「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
キャベツ理論
セーターを脱ぐことができなかった。
仕方なく、セーターを着たまま会社に行って、そのまま仕事を済ませた。誰からも何も言われなかった。セーターを着たままキーボードのキーを叩いて1日を過ごした。
それからというもの、ずっとそのセーターを着たままでいる。どうしても脱ぐことができない。お風呂に入るときも、寝るときも、デートするときもずっとそのセーターを着たままでいる。誰からも何も言われなかった。僕はセーターを着たままセックスをして、セーターを着たままで掃除機をかけた。布団も干した。付き合っている彼女から突然、別れましょうと提案されたときももちろん、僕はそのセーターを着ていた。
「なんで」
僕からすれば、僕たちはとてもうまくいっている関係だと思っていたから、彼女からの提案は少なからず僕を驚かせた。
彼女は首を振った。
「たぶん、このままアタシと一緒にいても良いことなんてないよ」と彼女は言った。それはおかしい、と僕は思った。彼女は僕の気持ちを代弁しているかのように言う。僕はちっとも「良いことなんてない」とは思っていないのに。僕がセーターを着たままだからだろうか。
「ずっと言えなかったことがあるの」
「なに」
僕が訊くと、彼女は答えた。
「あのね、アタシの奥歯にはいつからかずっとキャベツの切れ端がはさまったままなの。どうしてもとれないの。もう何年も」
こんな女と一緒にいても、良いことなんてないよ。
彼女は悲しそうにそう続けた。
僕は言った。
「気にすることなんてないよ」
僕はセーターを着たまま、そう言った。
「でも、嫌でしょ」
「なにが」
「キャベツの切れ端が奥歯にはさまっているような人間と一緒に歩くのは」
僕は言った。
「気にすることなんてないよ」
セーターをずっと脱ぐことができない事実を彼女に打ち明けようかすこし迷ったけど、僕はもう一度言った。
「気にすることなんてない」
もちろん、セーターは着たままだ。
僕たちは乗っていたバスを降りた。
たぶんだけど。
世界中の人間の奥歯にはキャベツがはさまっていて、みんなセーターを着たままなんだ。
「気にしなくていいよ」
僕はもう一度言った。
おわり
コオロギと殺し屋 (1)
彼は殺し屋だった。
殺し屋だったが、それを除けばごく平凡な青年にすぎなかった。いや、殺し屋であることすらも、彼の平凡さに拍車をかけているのかもしれなかった。
彼は極力孤独ということでもなかったし、人並みに恋をしたこともあった。夜更かしもするし、ドトールにもよく行く。数種類のポイントカードを携帯してるし、インターネットでこっそり自分の名前を検索してみたこともある。ユーチューブも見る。
休日には散髪をして歯医者に行く。待合室で自分の番が来るのを待ちくたびれたりもする。
殺しの依頼は取次先からのファックスで知る。
そういった連絡手段は今時にしては珍しく、いくらか古風な、もっと言えば古臭い手段だったのかもしれないが、彼自身はそのやり方を気に入っていた。依頼の内容が最後に紙媒体で残るのはどこか奇妙な安心感を彼に与えてくれた。その他多くの企業人がそうであるのと同じように。
半年ほど前、ウェブ上でのデータ送信に変えてみてはどうかと取次先のハシモトさんから提案されたこともあった。
彼は断った。
「紙のほうが落ち着くんです」
ハシモトさんはうなずいて、それ以上深く踏み込んでくることはしなかった。そんな彼女に、彼は好感を覚えたことも憶えていた。ハシモトさんとは彼がこの仕事についたときからずっと一緒に、パートナーというほどでもないけれど、だいたいの事務的な連絡は彼女がしてくれたから、彼にとってはパートナー同然の存在でもあった。
おそらく彼女には他に多くの「彼」のような存在がいるのだろう。その想像はほんの少しだけ、彼をイラつかせたりもした。
*
ある夜のこと。
彼は依頼が来るのを自分の部屋でのんびり待っていた。
