「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
府中のヴォネガットへ
バン、バン。
なんですか、僕はいま忙しいんです。
バン、バン。
僕はいま、ここで世界中の銃の弾を撃ち尽くすことにしたんです。今もどこか、工場的なところで銃の弾は生産されていることでしょう。その生産速度よりも早く弾を撃たないといけません。
バン、バン、バン。
ペースを速めることにしまうま。いや、しました。
時には冗談を言うことだって大切です。
アメリカを代表するSF作家という肩書きをもつヴォネガットは、自分のことをSF作家と思ったことは1度もないそうです。大切なのはユーモアだと、彼の自伝には書かれていました。
バン、バン、バン。
本物の発砲音はそんな陳腐な音じゃない?
いいんです。だって僕は本物の銃なんて撃ったことがないんですから、雰囲気さえ出ればそれでいいんです。本物か偽物かなんて、僕にとってはどうでもいいことなのです。
現実はいつも非情です。現実を仮想世界にうまく置き換えるにはどうすればいいのか。それは少しだけ形を変えることにあるような気がします。
バン、バン、バン。
切手蒐集(しゅうしゅう)家のチャールズ・フィスクが学校で切手の盗難にあったとき、彼の友人であるドナルド・エヴァンズは彼のために盗難に遭ったことを記念とする切手を描き、発行したことがあるらしいです。平出隆はそのことを「現実における悲しい欠落を、まったく別の世界の愛らしい出現に変えること」と表現してみせました。
バン、バン、バン。
銃を撃ち続けるという行為はとても孤独な作業です。
それは初めて無人ガソリンスタンドでガソリンを入れる行為によく似ている気がします。他の車は見当たりません。自分ひとりで初めて車の給油口の蓋(ふた)を開けるときのあの不安な感覚が、今も僕の右手に残っています。
僕はその右手でコーヒーを飲み、車にガソリンを入れて、そして銃を撃ちます。右手はいつも僕と孤独を共有してくれる存在でした。逆に言えば、右手こそが孤独の証なのかもしれません。そう思うと、すこし複雑な気持ちです。
バン、バン、バン。
右手について考えるとき、僕はいつもすこしだけ昔のことを思い出します。あれは埼玉県にある大学の改修工事に関わっていたときのことです。
僕は当時、足場を組む仕事をしていて、府中に住む鳶職の兄弟と一緒に関東圏内の現場をあちこち回っていました。
そのとき、僕は弟のほうと組んで屋上に足場の材料を運んで、4段ほどの足場を組むことを任されていました。兄弟とも身体が大きくて、僕よりも多く経験を積んでいました。僕よりも年下でしたが、そんな彼らに僕は敬意を払うことができました。彼らは僕よりもヴォネガットの教えを忠実に守っているような気がします。彼らがヴォネガットを読んでいたかどうかはわからないけど。
作業は予定よりも早く終わりました。最後に足場と建物をつなぎとめるための「つなぎ」用の穴をドリルで空けて、そこに当て込むだけになりました。
埼玉の街が一望できるほどに高くはない建物でしたが、それでも屋上から望む景色は日頃の現場作業の疲れをすこしだけ忘れさせてくれるほどには美しいものでした。僕らはなんとなく作業の手を止めて、屋上からそういう景色を眺めていました。まだ「つなぎ」を打つ前でした。
弟が足場のパイプを右手でぎゅっと握りしめました。
「何してるんですか」
「つなぎになってるんすよ」と弟は答えました。
「俺ね、将来はこうやって、つなぎ屋になろうかなと思ってるんすよ。足場をバラす日まで、こうやって足場をつなぎ続けるんです」
「いいですねえ」
「いいでしょ」
つなぎ屋になるのが俺の夢なんすよ、と彼はもう1度言って足場をつなぎ止める右手に力を込めるかのように、肩を揺らせてみせました。
府中のヴォネガット。
彼らと会わなくなってもう何年も経ってしまいました。
バン、バン、バン。
今頃、あの弟はどうしているのだろうか。
彼があのとき、足場に伸ばしたその右手で僕は銃を打ち続けています。今になって、あのとき彼の右手は足場をつないでいたわけではなかったのかもしれないと思うのです。僕には見えない銃を撃っていたのかもしれません。
僕ですか。
僕は本当は銃なんか撃っていないのかもしれません。
未だに無人ガソリンスタンドで給油する方法がわからずに、給油口の蓋を右手で持って辺りをうろついているだけかもしれません。
「つなぎ屋か」
あれは果たして冗談だったのか本気だったのか、もうわからなくなってきました。
バン、バン、バン。
他に車は見当たりません。
代わりにひとつ、黒い影が遠くのほうに見えました。
もしもあれが本当にしまうまだとすれば、僕はいったい現実世界でどんな悲しい欠落をしてしまったのでしょうか。
ああ。
おわり
キツネをつかまえないで
本当に見たい映画はひとりで見に行くことにしている。
ここ数年、僕はひとりで映画を見に行ったことがない。
もしかしたら僕は、人生をじゅうぶんに生きてはいないのかもしれない。人生をじゅうぶんに生きるということは、本当に見たい映画を見に行くこととよく似ている気がする。
ベランダのある部屋に住んだことがない。
