『貞子3D』2012年(日)監督:英勉
監督:英勉
脚本:藤岡美暢、英勉
原作:鈴木光司『エス』
キャスト:
石原さとみ
瀬戸康史
高橋努
染谷将太
配給:角川映画
上映時間:96分
世界的な人気を誇る『リング』シリーズの最新作ではあるが、本作は強烈な不安と恐怖を醸し出した『リング』(98)とは完全に別の方向性で勝負しているように思われる。すなわち「自虐」の方向性だ。
「自虐」という〝滑稽さ〟を狙っているわけだから、そこには〈怖さ〉と〈笑い〉が混在する。そのため本作の恐怖表現は、ショック音で観客を幾度となく驚かせようとしているだけであり、極めて陳腐な恐怖表現となっているだろう。しかしそうした馬鹿げた恐怖演出、あるいは観客が「なんだ、全然怖くないじゃないか。ここまでバカバカしいと笑ってしまう」という溜息は、意図的に創造されたものであり、そうしたバカバカしすぎて笑ってしまうという突き抜けたユーモアこそ本作の一つの魅力であるように思われる。そう考えれば観客を嘲笑させる恐怖表現は、「恐怖を生み出すために演出された恐怖表現」というよりも「馬鹿馬鹿しさを生み出し、滑稽なユーモアを体感させるために演出された自虐表現」と言えるのではないだろうか。
では『貞子3D』では、いかなる構造によって「自虐的ホラー」たる作品を作り上げているのだろうか。本作における脚本構造と映像におけるユーモア表現を紐解いていく前に、異質な人物描写について見ていくとしよう。
■ホラーにそぐわない言動の美学■
本作における人物描写は滑稽だ。ジャパニーズ・ホラーに時折登場する刑事たちは、しばしば理屈的で超常現象や都市伝説を信じないものだが、本作はそうしたJホラーの約束事を逆手にとり、刑事たちを自虐的に見せている。田山涼成演じる刑事は、若者の言葉についていけず、終始若手の刑事に流行の言葉やメディアについて解説してもらうし、若手の相棒刑事は「やばいっすよ」と刑事らしからぬ言葉を喋り、(貞子の髪の毛を表すかのように)鬘をかぶって「こういう女が…」と呟きながら自殺する。このような一連の言動は、ホラー映画において最も威厳さを持ち、ユーモアに欠けるはずの刑事たちの肖像を逆転させたものであって、演技によって観客を恐怖させるという従来の表現手法ではない。むしろ人物の言動によって観客を嘲笑させることを狙った演出であり、そこには意図的で戦略的な自虐的ユーモアを垣間見ることができるだろう。
こうした自虐的な滑稽さを狙った〝ユーモア溢れる恐怖描写〟は、刑事たちだけではない。石原さとみ演じる主人公が、幼少期に体験した超能力の描写も優れてバカバカしい。『X‐MEN2』(03)に登場するキャラクターのように、叫ぶと高周波を出すという特殊能力、すなわちSF映画というジャンルにおける約束事がホラー映画という枠組みの中で堂々とシリアスに描かれている滑稽さは、タランティーノ作品に見られる混成映画としてのユーモアを体感させてくれるだろう。もはやそこに、ぎょっとさせるような恐怖はない。あるのは突き抜けた馬鹿馬鹿しさであり、ユーモラスな恐怖である。
そのため「登場人物の描写が酷い」という論考は、本作において少々的外れかもしれない。「描写が酷い」ことこそ、荒唐無稽を愉しむハッタリの美学なのだから。
■ハッタリの美学■
超能力の描写(ガラスが吹き飛ぶCG)。何度も何度も同じ構図で描かれるディスプレイから飛び出す手。街中のあらゆる画面からゾンビのように腕を伸ばして這い出てくる貞子軍団。そうしたインパクトの強い描写を必要以上に繰り返し見せつける脚本構造からもわかるように、本作は他の凡庸なホラー映画とは違い、意図的に自虐性を創造していたように思われる。しかも序盤から徐々にその滑稽さは、恣意的に強められていく。
例えば、テレビやパソコン画面からゾンビのように飛び出す程度にとどまっていた貞子が、ついに古井戸から這い上がってくるシーン。『リング』の名シーンを3Dで再現したかのように、カメラは井戸から出てくる貞子の手をクロース・アップし、観客の期待を最大限に煽る。しかしそこで観客は驚愕するだろう。なぜなら井戸から這い上がってくるのは、上半身が貞子で下半身が蜘蛛のようになっている怪物版貞子なのだから!こうした馬鹿げた貞子の肖像は、貞子が井戸から這い出てくる名シーンを自虐的に表現したものであり、それは近年ネットで見ることができる可愛い貞子のアニメ画像の滑稽さと似ている。しかも明らかにCGとわかるそのような怪物の姿は、馬鹿げた自虐性がフル稼働したことを知らせる大きなサイレンとしても機能していた。案の定、井戸から這い上がった怪物は夜空にジャンプし、刑事の首元に噛みつくから爆笑必須のユーモアではあるまいか。
『クローバー・フィールド』(08)や『スターシップ・トゥルーパーズ』(98)、『バイオハザード』(01)といったハリウッドのモンスター・ホラー映画に見られる慣例的なグロテスク描写を身につけた貞子。彼女はもはや、かつての「呪い殺す」という呪術的行為や怪談的恐怖をはく奪された怪物と言って良いだろう。すなわち本作において貞子は、もはや自虐的ユーモアを体現する表現の一つとして位置付けられているのである。
また序盤で気弱な女教師として描かれた石原さとみ演じる主人公の変貌ぶりもまた驚愕である。なぜなら彼女は序盤で築かれた人物像が嘘のように、終盤では女座頭市と言わんばかりのアクションを見せつけるからだ。背後から飛びかかってくる怪物貞子を鉄の棒で一瞬にして粉砕し、貞子怪物の顔面を突き刺し、蹴飛ばすわけだが、彼女は一向に怯えることなく、まるで自分が武術の達人であるかごとく誇らしげに戦うから滑稽である。
そう考えると「貞子との肉弾戦」「蜘蛛女と化した貞子」といった滑稽なホラー描写は、『呪怨』(02)の登場によってジャパニーズ・ホラーの「見せない恐怖演出」が崩壊し、「貞子」のイコンが大々的な宣伝(例えば貞子の始球式。貞子の軍団が渋谷を歩き回るPRなど)やバラエティ番組によってキャラクター化され、コメディ化された現在において、とりわけ適切な演出だったと言えるだろう。あえてバカバカしさを前面に押し出し、作品を通して恐怖から滑稽さへと緻密に移行させた本作は、新たなJホラーの活躍を期待させてくれる良作であった。
だが、もちろんこのような自虐的ホラーは、観客に恐怖を与えることだけに焦点を当てた純粋なホラー映画が量産されて初めて効果を発揮するものであり、本作のような自虐ホラーが量産されてしまったら意味を成さない。そういう意味でも本作はジャパニーズ・ホラーのメルクマールではあるものの純粋なホラー映画としては評価されるべき作品ではないだろう。だからこそ従来のジャパニーズ・ホラーの枠組みを超越する新たな日本製ホラー映画が求められるのだと思う。今後のJホラーの動向に注目である。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■