べつに今夜来なくてはいけないわけではなかったし、明日来なくてもよかったけれど、他にとくにやることもなかったので、あえて何をしていたのと聞かれたら、仕事の依頼が来るのを待っていたと答える程度には、暇を持て余していた。
ふと、自分の腰掛けているソファーの背中側に配置した本棚の隅に、なにやら動くものを見つけた。2本の線が宙に浮いて揺れている。
「む」
目を凝らしてみると、それらの線はどうも触覚であることがわかった。あいにくと彼に触覚をもつ知り合いはいない。となると、不法侵入者ということになる。
「む」
少しだけ困っていることがあるとすれば、さっきからしゃっくりが止まらないことだ。テーブルの上に置きっ放しにしていた携帯電話が鳴った。相手が誰か確かめもせずに彼は通話ボタンを押した。
「やあ」
天使からだった。
別に天界の住人というわけではなく、神様と何かしら密接な関係のある人物でもない。彼より5歳年下の、これまたごく普通の女の子だ。ただ、ひたすらに善いことを行うために全力を尽くす女の子だから、彼は勝手にそう呼んでいた。
彼女は自分で働いたお金の1割を必ず親へ仕送りし、それとは別に実家のリフォーム代を負担した。学生時代に勤めていたカフェで接客業を経験したが、帰郷するたびに休日はそのお店を手伝う時間に割いていた。友人の悪口を別の友人に打ち明ける場面を一度も見たことはなかった。そんな子は、彼のまわりには彼女ひとりしかいなかった。
「やあ」と彼も言った。
「電話してくるなんて、む、珍しいじゃ、む、ないか」
「どうしたの」
「しゃっくりが、む、止まらないだけだよ。気にしなくて、む、いい」
「アタシが気になる」
ちょっと待ってて、と言われて電話は唐突に切れてしまった。
結局、肝心の用件を告げることなく会話は始まったと思ったとたんに終わってしまった。
まあいい、と彼は思った。
しゃっくりしている男と話したがる人間なんて滅多にいるものでもない。もっとも彼女は天使だから、もしかしたら話したがるかもしれないけど、現に電話は切れてしまった。
「む」
眠気に包まれていた思考をそこまで巡らせたところで、彼はこの部屋にいたはずの不法侵入者の存在を思い出した。
もう一度、本棚を振り返る。
2本の触覚が相変わらず宙に浮いている。いや、実際に浮いているわけではなく浮いているように見えるだけだ。そこで彼はそれの持ち主が何かに気づいた。
それは1匹のコオロギだった。
「む」
どこから入り込んできたのか、本棚の片隅にじっと息を潜めるようにその触覚をふわふわと揺らしている。何かを待っているようでもあった。殺しの依頼待ち、というわけでもなさそうだ。
「やあ」
天使にした挨拶と同じ言葉を投げてみた。返事などあるはずもないが、とくべつ邪魔な存在でもなかったので、彼はその不法侵入者を歓迎することにした。
思い浮かべたのは、仕事で交流のあるひとりの女性だ。
ハシモトさん。
それは小さな不法侵入者の名前に似合っているような気がした。
「ハシモトさん」
もちろん返事はない。
人間のハシモトさんにしたら、コオロギに自分の名前を与えられることを不本意に思うかもしれないが、まあいい。
コオロギのほうのハシモトさんはその場から1歩も動かない。
ハシモトと勝手に名付けられることに俺だって不本意だよ、と不満を漏らすこともせずに、黙って触覚を揺らす。
また電話が鳴った。
世界の終わりのあと、自分ひとりだけ電話ボックスに閉じこもっているような気分にもなる。今度は誰からの着信かを確かめると、また天使からだった。
「やあ」と、天使。
「やあ」と、彼も言った。
部屋にいたコオロギにハシモトさんと名付けたことを彼女に報告しようか一瞬迷って、やっぱりやめた。なにせ天使なので、こんな夜にわざわざコオロギの好物を持ってきてしまうかもしれない可能性を捨てきることはできなかった。
「しゃっくりを止める方法を調べてきたよ」と、天使が言ったところで彼は気づいた。
「ごめん」
「なに」
「しゃっくり、止まってる」
「なんだ」