ベランダのある部屋に住むことが当面の僕の目標だ。僕以外の世の中すべての人が、ベランダのある部屋に住んでいるような気持ちになるときがある。そんなはずないのに。
1匹のキツネが僕を見ている。
「なに、見てるの」
彼女に訊かれたから、素直に僕は見たままを答えた。
「キツネ?」
どうやら、そのキツネは僕にしか見えないらしい。
いつかベランダのある部屋に住むことになれば、そのキツネも見えなくなってしまうような気がした。それは少しこわいことのように思えた。ベランダのある部屋にはまだ住まないことに決めた。
ひとりで映画も見ない。
この世は「突かれていないビリヤード台」に過ぎない、という考え方があるらしい。
球をどのくらいの力で、どの角度で突くか、突いたその瞬間にすべては決定している。僕たちは決められたとおりのプロセスをただ見守ることしかできない。素粒子のひとつひとつを球に見立てることで、世界は途方もない球数のビリヤード台になる。
最初の球が突かれたとき、すべては決定している。
「どうしたの?」
また彼女が声をかけてきた。
いま、あの子は洗面所で自分に生えてるはずもないヒゲを剃っている。僕が毎朝ヒゲを剃るのを見て、真似したくなったらしい。
「なんでもない」
誰かが突いた球の延長線上に、必要のないシェービングクリームを顔に塗りたくる彼女と、あのキツネがいるのだとすれば。
あんたはとんでもなくビリヤードが下手くそなのかもしれないね。
おわり
真夜中にたったひとつしかない靴に
真夜中に行う掃除ほど楽しいものはない。
流し場のステンレスを磨き、普段は気に止めない窓枠のサンを水拭きにかける。冷蔵庫の裏にたまった埃はブラシをかけた。
すべては何もかもがこっそりと、ささやかに処理される。
この「ささやか」というところがとても重要だ、と男は考えている。変化というものは常に自分たちの知らないところで起きている。
それは世界にひとつしかない靴を今まさにつくろうとするような、そんなささやかさだ。
今、男は仕事で一人の若いボクサーを取材している。
彼はとてもハングリーな人間だった。
ハングリーとは飢えていることだ。
隼人という名のその選手は試合に飢え、ボクシングに飢え、空腹に飢え、お金に飢え、何よりも幸せに飢えていた。
そこには膨大ではないかもしれないが厚みのあるストーリーが横たわっていた。
幼い頃に父親の事業が失敗したせいで一家離散した隼人の家族はそれ以降離れて暮らすようになり、若いうちからお金を稼ぐ手段としてボクシングを選んだ。
「タイは日本よりも二年早くプロになれるんです」
はにかみながらそう答えた隼人はまだ二十歳だった。
チラシ配りのアルバイトをしながらのプロ生活を続けている彼は言った。
「家族で暮らせるようになりたいですね」
それは人生に疲れた老いからくる答えにも、男には思えた。
少なくとも思春期を抜け出したばかりの細い体躯しかもたない少年の吐くセリフとしては、いさかかロードムービー寄りだった気がする。
男はひと通りインタビューが済むと隼人に言った。
「しばらくはそばで写真を撮ったり、カメラを回していたりしていいかな」
「しばらくってどのくらいですか?」
訊ねる隼人の声には不安の色が含まれていた。
無理もない、と男は思った。
「長くても1週間くらいかな、試合が近くなればこちらも寄り付かないようにする。だいじょうぶ、すぐ慣れるよ」
嘘だった。
男は少なくとも1ヶ月は彼に密着することにしていた。
「わかりました」
安心したように隼人は応じると、髪の毛の先をくるくると指でいじりだした。そんな仕草に初めて年相応の笑顔を垣間見た。
男は自分がスポットライトを浴びるような人間ではないことを、どこかで完全に理解していた。長い人生の中ではもちろん主役の舞台が全くなかったわけではない。だがそのたびに男は、たとえそれがうまくいったとしても人に言いしれない疎外感を感じずにはいられなかった。
――俺は光を当てる側の人間だ。
暗闇の中で必死に壁に張り付いているように見えるヤモリに。
孤独に耐えながら幼稚な夢を追いかける若いボクサーに。
そのとき男は自分を極力空気だと思い込むようにしていた。
そこにいるけれどいない存在、いても気にも留められないものとして、ただ在ることを目指した。隼人のそばで男はシューズ置き場の古い木棚になり、ストーブ用の灯油を入れるポリタンクになり、汗臭い空気のように隼人のそばにいて彼を眺めた。
ときどき自分の息子のことを思い出した。
男が夜中に掃除をするようになったのは、3年前に離婚してからだった。
なぜだろう、と考える。
答えは未だに見つからない、
ただ楽しいと感じるようになっていった。
「まだいたんですね」
隼人が出会った時と同じように、はにかんでいた。
「僕なんか取材して本当にお金になるんですか」
「ささやかだけどな」
素直にそう言った。
世界では今もどこかでたったひとつしかない靴を作り続ける人がいる。真夜中に掃除をしていると、そんなことを考える。
たぶんだけど。
そんなことを「ささやか」と呼ぶのかもしれない。
おわり
(第28回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。
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