『ブルターニュの老女』
縦八一×横五四センチ 油彩 一九六七年
『Robert Coutelas 1930-1985』(エクリ)より
『月の光の住人たち』
縦一一六×横八〇センチ 油彩 一九六七年
同
岸氏によれば『ブルターニュの老女』は、一九六七年に「三日三晩描き続けて一気に完成させた」作品である。クートラス作品ではほとんど唯一の具象人物画だがモデルはいない。またクートラスは同年に『月の光の住人たち』を描いている。恐らく『ブルターニュの老女』の後に描かれたのだろう。これも人物画だが完全な抽象画である。この二つの作品をクートラスは生涯大事にした。
翌一九六八年にクートラスは最後の画廊契約を結ぶわけだが、その前年に二つの異なる人物画を描いたことになる。具象と抽象人物画だが、それは底の方で繋がっている。『ブルターニュの老女』はクートラスの心の中に棲んでいたある根源的なイマージュだと言える。それを彼はできるだけ明瞭な形で描いた。しかし描いてしまうとそのイマージュは無限に分裂してゆく。『月の光の住人たち』はその最初期の溢れ出しだろう。
画廊と契約解除してからのクートラスは、基本的に彼の中で蠢く人々しか描かなくなる。クートラスにしか為し得ない錬金術の時代が始まるのだ。それは魔女が使う魔法の作用と同じで、無価値の木の葉であると同時に本物の黄金でもある。
ただこのような魔法を使うには、プロの画家なら当然了解している既存の〝作品概念〟を捨てなければならない。美術界での作品とは、完成・完結し十分な流通価値を持つアート作品のことである。一つの作品で完璧を目指す画家が多いのはもちろん、意図的な破綻の欲望を抱えていても、その直前で手を止めるのがプロの画家というものだ。
しかしクートラスはそのような作品概念を放棄してしまう。比較的大きな作品を、時には未完としか思えないような乱暴な筆遣いでサラリと描く。号数(絵の大きさ)で値段が決まるアート界の常識に逆行して、小さな作品にいつまでも手を加え続けたりする。普通の画家ならほぼあり得ないことだが、素材も気にかけない。ポスターの裏紙やボール紙を使い、拾ってきた木の板に絵を描く。グァッシュより油絵の方が価格が高いというアート界の常識も完全に無視している。
だがそれはクートラスが、素人画家のように自分の楽しみで絵を描いたことを意味しない。彼はプロの画家であり、どんな場合でも作品は完成・完結していなければならないことを知っていた。しかしアトリエに籠もるようになってから、クートラスの中で作品の完成概念が変わってしまう。彼の内面で蠢く人や物に形を与えてやることが作品の完成になる。それが客観性を持ち、完成・完結しているのは、クートラスが形を与えてやった人や物が彼のものであって彼のものではないからだ。それは遠いところからやって来た。
大金持ちとまではいかないにせよ、クートラスは画廊仕事が金になることを知っていた。だから貧は究極を言えば意識的選択だったろう。ガラクタからこの世で最も美しい美術品を作り出すのだ。それがわかっていなければ貧困の中で、嬉々として、以前にも増して精力的に仕事を続けることはできない。クートラスの美的規範は現世のそれと決定的にズレていたが、彼の作品たちがその正しさを証明している。
『僕の夜のコンポジション(リザーブカルト)』
各縦一二×横六センチ ボール紙・油彩 一九七〇年
『Robert Coutelas 1930-1985』(エクリ)より
『無題』
縦一〇・五×横八・五センチ テラコッタ 制作年代不明
『ロベール・クートラスの屋根裏展覧会』(エクリ)より
『僕のご先祖様』
縦四九・五×横三五・五センチ 紙、グアッシュ 一九八一年
『Robert Coutelas 1930-1985』(エクリ)より
クートラスは画廊時代から「カルト」(フランス語で「カード」のこと)と呼ばれるタロットカードのような作品を作り始めた。これもゴミ捨て場にあったダンボールなどを拾ってきて、それをカード型に切って作った作品である。生涯で六千点近くのカルトを作った。それをクートラスは『僕の夜のコンポジション』と呼び、最も自信のある作品を「リザーブカルト」、別名「親方の獲り分」と名付けて散逸しないよう指示した。他のカルトと比較すれば「親方の獲り分」の出来はずば抜けている。制作は一九七〇年だが、クートラスはそれに手を加え続けた。色を塗り重ね、削り、時にはアイロンをかけたりタバコの火で焼け焦げを作ったりしている。
クートラスはまた、彼が〝詩人〟と呼んだアトリエの暖炉でテラコッタ(素焼き陶器)作品も作った。ほとんどが小品だが、割れたり欠けたりしても完成した作品として扱った。見れば一目瞭然だが、それらは古代の発掘品のようである。クートラスが呼び出し、呼び出されていたイマージュはヨーロッパの古い文化基層に根ざしたものだった。「親方の獲り分」とは神的な何者かへの捧げ物といったくらいの意図だろう。ただそれは必ずしもキリスト教の神ではない。もっと古く、またつい最近まで偏在し存在していた神性である。それをはっきり示しているのが、これもクートラスが生涯に渡って描き続けた『僕のご先祖様』シリーズである。