ファックスはまだ来なかった。
つづく
コオロギと殺し屋 (2)
殺し屋について書かれた小説というのは世の中に五万とある。
あまりにも多くありすぎるので、ここはとりあえず日本語で書かれたものに絞る。それでもまだたくさんある。なかでも少し変わったふたつの小説について、ここでは取り上げることにしよう。
ふたつの作品に共通するのは、どちらも殺しの場面が描かれない点にある。
ひとつは殺しの受注に焦点が当てられ、いかにその殺し屋が殺しの注文を受けるかについて書かれている。
もうひとつは、なんと殺し屋すらでてこない。ただ「殺し屋」という単語の登場する頻度が高い。物語の主人公は壁紙を張り替えるクロス屋であり、基本は電話で仕事を受けるらしいのだが、どうも滑舌に問題があるせいか「殺し屋」と聞き間違えられてしまう、といった内容のものだ。
どちらの話もひどく短い。
そして人を殺す場面はでてこない。
*
アサギマダラという美しい蝶がいる。
「とても美しいのです。なんていうか、他に形容できない色をしているものでして」
殺し屋の彼はいま、休日を利用して歯医者に来ていた。
彼の通う歯医者はやけに生き物が好きで、今日も診察の最中に話しかけてきた。
もうずいぶん長い間、その歯医者以外にかかったことがないので、果たして歯医者というのはこんなにもおしゃべりなのかと疑問は抱いていたが、疑問のままで止まっていた。
もちろん歯の診察を受けているので、口を開けっ放しにしてろくに返事もできないような状況に彼がいるなかでも、平気で話しかけてくる。
今日はアサギマダラについてだった。
「どうやらその蝶はとても長い距離を移動して、それこそ2000キロは超える距離です、日本にやってきます。その蝶がどうやって日本に来るのか、というのは調査して判明しかけているらしいのですが、なぜそんな移動をするのかということに関しては、今もわからないままなのです」
蝶の話は15分ほど続いた。
ほんとうは、コオロギについてその歯医者に相談しようかと思い、歯の治療はむしろそのついでだったのだが、おかげですっかり聞きそびれてしまった。
「お疲れ様です」
診療が終わり、歯医者はひととおり話すことに満足したように着ていた白衣の腰のあたりをぽんぽんとたたいた。
話が終わったから診療もとりあえず終わりということにしたのかもしれないし、診療が終わったから話を途中でやめたのかもしれないけど、彼にはどちらが真実かなんてどうでもよかった。
世の中にはある事象が真実かどうかで、まるでその事象そのものの価値が変わってしまうかのように思ってしまう人もいるようだが、彼はそういうタイプではなかった。
お気に入りのミュージシャンがいて、いつも歌っている曲が実はカバー曲だったということが判明することでガッカリする人とそうでない人がいたとする。彼は後者のほうだった。
そういえば。
彼は目の前で白衣を着た人物の、白衣を着ていない場面を見たことがなかった。
「先生は」
「はい」
「好きなミュージシャンとか、いるんですか」
「わたしの、ですか」
「もちろんです」
白衣の胸の部分につけられたカードには「佐藤」と書かれていたのでその人物が「佐藤」ということを彼は知っていたけど、どうしても「佐藤さん」と呼ぶことができなかった。そういう呼び方は、白衣を着ていない「佐藤さん」を知っている人だけの特権のように彼には思えた。
そして、彼は「先生」ではなく「佐藤さん」と呼びたいと前から思っていた。
寂しがりやな殺し屋もいるのだ。
「ミスチルとか、好きですよ」
「へえ」
クラシックかエレクトロニカの作曲者の名前でも出てくるのかと思いきや、日本のポップミュージシャンと呼ばれてもおかしくない名前が出てきたことに彼は驚いた。
「たまにね、歌ったりもします」
「歌うんですか」
「ええ、ギター片手に1歳になったばかりの息子の前でも歌います。すると今まで泣いてた息子が」
「どうなるんですか」
「また余計に泣いちゃうんです。あんまりやるとかわいそうなので、そうなったらすぐに演奏をやめることにしています」
