわしい、分相応の身なりをしているように見える。
もうこれ以上、男について調べる必要はない。
同時平行して調査している老人についてもそうだ。
彼らについて調査した情報を資料にしてまとめると、必要な情報はA4用紙1枚で済んでしまう。書くべきことがあまりないのだ。
彼らはあまりにも平均的に過ぎた。
なんていうか、世界のバランスを保つためだけに彼らが存在しているかのようでもあった。
もちろん、そんなはずがないのだけれど。
彼はもう一度、昨晩の電話で天使に言われた言葉を思い出す。
「コオロギのサイズは、年々大きくなっているのかもしれない」
昆虫に詳しい歯医者の佐藤さんに相談してみようかとも思った。
――たまにね、歌ったりもします。
――ええ、ギター片手に1歳になったばかりの息子の前でも歌います。すると今まで泣いてた息子が。
――また余計に泣いちゃうんです。あんまりやるとかわいそうなので、そうなったらすぐに演奏をやめることにしています。
佐藤さんに話すのは止めよう。
なぜかそう判断する自分がいた。
嫌な予感がした。
*
エレベーターはまだ故障中だった。
作業着姿の男たち数人が、あいかわらず2階に止まったままのエレベーター前で何やら話し合っていた。話の内容は聞き取れないほどに小声だった。
彼は階段で自分の部屋に戻る。
電話が鳴った。
「ずいぶんと苦戦しているようだったから」
ハシモトさんだった。
その口調に彼を責めている様子もなく、ただ事実を述べている雰囲気が彼にも伝わってくるので、特に不快感は覚えない。
「苦戦、というわけでもないんですけど」
「他の人に回す?」
いえ、と彼は首を振った。
電話の向こう側にいるハシモトさんにその姿は見えるはずがなかったので、代わりにコオロギのほうのハシモトさんに向けて首を振る。
ふと思い立って、訊いてみることにした。
「コオロギって、ハシモトさんは詳しいですか」
「こおろぎ」
「はい」
虫についてはあんまり自信がないな、と苦笑するような声が漏れた。
「コオロギのサイズが、もしかしたら年々大きくなっているかもしれないらしいんです」
サイズが?
はい、コオロギの。
「なるほど」とハシモトさんが言った。
しばらくの沈黙があった。
「あなたはそのことが、とても気になっている」
「とてもっていうわけではないんですけど」
またしばらくの沈黙があった。
どうやらハシモトさんはコオロギのサイズ感について真剣に考えてくれているようだった。彼はまた彼女に好感を憶えた。
そういえば、彼の部屋にいるハシモトさん(すなわち、コオロギのほうのハシモトさん)が鳴いているのを、彼は聴いたことがなかった。相変わらず、本棚の隅でぴくりとも動かない。動くのは触覚だけだ。
ファックスが送られてきた。
エンマコオロギは日本で最も大きなコオロギで、庭や畑、野原でふつうに見られる。成虫が現れるのは8月頃で、交尾を終えためすは産卵管(さんらんかん)を地面に刺し、卵を産みつける。繁殖を終えた成虫は10月頃までには死んでしまう。(以上、『原色ワイド図鑑 昆虫Ⅱ・クモ』(学習研究社)より引用)
天使から、エンマコオロギに関する追加情報だった。
横に天使の筆跡と思われる走り書きがあった。
「サイズについての情報はなし、ただし文研社と脱皮の回数で違いあり。文研社は8回から10回と個体によって違うとあり、学習研究社は脱皮の数を6回と断定している」
ハシモトさん、と彼は電話の向こうの相手を呼んだ。
なに。
「脱皮するっていうことはどういうことなんでしょう」
「専門でもないけど、脱皮っていうのは身体を大きくするためにするものなんじゃないかな」
身体を大きくする。
「ハシモトさん」
「なに」
「やっぱり、今回の依頼分は他の人に回すことにします」
「うん、それがいいと思う」
ひとつの案件にかかりっきりになるのが良いことになるとは限らないから、とハシモトさんは言った。
電話が切れたあと、彼は今までの調査分を資料としてハシモトさんの元にファックスを送った。年代物の家庭用ファックスは、送信ボタンを押すとピーピーガーガーと唸り声をあげる。
嫌な予感がした。
彼はソファーから立ち上がって、天使が集めてくれたコオロギの資料と携帯電話を持った。コオロギのほうのハシモトさんに手を伸ばして、そっとその身体をつまんでみた。何の抵抗もなく、ハシモトさんは彼の手のひらに乗ることを許した。
部屋を出る。
どこに行くべきか、と彼は思った。
自分が何を思って外に出ているのか、自分でもよくわかっていない。けれど嫌な予感がした。とにかく遠くに行かなければ、という想いだけは奇妙な確信として彼の中にあった。
慌てていたのかもしれない。
エレベーターが故障中だということをすっかり忘れていた彼は、5階のエレベーター前で下降ボタンを押したところで、その事実を思い出した。
「む」
上にある電光掲示板の「5」という数字のランプが点灯した。つい今しがた故障が直ったのかもしれない。彼は乗り込んだ。乗っているのは彼ひとりだ。
あの作業着の人たちは、また次の壊れたエレベーターのところに向かったのだろうか。それにしてもずいぶんと直すのに時間がかかったものだ。コオロギは彼の手のひらの上で、じっと黙ったままでいる。
人を殺すのに大切なのはその人物の過去ではなく、現状だ。
「む」
その言葉を彼に教えてくれたのは誰だったか、彼は覚えていない。もうすぐ1階に着くというそのときに、エレベーターの中が大きく揺れた。
「直ったわけじゃないのか」
エレベーターは2階で止まっていた。
目の前の扉が開くわけでもなく、狭い個室に彼とハシモトさんが閉じ込められる形になった。
そう、エレベーターはまだ故障しているかもしれない。
コオロギのサイズは、年々大きくなっているかもしれない。
思わず手を握りしめた。そこから汗がじんわりと吹き出すのを肌で感じた。
電話をかけるべきだ、と彼は思った。
誰に?