『僕のご先祖様』は正面か横顔が多いが、実に多様な作品群だ。これらが古いお城や旧家に飾ってある肖像画の抽象形であるのは明らかである。写真がなかったこともあり、ヨーロッパでは中世初期から数多くの肖像画が作られた。爆発的に増えるのは宗教改革が起こった十六世紀末以降である。宗教改革は偶像崇拝を禁じたので、多くの宗教画家が肖像画家に転身したからだと言われる。新興ブルジョワジーの台頭も肖像画の需要を呼び起こした。ヨーロッパに行けばわかるが、ちょっとした歴史のある家でもたくさんの肖像画を飾っている。美術館に収蔵された肖像画はそのほんの一握りの貴重なものだけなのだ。
クートラスは若い頃石工として働き、古い教会のステンドグラスや宗教画、教会の外壁や内壁を飾るレリーフに魅了された。短期間美術学校に通ったがアカデミックな絵画教育はほとんど受けていない。ほぼ独力で絵を習得した。そして彼は孤独だった。母親は美人だったが浮気なパリっ子で、幼い頃いっしょに住んでいた男は恐らく本当の父親ではないと岸氏に語った。母親は再婚したが、浮気癖が元でたびたびトラブルを起こした。「画家になりたい」というクートラスの夢を、母親も継父も「浮き世離れしている」と言って止めた。パリ生まれだがリヨンで育ったクートラスは、ほぼ無一文で単身パリに戻って画家として頭角を現した。しかし母親とは音信不通のままで、画廊仕事でまとまった金が入ったので送金すると戻ってきた。母親は既に亡くなっていて共同墓地に葬られていた。継父の行方も知れなくなっていた。
日本人が幼い頃から見慣れている浮世絵や山水画に食傷しているように、多くのヨーロッパ人もまた宗教画に飽き飽きしている。子供の頃から家の壁に掛けてある、さしたる価値もない肖像画も同様である。現代画家で宗教モチーフを作品に取り入れるのは、熱心なキリスト者かアンチ・キリストという裏返しの宗教者のいずれかである。クートラスも聖母子像や大天使ミカエル像などを描いた。しかし彼の絵には宗教的パッションがほとんど感じられない。それらはみな〝僕のご先祖様〟なのだ。宗教画も肖像画も教会や屋敷の薄暗がりの中にある。家や社会の大きな変化がなければ、いつまでも注目されずに飾られたまま忘れ去られている。
クートラスが壁に掛かっているご先祖様の肖像画を、それを固定する額縁や壁ごと描き、時には彼自身をモデルにした肖像画を描いたのは、そこに居場所のないクートラスの居場所があったからだろう。クートラス作品にはほとんど動きがない。人や物は拭っても拭っても、拭い去れない傷のように描かれる。カルトはもちろん最良の『僕のご先祖様』シリーズでも、クートラスは完成してからそれに手を加え古色を付けようとした。骨董趣味ではない。動かしがたく消せもしない傷のような絵にしたいのだ。昔からそこにあって、普段は気にしていないが、なくなると寂しい作品にしたいのである。宗教画題であれ恐ろしく俗な画題であれ、クートラスにとってそれは聖痕だ。クートラス作品はヨーロッパ文化の基層的イマージュの反映であり、そこに新たな聖痕を付け加える作品でもある。
『僕のご先祖様』
縦五九×横三五センチ 紙、グアッシュ 一九八〇年
この作品も今年のGallery SUの展覧会で飾られていた。本棚と額縁に入ったご先祖様の肖像画である。クートラスは一九三〇年生まれだから、生きていれば今年で八十六歳である。同時代人だと言っていい。ただ僕はどうしても彼に会ってみたかったとは思わない。僕は物書きの端くれだ。物書きも画家も、地球上にある言葉や絵の具といった、恐ろしく限定された貧しい素材を使って、素材以上の何事かを表現しようと苦しんでいる。しかし思考回路がまったく違う。昔ある画家に「嫌いなものはなんですか?」と聞いたことがある。その画家は顔色を変えて、「思い浮かべるだけでも不愉快なのに、それを言わせようなんて君はどうかしている」と吐き捨てた。僕が偏愛する優れた画家たちはそういった受け答えをする。
だから、本物の画家とは言葉を使ってコミュニケーションしようとしてはいけないのだ。現世では表現しようのない何事かを表現しようとする創作者同士として対峙すればいい。まともな物書きが草稿を見せたがらないように、すっかり創作が終わったアトリエに行って気に入った絵を黙って買うだけで十分だ。クートラスは魔女のように木の葉を金貨に変えるから、その理解者はポスターの裏紙に描かれた絵に金のグラム数に等しい現世のお金を払うだろう。当然の対価だ。アトリエの前を通りかかったら、連れに「あそこに住んでいる画家は魔法使いなんだ」と囁けばいい。ただ作家は作品がすべてである。作家を神格化するなど馬鹿げている。クートラス作品は現実のクートラスよりもクートラスらしい。「やあ」と挨拶を交わす、画家で魔法使いのクートラスおじさんでいいのである。(了)
鶴山裕司
■鶴山裕司詩集『国書』■
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