なんだ、とがっかりする彼を前に先生は「そううまくはいきませんよ」と、笑った。もしかしたら、その話は先生なりのジョークかもしれないな、とも彼はそのとき思った。
その話が真実かどうか、彼にはどうでもよかった。
ただ先生がそういう話を自分にしてくれた、その事実が彼を高揚させた。
*
殺しの依頼がきた。
いつもどおり、ファックスから印字された紙には(人間のほうの)ハシモトさん直筆の角のない丸みを帯びた字が並んでいた。
「あ」の2画目がやたら下へ大きくカーブを描くのも彼女の特徴のひとつだ。
その癖に気づいたとき、彼はなんともいえない満足感を抱いたりもした。線のように細い彼女の体躯からは想像できない、丸い「あ」は、なんていうか、歯医者の先生がミスチルを歌うことを知ったときと似たような気持ちが彼の心に現れた。
紙を手に取ると、そこには決められたフォーマットに従って対象人物の情報が大まかに記載されていた。
履歴書と違うのは、その事物が過去に何をしていたかどうかが一切書かれていない点にある。人を殺すのに大切なのはその人物の過去ではなく、現状だ。
対象人物の年齢は38歳、男性だった。
情報によれば美容整形クリニックの開業医で、趣味はドライブらしい。まだ独身で一人暮らし、都内に一軒家をかまえている。期限は3ヶ月と書かれていたので、やりようはいくらでもあった。
そこまで目を通したところで、彼は本棚の隅に目をやった。
そこには相変わらず(コオロギのほうの)ハシモトさんが不機嫌そうに触覚を揺らせてひとり、居座っていた。
何度かそれっぽいエサ的なもの、きゅうりや白菜の切れ端をそばに置いてみたりもしたのだが、手を(足?)つけた様子はなかった。
ただ逃げることもせず、それどころかその場から移動することもなく、ずっとその隅っこに留まっていた。
コオロギという生き物はそんなに動かないものなのだろうか。
コオロギ(蟋蟀、蛬、蛩、蛼)は、昆虫綱バッタ目(直翅目)キリギリス亜目(剣弁亜目)コオロギ上科の総称である。
分類体系によってはコオロギ科ともなるが、指し示すものは同じである。
田畑、草原、森林、人家の周囲などの地上に生息するが、乾燥地、湿地、山地、海岸など環境によって見られる種類は異なる。ほとんどのコオロギは夜行性で、日中は草地や石の下、穴など物陰に潜むことが多い。中には洞窟性のものやアリヅカコオロギのようにアリの巣に共生するものもいる。触角、尾毛、耳などの感覚器や鳴き声はこれらの暗い空間に適応したものである。夜間に地上を徘徊する種類には飛翔して灯火に飛来するものもいる。
完全な草食や肉食もいるが、ほとんどが雑食で、植物質の他にも小動物の死骸などを食べる。小さな昆虫を捕食したり、動物性の餌が長らく手に入らなかったり、脱皮中で動けない同種個体と遭遇した場合、共食いをすることもある。飼育下でも雑食性の種類は植物質と動物質の餌を適度に与えた方がよい。脱皮後のコオロギの羽は白色をしており、しばらく時間をかけて羽が固まり黒っぽく色付いていく。また、自身の脱皮した抜け殻を食べる習性がある。(以上、Wikipediaより引用)
彼はネット情報のなかでもウィキペディアを特によく漁った。
完全な信頼を置いてもいなかったが(それは知り合いのサメ好きな友人から「サメに関してはウィキペディアに書かれている事柄の3割ほどが間違っている」という話を聞いてからのことで、それまでは全幅の信頼を置いていたといってもよかった)、それでも子ども向けに作られた図鑑のページと同じかそれ以上に詳しく、コオロギに関する内容が載っているようには思えた。
電話が鳴った。
世界の終わりのあと、自分ひとりだけ電話ボックスに閉じこもっているような気分になる。
天使かとも思ったが、そうではなかった。
「こんばんわ」
ハシモトさんだ。
「さっき、ファックスを送ったんだけど」
「はい、ちょうどいま、確認してました」
「内容は」
「大まかなところだけ」
そう、と電話口の向こうで彼女の吐息が聴こえた。