誰かに。
世界の終わりのあと、自分ひとりだけ電話ボックスに閉じこもっている。扉の向こうでは作業員の男たちが何やら話し込んでいる。
握りしめた左手の中で、コロコロと鳴く声が聴こえた。
おわり
参考及び引用文献
『ある島の可能性』(角川書店 二〇〇七年)
著:ミシェル・ウェルベック 訳:中村佳子
『ルリボシカミキリの青』(文藝春秋 二〇一〇年)
著:福岡伸一
傘を書かない世界の話
どこかの作家が、この世界は漢字の「傘」の字に似た形をしていると書いていたことを思い出した。
あいにく僕は字がへたくそだ。僕の書く「傘」は、バランスがめちゃくちゃでひどくかっこ悪い。うまく書けるようになれば、僕のいる世界もいろいろうまくいくようになるのかもしれない。
字のうまい人。
真っ先に思いつくのが彼女だった。
彼女の書く「あ」は、左下の丸っこい部分の面積を多めにとっていて、それはたぶん、決められた書き方からすると、なんていうか、あまり「良くない」書き方なのかもしれなかったけど、僕からすればとてもかっこ良く見えた。
彼女はよく夢を見る。
「あなたの顔をした人が製鉄工場でヨーグルトを食べているの。機械の取り扱い説明書はトルコ語で書かれていて、あなたはヨーグルトを食べ続ける。生産がいつまでも再開されない」
「僕が?」
そう、と彼女はうなずいた。
別に僕はトルコ語が堪能なわけでもないし、製鉄工場で働いていた過去もなかったけど、とりあえず彼女の夢に出てくれたことはうれしかった。
心の中で「よくやった、僕」と自分に言った。
僕は褒めて伸びるタイプなのだ。
「ねえ」
「なに」
「その、僕は君の夢によく出てくるのかな」
「まさか」
初めてだよ、と彼女は言った。
僕はくじけないことにする。
僕は褒めて伸びるタイプなのだ。
「Y染色体って知ってる?」
彼女が言う。
「聞いたことある」
「そう、あなたでも聞いたことあるくらい、有名なもの。男を男にするもの、それがY染色体」
僕はくじけないことにする。
「じゃあ、Y染色体を発見した人は?」
考えたこともなかった。
だからいくら考えたところで答えは出ないことだけははっきりとわかった。
僕はあきらめて首を振る。
「ネッティ」
どうやらそれがその発見者の名前らしかった。
女性らしい。
男を男にする染色体を発見したのが女性という、なんともいえない皮肉な話を彼女がしたかったのではないような気がした。
二人の間に気まずい沈黙が流れた。
沈黙が「流れる」ものなのかどうかはとりあえず置いておくとして、そんな気がしたのだからしかたない。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
僕はただ、「傘」の字の書き方を彼女に教えてもらいたかっただけなのに。
もうひとつ、彼女との思い出について書こう。
彼女は犬を飼っていた。
名前をクリント・イーストウッドといった。
「なんでそんなめんどくさい名前にしたの」
クリント・イーストウッドはちっとも僕に懐いてくれず、彼女の足元に寝そべりながらちらっとこっちを見たかと思うと、目を閉じた。
「泳げるから」
「泳げると、どうしてクリント・イーストウッドなの」
「昔、そんな名前をした豚がいたから」
その豚は泳げたらしいから。
僕がすべてを理解できたとはとても思えないけど、それは彼女なりの世界を記述する方法だったのかもしれない。
僕?
僕はいつも肝心なことを忘れてしまう。
ネッティのこともそうだ。
そして僕は彼女に「傘」の漢字の書き方を教えてもらうはずが、とうとう忘れたまま彼女とは別れることになってしまった。
世界は漢字の「傘」の字に似ている。
僕はいまでも、傘の字をうまく書くことができない。
生産はいまだ再開されない。
僕はまだヨーグルトを食べ続けているのかもしれない。
おわり
参考及び引用文献
『紙の動物園』(早川書房 二〇一五年)
著:ケン・リュウ 訳:古沢嘉通
『観光』(早川書房 二〇一〇年)
著:ラッタウット・ラープチャルーンサップ 訳:古屋美登里
(第27回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■