ハシモトさんも「世界の終わりのあとの電話ボックス」にいるのだろうか。いや、コオロギののほうのハシモトさんのほうがそこに近い場所にいるのかもしれない。
彼はコオロギのハシモトさんのことを人間のほうのハシモトさんに言おうかどうか迷って、やっぱりやめた。
「できる?」と、ハシモトさんから訊かれた。
「たぶん」
「もし無理そうだと思ったらすぐに連絡してください。進捗はいつもどおり思い立ったらでかまわないから」
「わかりました」
電話が切れた。
他の多くの仕事がそうであるように、取りかかるべき案件がいつもひとつとは限らない。むしろ重なっていることがほとんどだ。
いま、彼は先にふたつほど調査が必要な案件を抱えていた。
最初のころはひとつの案件をやり遂げるのに精一杯だったし、それを何とかこなすことができるようになると今度は複数の案件に追われる事態に陥った。
それらを管理する方法を覚え、今では自分のリズムで仕事に取りかかることが出来るようになった。ハシモトさんとよく会うようになったのも、それからだ。それまではファックスと電話でのやり取りがほとんどだった。
棚に収められたファイルのひとつに手を伸ばす。それをめくり、現在進行中の案件に関係する内容が書かれている場所にたどり着く。
明日、都内にある大学病院に入院している老人の様子を見に行って、そのついでに今回新たに依頼された男の家も見てこようと思い立った。
ファイルでの管理方法を彼に教えてくれたのは天使だった。
*
彼は天使と寝たことが一度だけ、ある。
寝た、というのはもちろんふたりで同じベッドで睡眠を迎えたという意味以上のことであり、詳しく描写することもできないわけではなかったが、ここでは省くことにしよう。
どこかの作家が「ほうっておいても人はセックスする。わざわざ書くことでもない」と言っていたような気もする。
もっともそれを引用するためにたった今、はっきり書いてしまったけど、そんな小事は気にしないほうがいい。気にするべきことは他に山ほどある。
新宿でのことだ。
天使と大衆向けの居酒屋でずいぶんとたくさんのお酒を飲んだ。彼も彼女もお酒が強いほうではなかったけれど、ふたりで気分が悪くなることもなく、笑い声の続く食卓になった。
帰り際、彼女を埼京線の改札手前で送ることにして、彼はポケットに入れていた手を出した。
天使が振り返って言った。
「このまま帰る?」
「うーん、べつに帰らないでいることもできるけど」
「どうしようか」
「だって、そっちは明日も仕事で朝早いんだろ」
「うん」
天使はその場に立ち止まっていた。彼女の後ろではたくさんのひとたちが改札口に列を為していた。1匹の大きな生き物のようにそれはゆるゆると絶え間なく動いていた。天使はその場に立ち止まっていた。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
彼も新宿のホテル事情に詳しいわけではなかった。その日に泊まったホテルはひどかった。部屋の浴室に浴槽はなく、トイレも一緒だった。シャワーは蛇口をひねって5分ほどしないと温かくならなかった。結局、天使は事が終わったあとシャワーを浴びもせずに1時間だけ寝て、起きてむっすりとした表情で化粧を直していた。
「そろそろ行くか」
そう彼が声をかけると、天使は黙ったままうなずいてまだ暗い新宿の朝をふたりで歩いた。たぶんだけれど、あの夜は「寝る」という意味においてはひどく失敗したのだと彼は思っている。でも、変わらずに天使は連絡を彼に寄こす。
特にそのことについて深く掘り下げるわけでもなく、かといって無かったことにするわけでもなく、天使はたまに彼の様子を心配してくれているように見える。
たぶんだけれど、彼女は天使なのだ。
つづく
(第26回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。
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